8、マグカップ



 大学が終わった後バイトに向かういつも通りの日常。
 涼は今日のバイトは休みらしい。
 元々彼の方が毎日のようにバイトしているので休みの方が珍しい。
 だが、連絡はきっちり来る。菫子がメールをする前に電話が鳴る。
 先回りできたことは、未だない。
 いつものように菫子はレジを打っていた。 
 仲島というバイト仲間もいるが、気にしていたらきりがない。
 もう解決したことだ。
 あれから初めて会うが今日も普通に挨拶を交わしたし、
 プライベートな問題を持ち込むべきではないと当たり前ながら、分かっているのだ。
 適度な緊張感を保ちつつ、ささいな失敗をしないように努める。 
 働き始めたばかりではないのだから。
 窓の景色からは、桜の木が見える。もう少しで咲き始めるのだろう。
 そういえば、伊織の彼がいる病院へと続く道にも桜の木があったと思いだす。
 その木には白い色の花が咲くという。
 入れ替わり入ってくる客に対応していると、あっという間に時間は過ぎていった。
 現金なもので、内心そわそわしてくる。
 しぶしぶ承諾したお迎えだったが、楽しみにしているのは菫子の方だ。
 彼氏が迎えに来るなんて初めての体験だ。
 事務室で帰り支度をしながら、携帯を確認する。
 まだもう少し約束の時間まではある。
 菫子は言われたとおり店内で他のお客さんに混じって待っていることにした。
 事務室を出ようとしたところで、仲島に出くわした。
「……柚木さん」
「失礼します」
「待って……話が」
「私にはありません」
 ぐいと手を掴まれ、痛みに顔をしかめた。
 強く降り払い、その場を後にする。
 さっと通り過ぎようとした時、強い視線を感じた。
 立ち読みはしないが、適当に雑誌をチェックする。
 結局、我慢できなくてその雑誌を買おうとレジに向かった。
 はっと、目を合わせれば仲島とかいう彼だ。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
 声が上ずっているのが分かった。
 笑顔も消えていた。
(他のお客さんの対応も同じ風だったらよくないけど……)
 菫子はそのまま店を出た。
 中で待っていろとのことだったが、もうこれ以上この場にいたくなかった。
 さっと店を出て、建物の陰にしゃがみ込む。
 膝を抱えて、うつむいた。
 薄暗い空は不安を掻きたてる。
(今まで、続けてきたこの店でのバイトが、こんなことでやり辛くなるなんて。
 私情を持ちこまないでよ。今まで通りやっていきたいなら普通にしていればいいのに。
 何でバイトの日が重なるのかしら)
 つい、零れた溜息に虚しくなった。
 すべてが順風満帆にはいかないようだ。
「菫子……」
 ふと、頭上から降ってきた声に顔をあげる。
「涼ちゃん?」
「草壁君だと思った?」
「伊織、どうして!?」
「病院に行く途中に回り道しちゃった。
菫子のバイトしている姿見たかったんだけどちょっと遅かったみたいね。残念だわ」
 くす、と笑った伊織が、隣りに座った。
「来てくれてうれしい」
「はい、これ」
「ありがとう。これ好きなの」
 渡されたペットボトルをそっと膝の上に置いた。
「知ってるわ」
 色んな謳い文句で飲めるコーヒー飲料だ。
 砂糖とミルクたっぷりで、とても甘い。
「今日も大学で会ったばかりだけど外で会う機会は意外と少ないから新鮮ね」
「……ごめんね」
「何が。伊織が大変なのは知ってるわよ」
 立ち上がった伊織は、フェンスにもたれかかって、こちらを見つめた。
 胸が、ずきんと痛むような切ない表情だった。
「今度……話してなかったこと話すから聞いてくれる?」
「もちろんよ」
「ありがとう……」
 微笑む伊織につられて笑う。
「私は全然強くないから、強くありたいって言い聞かせているの」
「そんなことない。伊織は強いよ。前も言ったでしょ」
「私も言ったでしょ。菫子の方がずっと強いわ」
 駐車場だから、人目もあり大きな声ではないけれど十分彼女の声は届いた。
 以前も同じことを話したのを思い出す。
 あれは10月だっただろうか。
 また繰り返すのは、こないだ言ったことと関係があるのだろう。
『……そろそろ覚悟しておかなきゃって思っただけよ』
 菫子は息を吸いこんで伊織と視線を合わせた。
「……全部吐き出したくなったらこんな私でよければ聞くからね」
「もったいないくらいよ」 
「……えへへ」
 はにかむ。伊織の隣に立って彼女の姿を見つめる。
「痩せた……?」
 元々スレンダーなのに、また線が細くなった気がした。
「え、そう?」
「ちゃんと食べてる。伊織が元気でいなきゃ駄目でしょ」
 少しきつい口調になっていたかもしれない。
「……食べてるつもりなんだけど」
 苦笑する伊織に、もうっと声を出してしまう。
「永月……大したもの出せんけど、うち来るか」
「お邪魔じゃないかしら」
「構わへんよ。人数多い方が楽しいしな」
 さりげなく現れた涼に菫子は、大げさなほど驚いた。
 顔を赤らめて見上げて不満を漏らす。
「早く来てよ……馬鹿っ」
「おお……よしよし」
 涼が菫子の頭を撫でている様子に伊織は、朗らかに笑った。
「そんなこと気にしなくていいのよ!」
 菫子はそう言いながらも内心ほっとしていた。
「菫子の親友やもん。大歓迎や。まあ男はいらんけどな」
「草壁君、はっきりしてるわねえ」
「当たり前や。うちの場所は菫子から聞いて」
「後でメールするね……それはそうと、いい加減頭から手を離してよ」
「お、悪い悪い」
 がしがしと髪をかき混ぜられ、ぽんぽんと軽く叩かられてむっとした菫子だったが涼は悪びれない態度だ。
「くっ」
「何時頃、行ったらいい?」
「伊織の都合のいい時間でいいよ」
「分かった。メールで言うわね。草壁君、ありがとう」
「気にすんな」
 手を振って、伊織は去って行った。
 涼は、ヘルメットを菫子に渡した。
「ちょっと待って。メールするから」
「……早すぎ」
「いいの。タイミングが大事だからね」
 菫子は、素早くメールを打ち、伊織に送った。
 携帯を閉じると、こちらを覗き込む瞳とぶつかる。
「じっくり話聞くで、すみれ」
 さっきの反応のせいで、勘ぐられている。
 菫子はひるんだ。疾しいことはないのだが。
「うっ……よろしく」
 バイクに乗りこんで、道路へと出た。
「早咲きの桜はもう咲いているのね」
「そこへ連れていくのは無理やけど、また一緒に見に行こうな」
「うん。涼ちゃんのバイク免許って何だっけ」
「普通自動二輪」
「ふうん。そっかあ」
 ぎゅっとしがみつく熱い背中。
 悔しいけど大好きだというのは嘘をつけない。
 風を切って街中を走り抜ける。
 マンションに辿り着いた時、部屋まではお姫様だっこをされた。
 菫子の必死の抵抗も虚しく、軽々と運ばれてしまったのだった。
「……もう、恥ずかしいのに」
「ベッドに運ぶ時は平気なのに?」
 意地悪げな問いかけ。
「……っ」
 ここで言い返せなくなるから思うツボなのだろう。
 顔を真っ赤にして、反論する言葉を探している間に下される。
 ぺたんと座りこんだ菫子の側で、涼は、ジャケットを脱いでいる。
「ちょ……何脱いでるの」
バッグと雑誌の袋を床に置き、膝を抱えて座っていた菫子は、びくっと過敏に反応した。
「そんな、今更恥ずかしがるなや。菫子が意識してたらこっちも意識してしまうやろ」
「……意識なんかしてない」
「あ、そうなんや」 
 菫子は、本格的に着替えを始めた涼の側から脱兎の如く逃げた。
 何故、今シャツまで脱いで上半身裸になるのか分からない。
(なんて人なの!)
 台所の椅子に座って、唸る。
「からかいがあるやっちゃ」
「聞こえてるわよ」
 菫子は聞こえ見よがしな言葉をしっかり聞き咎めている。
「……ツンツンたまらんなあ」
「何なのそれ」
「菫子好きやで」
 ドアを隔てた場所から聞こえる唇が指に触れる音。
 啄ばむ口づけと近い音に、菫子は、胸が騒ぎだした。
「くさい……気障ったらしい」
 ちょうどその時メールの着信音が鳴り響き、独り言を聞かれたような気分になって背を震わせた。
 サブウィンドウには伊織と表示されている。
『……8時すぎに行くわね』
 即座に返信をする。
『了解』
「菫子はメールにも声を出すんやな。音声つきで送っとるわけや」
 涼がいつからそこにいたのか、全く分からなかった。
 投げキッスを送った後からだろうか。
「いちいち腹立つわね」
「何しても可愛いからええ」
「くっそー」
 悔し紛れに呟くけれど、あははと涼は笑うだけだ。
 菫子は立ち上がり、ぴょんと踵を浮かせて、くいくいと指を動かした。
 背をかがめる涼に、
「いつか、ぎゃふんと言わせてやるわ」
 耳元でささやくと、彼はしたり顔で頷いた。
「楽しみやなあ」
口を動かしながらも夕食の準備をてきぱきと始める涼を見て菫子も積極的に動いた。
 確認を取って冷蔵庫を開ける。
 夕食の準備が整って、暫く待っているとチャイムが鳴り響いた。
 玄関へ向かう涼の後ろに、菫子はそっとついていく。
「いらっしゃーい」
 関西なまりの歓迎に、菫子は笑い転げそうになった。
「お邪魔します」
 伊織はいちいち過敏に反応せず、普通に受け流している。
差し出されたスリッパを履いて遠慮がちに、上がった。
 涼と菫子で伊織を挟む形で進む。
「お姉さん、聞いてーな。この子、くっそーなんて言ったんやで」
(何その軽口)
 突っこもうにも突っこめない。
「まあ。菫子、口が悪いわよ」
「伊織、ノリノリなのね……」
「ノれってサインが出てたから」
「永月、グー」
 菫子は、涼と一緒に指を立ててみた。
 それは見事にタイミングが合っていた。
「……突きぬけちゃってる感じね」
 菫子は首をかしげ、涼は軽やかに笑った。
 夕食は、楽しく進み、食後、部屋で伊織が持ってきた
ジャスミンティーを注ぎ、スナック菓子を広げた。
「これ、お花が開くのね。綺麗」
「そのまま飲んで大丈夫よ」
 菫子は、言われた通りに、マグカップを口に運ぶ。
 伊織は予備のシンプルなカップだが、
 菫子は何故か、専用のカップが用意されていた。
またもや苺柄なので涼が苺好きなのだと疑いたくなってきた。
 

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