■fine today■ −5− 翌朝、俺はまだ酔いつぶれて眠っている親父を置いて早々に家を出た。 今朝は親父が朝食を作る筈だったけど、無理に起こしても二日酔いで何も出来ないだろうから簡単な朝食を作っておいた。 起きて、大丈夫そうだったら食べるだろう。 いつもより少し早い通学路には、あまり人はいなかった。 でも、残念なことに、朝日は雲に覆われて見えない。 「あーあ……晴れてたらすっきりすると思ったのになあ……」 昨夜から、何かもやもやした気持ちが頭の中でぐるぐる回っていて落ち着かなかった。 早く出て、朝日のまぶしさの中を歩けば少しは気が晴れると思ったのに。 そう思いながら学校への道を歩いていく。 やがて、校門が見えてきた。 「あれは……」 俺とは反対方向から校門へ向かってくる見知った生徒。 高野だった。 高野も俺に気付いたらしく、ぶんぶんと大きく手を振っている。 手を振り返すと、校門を素通りして俺の所へ走ってきた。 「お、お早うございますっ」 走ったせいで、思い切り息を切らしている。 「おはよ。ここまで走ってこなくても校門で待ってれば良かったのに」 俺は絶対に校門に行ったんだから。 「だって、折角先輩に会えたんですから、ちょっとくらい一緒に登校したいじゃないですか」 高野の言葉に俺は思わず笑ってしまう。 ちょっとって……。 ちらっと視線を校門に投げかけると、本当にちょっとの距離しかない。 やっぱ、面白いよなあ、高野って。 一緒にいると、退屈しないし、楽しい。 高野と並んで歩き出しながら、俺はまだ笑っていた。 高野はそれを不思議そうに見ていたが、やがてつられたように笑った。 「先輩、怪我は大丈夫ですか?」 校門から校舎内へ入ったところで、高野がそう言った。 「大丈夫。高野こそ、突き指は?」 昨夜、悪化しかけたことは黙っておこう。 「あ、はい。もう大分良いです。一応、湿布はまだ貼ってますけど」 そう言って、俺に指を見せる。 「でもこれ、昨夜貼り直してそのままなんですよ。だから、保健室で湿布もらおうと思って」 「俺、貼ろうか? 藤吾みたいに上手くないけど、自分でするよりましだろ?」 「えっ? い、良いんですか?」 「良いよ」 俺は、教室へは行かず、直接保健室へ高野を連れて行った。 昨日の朝、藤吾と高野と俺の3人がいた保健室に、今日は高野と2人でいた。 違うのは、高野に湿布を貼っているのが藤吾じゃなくて俺だってことだ。 俺は高野と向かい合って、指に湿布を貼ってやる。 ……貼ってやる、というのがおこがましいほど、俺の手つきは不器用だったけど。 でも高野は嬉しそうだった。 だから俺は満足することにして、湿布を貼り終えた。 「ありがとうございます、先輩。……すみません、こんなことしてもらって……」 何か、会うたびに高野は俺に謝っているような気がする。 そして、そんな高野を見ていたら、不意に昨日のことが思い出された。 高野の、告白。 それに対する、俺の答え。 「……先輩?」 黙り込んだ俺に、心配そうな高野の声が聞こえてきた。 「あの、さ。昨日の返事なんだけど」 俺がそう言うと、高野は黙って立ち止まり、俺の顔を見る。 「……はい」 緊張した声。 俺は、息を吸い込んで、一気に言った。 「俺、高野と付き合えない。ごめん」 どう言おうとか。 傷つけないようにとか。 そんなことを考えて、でも結局はきちんと考えていた訳じゃなくて。 そして、実際に高野に言った言葉は、当たり前の断りのもので。 その言葉で高野がどう思うかって、それは言った後に気付く。 ちょっと言い方がきつかったかも……そう、思ってしまった。 「……俺のこと嫌いですか?」 「な、何言ってんだよ、そんなわけないじゃん」 高野の表情が痛くて、俺は慌てて否定した。 嫌いじゃないよ。 好きか嫌いかって聞かれれば、好きだと思うし。 でもそれは、後輩としてで。 昨日知り合ったばかりだけど、俺は高野のこと、可愛い後輩だと思ってるから。 でも、それだけなんだ。 「じゃあ、俺が男だからですか? それとも年下だから……?」 明るく元気な様子が消え、俯いて肩を落としながら、それでも懸命に言葉を継ぐ。 「そうじゃないよ。そうじゃなくて……」 男に……高野に好きだって言われても、嫌悪感は感じなかった。 年下だからなんてのも関係ない。 問題は、俺が恋愛感情ってものをよく解っていないこと。 だから。 俺がそう言うと、高野は顔を上げた。 その表情は、どこか安堵したような様子だった。 「……だったら、試しに付き合ってみませんか?」 「はあ……?」 「俺、本当に先輩のこと好きなんです。先輩が俺を振る理由がそれなら、まだ可能性はありますよね」 「高野……?」 「だから、俺と付き合ってください。恋愛感情が解らないなら、これから知れば良いんですよ。ね?」 「ええと……」 つまり……? つまり、こういうことか? 高野のことを嫌いじゃないのに恋愛感情が解らないから振るのは納得いかない。 だったら付き合ってみてから考えろと。 ……端折りすぎかもしれないが……要するに結論は、俺に高野と付き合えと。 ……でも、それで良いんだろうか……? 確かに俺は恋愛感情が良く解らないし、それを知りたいって気持ちもないわけじゃないけど。 それで付き合うっていうのも変じゃないか? そりゃ、高野の言っていることが解らないってこともないけど……。 「先輩、良いですか?」 「え……あ、うん……」 「本当ですか!?」 「ああ、うん……まあ……」 歯切れが悪い。 自分でも何で頷いたのか解ってない。 「嬉しいですっ、ありがとうございます!」 途端に、高野の表情が明るくなった。 ……というよりは、明るすぎだろう……。 さっきの肩を落とした高野のかけらもない。 でも……。 俺は、そんな高野の笑顔とか明るい表情が、一番好きだから。 高野が落ち込んでいるのは、見たくない。 だから、……まあ、良いか。 俺は単純に、そう結論を出してしまったのだった。 「それじゃあ先輩、俺教室に行きますね。帰り一緒に帰りましょう!」 「……ああ」 俺が生返事をすると、それに気付いているのかいないのか、高野は立ち上がって俺の顔を見る。 そして、嬉しそうに笑うと、腰を屈めて俺に近づいた。 え……? そう思った次の瞬間、保健室のドアが開いた。 高野は俺から離れ、ドアのほうへ歩いていく。 保健室の入り口の所に立っていた藤吾に軽く頭を下げると、そのまま保健室を出ていった。 「藤吾」 高野を見送ると、ドアを閉じて藤吾が俺の前に座った。 「あの1年と一緒だったのか」 「ああ。……藤吾は何でここに?」 「靴箱にお前の靴があるのに教室にいないから、多分ここにいるだろうと思ってな。怪我の具合、見せてみろよ」 俺は袖を捲って腕を出した。 昨日の朝、手当てしてもらってからは何もしていないから、藤吾の言ったことはありがたかった。 「でもあの1年もいるとは思わなかったけどな」 傷の様子を見ながら、藤吾は言う。 「ああ、偶然会ったんだよ、校門のとこで。で、突き指がちょっと心配だったからさ」 「そっか……何かあったのか?」 鋭い。 「……何か、高野と付き合うことになった……みたい」 隠せるはずもなく、というか元より隠すつもりはなかったので、俺は正直に答えた。 「はあ? 何だ、それ……」 藤吾が驚くのも無理はないと思う。 俺だって驚いてる。 まあ、俺の場合は驚いてると言うよりは放心、というか呆然というか、なんだけど。 「……まあ、環が納得してるなら俺は何も言えないけど……学校であんなことすんのやめろよ」 「あんなこと……?」 藤吾があっさり話を受け入れてくれた安心感よりも、疑問のほうが大きい。 あんなこと……って、何だ? 「……キスしてただろ」 「キ……? 誰が?」 「お前が」 「……誰と?」 「あの1年と」 「嘘言うなよ」 「嘘じゃねえよ」 鳩が豆鉄砲を食らったような顔を、今まさに俺はしていると思う。 だって……キス? 「そんなの知らな……あっ」 ……もしかして、さっきの……。 高野が腰を屈めて近づいた時に、何かが触れたような気がしたけど……。 あれが、キス……だったんだろうか? 「……あのさ」 俺がさっきのことを思い出していると、不意に藤吾が呟いた。 「お前、ホントにそれで良いのか?」 「良いって、何が?」 「本気であの1年と付き合うつもりか?」 「本気でって……」 試しに付き合うのは、本気じゃない。 「だからな……あの1年と付き合っても良いのかって言ってんだよ」 「……まあ、うん……」 成り行きと勢いと、押し切られたのと。 そして自分の良く解らない感情と。 頭の中がぐちゃぐちゃだった。 「環……お前、自覚ねえのか?」 「自覚って?」 「ほんっとに気付いてねえの?」 「だから、何を?」 「…………」 何なんだよ、一体……。 今日の藤吾はどこかおかしい。 「何言ってんのか解らないよ」 「……自分で気付くまで待てよ。俺が言ったら意味ねえしな……」 そう言って、藤吾は黙り込んだ。 もう何も言う気はない。 そういうことだ。 黙って俺の怪我を看ている藤吾の手を見下ろした。 困惑して、頭の中を整理できなかった。 俺は、藤吾の言ったことも自分の気持ちも、何もかも解っていなかったんだ。 2003/1/8
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