9、egoism



黄色っぽいお茶は、ほんのりと苦みがある。
「すっきりとした味ね。美味しい」
「ほんまや」 
 感嘆する二人に伊織は、にこにこ笑っている。
「来る途中で買って来てくれたの?」
「ううん、通販よ。初めて買った時から愛飲してるの」 
 ごくごくと菫子は飲みほした。
 カップを置いてゆっくりと飲んでいる涼とは大違いだ。
 8畳ほどの洋室は、後ろに間仕切りが置かれていて空間が分けられている。
 間仕切りに凭れるように涼が座っていた。
「菫子が馬鹿って言ってたけど、草壁君、時間に遅れたの?」
「永月、馬鹿はひねくれた愛情表現なんやで。もう慣れたわ。
 遅れてはないんやけど……また何かあったに違いないな」
「またって、前にも何かあったのね。それも含めて話してくれるんでしょ」
「ふ、二人して迫らないでよ。大したことじゃないの」
 菫子は壁際まであとじさった。
 涼は、菫子が口を開くのを見守っていた。
「その……バイト仲間に気に入られちゃってるみたいで」
 菫子は伊織にこの間涼に話したことを説明したが、伊織は特に
 驚いた風もなく、さもありなんと言う顔をした。
「……草壁君が心配になるのも無理ないわね」
 涼はひとしきり頷いている。
 菫子は、目を泳がせた。
 後が怖いので、観念して話し始める。
「事務所で遭遇しちゃって、話がある風だったけど、
 私にはないってことをきっぱり言ったのね。
 その時、腕掴まれて痛かった」
「大したことないの? 怖かったでしょ」
 菫子は首を横に振った。
「……しつこすぎるねん。俺こそくっそーって言いたいわ」
 涼は伊織がいるにも拘わらず、隣りにいた菫子を抱きよせて抱えこんだ。
 伊織は震える菫子の手をぎゅっと握っている。
「菫子が突然フェロモンを漂わせ始めたものだから、引き寄せられちゃったのね」
「付き合っている人がいるって伝えたのにどうしてまだ関わろうとするの」
「今まで興味がなかったけど他人のものになると急に惜しくなったってことじゃない」
 伊織の結論に、菫子はまだ思考がついていかない。
 いつの間にか涼の膝の上に乗せられていた。
「……身勝手な」
「菫子……バイト行くの憂鬱じゃない?」
 改めて聞かれ、苦笑いし、頷いた。
「いっそのことあのコンビニ辞めろや」
 一瞬、聞き間違えたのかと思った。
 確かに仲島に出くわすのは気まずいが、その考えに至らなかったのだ。
 涼の口調は静かな怒気をはらんでいて菫子は、反射的に口を開いていた。
「嫌よ」
「……あそこを止めろ言うてるだけやろ」
「涼ちゃんが心配してくれるのはありがたいんだけど、
辞めるまでしなくてもいいと思うのよ」
「……相手の来ない時間に働くとか」
 言い争いを始めた菫子と涼に救い舟を出そうと伊織が口を挟む。
「ごめん、それは難しいかも。偶然が重なる場合があるし」
「じゃあ辞めるしかないやろ」
「慣れてきてるし、店長も信頼できる人だし、あのコンビニは辞めたくないのよ!
 たった一人の為に何でそこまでしなくちゃいけないの」
 反対されるほどに、受け入れられない。
「お前がそいつに盗られたらと思ったら正気でいられなくなる」
「二年近くも涼ちゃんを想ってきたのに、ふらっと他の人にいっちゃうと思うの?」
「菫子の意思そっちのけで突っ走る場合もあるんやで!」
「……涼ちゃん」
「……すまん。けど、付き合いだしたら付き合いだしたで、
 ちょっとしたことで不安掻きたてられるんや。分かってくれ」
「そうよね……」
 伊織は、相槌を打ち、カップの中身を飲み干した。
 重い空気にそぐわず音を立てている。
「……伊織」
「はいはい。お代わりもあるから」
 さっさと二杯目を菫子と涼のカップに注いだ伊織はにこにこ笑っている。
「いいわね、青春っぽくて」
「永月、こっちは真剣なんやけど」
「だから何。二人ともちょっと落ち着かないと駄目よ」
 伊織の言葉は涼と菫子の胸にぐさぐさ刺さった。
 菫子と菫子は顔を赤らめてお互いを見つめ、カップを口に運ぶ。
 伊織は涼しげな眼差しを送るだけだ。
「ごめん……伊織のおかげで頭が冷めたわ」
「永月……いや永月姐さん」
「草壁君……やめてよ。おかしすぎ」
 お茶らける涼に伊織は吹き出してしまった。
 菫子もつられて言いそうになったが、気分を変えなければと思った。
「伊織、私のことよりもあなたのこと話して。
 今は無理だったら電話とかでもいいけど」
「そうね……分かった話すわ。草壁君も聞いてくれる」
「あ、ああ。俺も聞いてええんやな」
「ここで話すと決めたんだもの」
 緊張感が部屋を支配する。
 菫子と涼は伊織が話し始めるのを固唾を飲んで見守っていた。
 すう、と息を吸い込む音。
「彼が病気になったのは、私と付き合い始めて二年経った頃よ。大学入学前だったわ」
「え……」
「高二の時から付き合い始めて、いろいろあったけど、
 悲しいことより楽しいことの方が思い出せるの。
 だって、出会えたこと自体が奇跡でしょ」
「私もそう思うわ」
 菫子は、伊織の澄んだ表情に引き込まれていた。
 決して全部同じではなくても、同じものを共有できるから嬉しい。
 涼は、二人の女性の表情に魅入られている。
 菫子との出会いも奇跡だったのだ。始まりは遅かったかもしれないが。 
「自分で受け止めるのに精一杯だったわ。
 何度泣いたか分からないくらいよ。
 大学に入学したことは嬉しかったけど、複雑だった。
 本当は隣りにいたはずの彼が、病室のベッドの上にいたから」
 伊織はあくまで笑顔だったけれど、今にも壊れそうな表情だった。
 菫子は思わず彼女の手を強く握った。涼の側を離れて寄り添う。
「せっかく合格していたのに運が悪いわよね。
 本当はもっと前から発症していたのかもしれないけど……気づいてあげられなかった」
 伊織の震える手のひらが、菫子の胸に痛みを呼び起こす。
「もしかしたら、私のせいで彼は病気になったんじゃないかって考えたこともあるの」
「……そんなはずないじゃない」
「俺は会ったこともないし、菫子よりもその人のこと知らんから
 軽はずみに言ってええかわからんけど、そんなわけないやろ。
 どこに根拠があるんや」
「……ええ、分かってる」
 伊織は、ひとつ息をついて続きを語り出した。
「私と彼とは菫子と草壁君のように、恋人同士として結ばれていたわ」
 菫子は目を瞠った。
 気づいてはいたけれど、まさか伊織の口から聞くことになるとは思わなかったのだ。
「知っていたわ……実を言うと気づいたのは最近だけど」
「……前から何となく気づいてた。菫子が女の子なのに対して、永月は女やったもんな」
「へ、そんな違い分かるの。涼ちゃん、まさか伊織にときめいたりしたこと……」
 伊織は、くすっと笑った。瞳の奥に涙を覗かせたまま。
「ふふん。それはジェラシーやな? 残念やけどないから安心せえ」
 涼は、かなり嬉しそうだ。
「ちょっと違うかな。伊織は私にとって聖域だから野獣に穢されたくないというか」
「嬉しいわ。私、菫子に愛されているのね」
 ふざけるのではなく、真面目な口調で言われ、菫子は顔を赤らめた。
(聖域とか言って引かれなくてよかった)
「菫子、野獣と付き合ってるのはお前ってことになるで」
「うわ……そうだった。どうしよう」
 本気で慌てる菫子に涼はにやにや笑っている。
「優がいなかったとしても、草壁君は全然タイプじゃないから好きにならなかったでしょうね」
「めっちゃストレートで分かりやすいな」
 涼は苦笑いしている。
「……伊織かっこいい」
「やば。気ぃ抜いたら永月に取られるわ」
 そうしてひとしきり笑い合った後、伊織はぽつりと独りごちた。
「あの時、ひとつに溶けていたらもう離れることもなかったのに」
 泣き笑いの表情。
 とても重い。
 重すぎる言葉には実感がこもっていて、そう願わずにいられない
 伊織の心情は計り知れないのだと感じた。
 菫子と涼は息が止まる心地だった。
 ひたむきな願いが、無碍に散ってしまう事実。
 菫子は肩を震わせる伊織を抱きしめた。
「……甘えてしまうのが目に見えてたから、話すの嫌だったのよ。
 弱くなってしまうもの」
 伊織は、嗚咽を堪えるように喉をしゃくりあげていた。
 菫子は、細い肩を抱きしめることしかできない。
 何も言えなかった。痛みは当の本人しか分からない。
 そっと背中に回された腕に意志を感じて嬉しかった。
 頼ってくれている。
「菫子ありがとう……あなたがいてくれてよかったわ。草壁君も」
 顔を上げた伊織は微笑んでいた。
「……だって、伊織は私の親友だもの」
「大好きよ……菫子」
 菫子はしがみついてきた伊織を抱きすくめる。
 友情の抱擁。
 恋人と触れ合う甘さではなく、涼やかな風が吹き抜けるような優しいものだった。
 信頼を分かち合うような。
 菫子はそこにいる伊織を確かめるように手を繋いでいた。
「そろそろ帰るわね……」
「うん……私も帰る。涼ちゃん、歩いて駅まで送ってくれる」
「おう、分かった」
 あっけらかんとした菫子の態度に涼は内心しょんぼりした。
「草壁君、顔に出てるから」
「……正直者なのが玉にキズやなあ俺」
「……?」
 菫子は首をかしげて、涼を見上げた。
「菫子、耳貸して」
 素直に伊織の側に寄った菫子は顔を赤らめた。
「……余計な気を回さないでよ……もう」
「ふふ。じゃあ行きましょ」
 手を繋いで歩いていく菫子と伊織の後ろから涼が追いかけた。
 マンションの外に出て、並んで歩く。
 涼はそのまま後ろからつき従っている。
「……ご飯も美味しかったわ。草壁君、料理上手いのね。意外だわ」
「永月……まあ、ちゃんと食べれるのとか無礼なこと言った菫子よりマシか」
「素直に思ったことを言っただけよ」
「自覚ないから恐ろしいわよね」
「同感」
「……ごめん。きついのはさすがに分かってる」
「菫子はそれでええから。な、永月」
「ええ、そうね」
 ゆっくりと歩いて駅までたどり着いた時、伊織が菫子を置いて駆け出した。
 離れた場所から手を振る伊織に同じように手を振り返す。
 菫子は彼女の後姿を見送って、涼を振り返る。
 俯いて、彼のボトムの裾を握った。
「……そんなに寂しがるなら、今日は一緒にいてあげるわよ。
 朝になったら送ってね」
 強気に言ったつもりだったが、りんごのような熟れた頬では伝わったか怪しい。
 涼は満足げに笑い、手を差し出した。
「帰ろ」
 手を握り返して、涼の部屋へと再び引き返した。


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