those days
とても端麗な容貌の青年だった。
その辺にいる女性よりも綺麗な青年は、どこか憂いを帯びた風情で煙草を咥えている。
無表情の裏には何が隠されているのか。
ポーカーフェイスで他人に感情を悟らせない。
時折自嘲の笑みを浮かべて、紫煙を吐き出して夜の空を見上げる。
暫く空を見つめた後、歩き出す。
歩幅の大きさ。夜の闇が映し出す影は長く、相当な長身だというのが分かる。
停めてあった車に乗り込むとシガレットケースに、吸っていた煙草を押付け揉み消した。
大して短くもなっていない煙草はただ咥えていただけだろう。
エンジンのかかる音がし、車はあっという間に夜の闇の向こうへ消えた。
「姉貴か、ああ、砌の家庭教師の件だが、引き受けることにした」
彼ー藤城青ーは、相手が電話に出ると一方的に捲くし立て、
返事を待たず電話を容赦なく切った。
電話の向こう側から文句が聞こえた気がしても気に留めない。
息子の勉強を見てくれないかと随分前から散々姉に頼まれていた。
青にとって甥に当たる少年である。
姉はお金を払うとまで言っていたが、青はそれに関しては受け取るつもりは無い。
一応、実の姉弟なのに金銭のやり取りはどうかと思ったからだ。
どうして面倒なことを引き受ける気になったのか。
青は自分でも分からずにいた。
暇でも何でもないのに、わざわざ時間を作ってまで。
煙草の量が増えたことに気づきながら、
また煙草に手を伸ばす。
苛立っているわけではない……。
どこか空虚な心を誤魔化したいだけだ、きっと。
青はベランダに出ると夜の街の夜景を見下ろした。
消えぬビルの明り達。
眠らない街だと誰かが言っていた。
「どうして引き受けてくれる気になったの?」
どこか楽しそうに彼女は青に問いかける。
葛井翠。藤城青の姉だ。
年齢は、一回りも離れている。
「別に。ただの気まぐれだ」
リビングのソファで出されたカップに口をつけながら青は答えた。
「ふうん。まさか引き受けてくれるとは思わなかったから」
甥の家庭教師を。
「英語が駄目だなんて情けないからな、俺がじきじきに教えてやる」
「立派なこと言うようになったわねー」
感心している翠に呆れつつ青は紅茶を飲み干す。
「どうせテスト期間だけだしな、みっちり教えてやる」
「よろしくお願いします、藤城先生」
「やめろ」
嫌味の応酬になるだろうと思いさっさとソファから立ち上がった青はリビングを出てゆく。
2階への階段を上がると目的の部屋の扉を開けた。
「うわ、いきなり開けるなよ。普通ノックくらいするだろ!」
「いるの分かってるのにドア叩く必要があるのか」
「嫌な奴!」
デスクの前の椅子を後ろに回転させて現われた小憎らしい顔に
青は憮然とした表情を隠さない。
彼は葛井砌。まだあどけなさが残る高2の少年で青の甥だ。
「教えてもらう立場なのになんだその態度は」
別に砌のことを嫌っているわけでも煙たがっているわけでもない。
青は身内や親しい者が相手だと余計その毒舌に拍車がかかるのだ。
不器用な青の愛情表現ともいえるかもしれない。
昔は10歳で甥を持ってしまったことに抵抗があったが、
腹を立てようが事実は事実。覆るはずも無く。
いつしか歳の違う兄弟のような関係に次第に馴れていった。
そう頻繁に顔を会わせる訳でもないのだけれど。
砌が青をせい兄と呼んでいるのは、やはり叔父とは呼びづらいからだろう。
「余裕ぶって手を抜くと痛い目見るからちゃんとやれよ」
「分かってる」
砌は勉強ができないという事はなかった。
話に聞く限りだが、そこそこ良い成績を取っているようだ。
「せい兄、どうして来てくれたんだ?いっつも忙しそうだし連絡つかないじゃん」
「特に理由は無い。まったく、母子そろって同じこと聞くんだな」
青は苦笑いした後、さっさとやれというふうに視線で教科書を開くように促す。
砌は、一瞬何か言いたげに一度後ろを振り返ったが、無言の圧力に負けて大人しく机に向き直った。
時計の針の音が、自棄に耳につく午後の静寂。
砌が苦手な英語を重点的にやっている。
青は他ができるのに何故英語だけ天才的に駄目なんだと口から出そうになるのを何とか堪えた。
無遠慮な発言でやる気を失くされても困る。
真剣な表情で机に向かう砌は、腕を組んで見下ろしている若い叔父の視線を気にしながらノートを綴る。
間違いを指摘し的確なアドバイスを送る青。
訊ねようかという前に間違いを指摘されて砌は悔しげな表情を作る。
やはり教えてもらう相手が悪かった。
嫌がらずに家庭教師を頼んでもらえば良かったと砌は切実に思っていた。
「俺じゃ不満なんだろう」
「うっ……そんなことないって。せい兄に教えてもらったら着実に頭に入るし」
「ああ頑張れよ。英語以外は問題ないんだから、普通にやってれば赤点なんて取らないだろ」
「赤点なんて取ったことねえよ!」
きつい励ましをもらって顔を真っ赤にして怒鳴る。
負けてたまるかという強い気持ちが強く芽生えた。
「お前、好きな女はいるのか?」
青はふいに切り出した。
「い、いきなり何聞くんだよ!」
しどろもどろの口調は肯定と同じに受け取られる。
忍び笑いをする青を砌は睨みつけた。
「素直なお前がある意味羨ましい」
「思いっきり馬鹿にしただろ」
「で、いるのか?」
「……いる」
みるみる内に砌の顔は赤くなった。
答えは分かりきっているだろうにわざわざもう一度聞いてくる辺り意地が悪い。
「そうか」
ふっと黙り込んだ青が気になって思わず砌は見上げて、訊いてしまった。
「せい兄、いきなりそんなこと聞くなんてどうしたんだよ?」
「いや、何でもない」
それきり、雑談は途切れた。
青は、砌の勉強を見てやりながら、心を何処かへと飛ばしていた。
誰も知らない彼の秘密の領域。
夏に会ってからずっと会わずにいる彼女のこと。
そういえば彼女は今年の春まで高校に通っていたのだ。
まだ少女と呼べる年齢だが、青にとって彼女は少女ではなく女だ。
傷つけて、傷つけて、多分年齢より早く彼女の時計の針を進ませている。
たった二月の間に、格段に綺麗になり、大人びていた。
捕らえられてしまっている自分に気づかぬ振りをして、
次はいつ会えるかわからないなんて、言葉を投げてまた傷つけた。
本当に会いたいのは自分のくせして、愚かなことだ。
壁の時計を見れば午後3時。
「ちょっと休憩するか」
「うん」
こんこんとドアをノックする音。
「どうぞ」
翠が飲み物と洋菓子を載せたトレーを持って部屋に入ってきた。
もの凄いタイミングの良さだ。
「どう?」
「順調」
「英語は相当頑張らなければいけないがな。まあとりあえず他は大丈夫そうだから、
こいつが手を抜かない限り、赤点ついて補習なんて事態にはならないんじゃないか」
「……せい兄って高校の先生より厳しいんだよな」
「砌、この人に勉強見てもらうことなんて貴重なんだから。
文句言わずに頑張りなさいよ」
含みがあるのに気づかない青ではない。
「聞く前に間違い指摘するのはやめてくれって感じだけど」
「とっつき辛くても我慢なさい。
青に教えてもらえば苦手な英語の成績も上がるわよ」
ポンポンと砌の頭を叩いて、翠は微笑む。
「性格除けばこれほど良い先生もいないでしょ」
「姉貴、兄さん今日は遅いのか?」
「今日もいつも通りよ。何か用事があるの?」
「ああ……ちょっと話したいことがあって」
「どうしても会いたかったら病院に行ったらいいじゃないの」
「いや、いい」
心なしか声が低くなった青に翠は、相変わらずねーと心中で呟いた。
「砌、ちょっと外すわね、お菓子でも食べて休憩してなさい」
翠は青を連れて部屋を後にした。
「煙草の量増えたんじゃない」
「この家には喫煙者いないのによく分かるな」
「主婦は服に染み付いた匂いとか敏感なのよ」
翠はおどけて笑った。
彼女はいつもふざけているように見えるが茶化して場を明るくして
いるのだと青は知っている。
だから、悪ノリして憎まれ口を叩くし、互いに言い合う。
傍から見れば不思議な姉弟関係だ。
普段、青は姉を呼び捨てるのだから。
「青、ありがとう、砌の家庭教師引き受けてくれて」
「改まって言わなくてもいい」
「本当に嬉しかったのよ。どんな理由があるにしろね」
翠は青の肩に手を置いた。砌の頭を叩いたのと同じように。
「あー、でもその身長、威圧感あるわね。見上げるのなんて嫌だからあなたが屈みなさいよ」
悪戯っぽく笑う翠に、青は舌打ちした。
「誰が屈むか」
吐き捨てると青は翠に向き直る。
翠が視線を少し上向ければいいだけだ。
「居場所でも逃げ場所でもいいから、いつでもいらっしゃいな」
翠は急に真顔になった。
視線を僅かにそらして、青は、
「……悪い、姉貴」
小さく呟いた。
翠は何も言わずただ背中を向けて階段の方へと歩く。
不器用な青の性格を全てとはいかずとも知っているから余計な事は言わない。
普段はおちゃらけていようとも。
翠は黙ってドアノブに手をやる青に後ろから声をかけた。
「よろしく頼むわ」
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