第2話



 砌に勉強を教え終わると青は葛井家を後にした。
 夕食を翠に誘われたが断り、車に乗り込むと煙草に火をつけた。
 青は喫煙者のいない家では決して煙草を吸わない。
 伊達に育ちが良い訳ではない。
 煙草のポイ捨てもしないし、車内で吸う時もかなり気を使っていた。
 煙草を咥えて、車を発進させる。


「あら、忘れてた」
「急になんだよ。びっくりするだろ」
 夕食中、突然、口を開いた母に砌は怪訝な眼差しを送った。
「今日、青の誕生日だって忘れてたわ」
「あ、そうなんだ」
「電話かけておめでとうコールよ、砌」
「は!? 今更喜ぶ歳かよ」
「現実的なんだから。これもお姉さまの愛じゃないの」
 翠はうふふと声を弾ませて笑い、壁に立てかけられた電話の子機を砌から受け取る。
 プルルルルル。
「あ、もしもし、青? 」
 プツッ。
 帰ってきたのは無情な機械音声。
『只今留守にしています。ピーッと鳴ったらお名前とご用件をどうぞ』
「チッ」
 舌打ちした翠に砌は肩を震わせた。
「留守番メッセージくらい自分で録音しときなさいよ。
 コンピューターの声って機械的で嫌いなのよね」
「そこかよ」
 変なツッコミを入れる自分の母親に、砌は頭を押さえた。
 砌としては、あの叔父がわざわざ生声を録音するなんて想像できない。
 怖いもの聞きたさで聞いてみたい気がするがぞっとする。
 気を取り直して翠は声色を変え、息を吸い込んでメッセージを入れ始める。
「青くーん、27歳のお誕生日おめでとう。英語で言うとトゥエンティセブン!
 うふ、今年こそあなたが幸せになるの祈ってるわ。
 綺麗で優しい翠お姉さまより」
 声まで笑顔全開の翠は受話器を砌に渡す。
 壁際に近い席に砌は座っているので彼が、毎度電話当番だった。
 明らかに遊んでいる翠に砌は溜息をつく。
「せい兄、怒るぞ」
「これ聞いた時のあの子の反応想像するだけで今から笑いが止まらないわ」
 砌は恐ろしさを感じて椅子から立ち上がった。
 これ以上何も喉を通りそうに無い。
 何故、父さんは母さんと結婚したんだろう……。
 顔で騙されたのか、まさか。
 こんな女と姉弟のせい兄にもちょっと同情してしまう。
 俺だったらこんな女王さまはお断りだ。
 砌は口に出さず心中で独白をした。
 口に出さなかったのは懸命といえる。



 いい加減あの姉の性格などとうの昔に熟知しているが、今回は呆れ果てた。
 留守番電話にメッセージなど入っている方が珍しい。
 大概、携帯に皆かけてくるし留守の時も携帯にメッセージを残す。
 翠に携帯の番号は教えてないのでこちらに入れたのだ。
「……自分でも忘れてたってのに」
 自分の誕生日なんて医学部に入って独り暮らしを始めて以来、ずっと忘れていた。
 覚えていた時もあったが、別に他の日と変わらず日々を過ごしていた。
 祝ってもらいたい者など存在しないから誰にも教えていない。
 数少ない身内以外知らない事柄だ。
 身内でも知らないことの方が多いのだが。
 いつも誕生日に一緒に過ごしたいのは、誰だ。
 そんな日が来ることを心の奥底で願っている。
 こないだの誕生日、共に過ごすことができて心底幸せだった。
 渡されたプレゼントは肌身離さず身につけている。  バスルームに向かいながら、青は思いに耽る。
 コックを捻り熱い飛沫を正面から浴びて。
 髪をかき上げて、一心不乱にシャワーを浴び続けた。



 次の日曜日、青が翠の嫁ぎ先である葛井家に訪れると、珍しい人物の姿があった。
 姉の翠はおらず、翠の夫で義兄にあたる陽が彼を出迎えた。
 リビングに案内され、ソファーを勧められる。
「いらっしゃい、用があるんだって? 」
「大した用件でもないんですが」
「大した用でもなければ会いたいとも思わないだろ」
 悟られてるな。と思い、青はすっと真顔になった。
「運命って信じますか? 」
「いきなりロマンチックなことを言い出すね」
 ティーサーバーから紅茶をカップに注ぐ陽は、深刻そうな青の様子に苦笑した。
「翠とは運命だと思ってる」
 きっぱりと言い切った義兄の姿に青は目を瞠った後、一瞬目を逸らした。
「そうですか」
「何だ、それが聞きたかったのか? 」
「ええ」
 青の返事に陽は淡く微笑んだ。
「運命ってのはね、逃げても何処までも追い駆けてくるんだ。
 運命に追われるのが嫌なら、自分で引き寄せるしかないね。  簡単に切れるのは運命じゃないが」
 青は息を飲んだ。
 今までのようにいかない理由が、掴めた。
 彼女とは離れられない。
 まだ確かな関係を始めていないから終らせることもできない。
 切れるという言い方が正しいだろうな。
「ありがとう、兄さん」
 答えなど望んでいないかのような呟き。
「砌のことよろしく頼むよ」
「ええ」
「本当、よく引き受けてくれたな」
「単なる暇つぶしですよ」
「折角の休日に甥の家庭教師なんていいのか? 」
「特に他にやる事はないもので」
 冗談か本気か読めない表情で青は言葉を紡ぐ。
 陽はひらひらと手を振りリビングから出てゆく青を見送る。




 青が帰った頃、部屋へと訪れた父に砌は爆弾発言をした。
「この間、せい兄に好きな女はいるのかって聞かれたんだ」
 自分の息子ながら素直な奴だと陽は思った。
 砌の髪をがしがしと乱暴に掻き混ぜる。
「どう答えた?」
 顔を顰めつつ、振り払おうとするが適わない。
 砌は歯噛みをした。
「いるって言った」
「彼相手に嘘をつくのは賢いやり方ではないからなあ」
「……どちらにしても嘘つける器用さは生憎持ち合わせてないから」
「葛井陽の息子なら嘘つけるくらいにならなきゃ」
「うちの家って常識ゼロだよな。普通息子にそんなこと真顔で言うかよ」
「大人になる為の方法じゃないか」
「……俺は絶対まともな医者になるぞ」
 人間性と医者は関係ないのだが、相手にする父も普通に答えているからいいのだろう。
「父さんのようにか?」
「自分で言うなよ」
 陽はひとしきり息子をからかうと、部屋から出て行った。
 砌はぼんやりと脳裏に思い浮かべる。忘れもしない一年前のあの日を。


 風も一段と冷たさを増した11月の半ば。
 今日も何事も無く一日を終え、帰宅の途につこうと
 していた青は、ふと空を見上げて、何かを感じた。
 車に乗り込むと携帯ですぐに電話をかけ始める。
 かける相手など一人しかいなかった。
「俺だ」
 受話器越しに伝わる気配。
 驚きで息を飲んでいる。
 数瞬の後、帰ってきた声は。
「……嘘、本当に!? 」
 あの忘れられない声。
 高くていかにも“女”という声だけれど、甲高く
 耳障りなものではない。もっと清らかで澄んだ……。
「沙矢」
「どうしたの? 」
 声を聞くだけで嬉しくなる。
 夏以来の沙矢の声。
 姿が側にないのがどれだけ狂おしいか。
 青は、心に降る想いに驚いた。
「イヴ、予定無かったら会わないか? 」
「え、いいの?私の方は予定なんて全然。
 青こそ約束入ってるんじゃ」
 沙矢の声は少し揺れていた。
 誤解を与えていてそのままにしているのは青だ。
「俺は、お前以外の女なんて今はいない。
 本当だ。お前と出会ってからお前以外の女を知らないよ」
 分かり辛い言い方だったかもしれないが、分かってほしかった。
「……あなたが来るまでずっと待ってるから」
 途端に返ってきた言葉の響きは嬉しそうに弾んでいて、
 また傷つけるのではないかと不安に囚われた。
「いや、来なかったら帰ってくれ」
「もう一度会えるならいつまでも待ってる」
 沙矢の声を受話器越しに聞いた後、青は小さく息を吐いて通話を終了した。
 会えなかったらそれで終る。曖昧で脆い関係は。
 会えたら、引き返せなくなる予感がしていた。確実に的中するだろう予感が。
 切っても切れない関係はいい方向に動くのだろうか。
 煙草を咥え、エンジンをかけると車を走らせ始める。
 窓を開けると紫煙が夜の空気に流れていった。




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