■サンクチュアリ■


第1部:「君のとなり」


−1−


 智成(ともなり)は、目の前で微笑んでいる母の顔をぼんやりと眺めていた。
 穏やかな、母の笑顔。
 だがそれは、もう2度と智成に向けられることのない笑顔だ。
 ひとり、薄暗い部屋にいると、昔のことばかり浮かんでくる。
 両親と3人で暮らしていた頃は、幸せだった。
 両親は智成を大切にしてくれ、そんな家族をこの家は温かく包んでくれていた。
 母と2人になった時は、辛かったけれど、それでも幸せだった。
 母が仕事で遅い時などはそんなに広くもない家がとても広く寂しく感じたけれど、それは幸福を伴う寂しさだったから。
 母が帰ってきて一歩家の中に入ると、それだけで家が明るく温かくなった。
 その温かさを覚えているから、母の帰りを待つひとりの心細さも耐えられた。
 だが今、この家には智成しかいない。
 どれだけ待っても、家の扉が開かれることはない。
 家に明かりが灯ることはない。
 空虚とそっけなさと冷たさが残るだけの、ただの入れ物だった。
 智成の心も同じ。
 母がいないだけで、こんなにもこの家は違う。
 広く広く、遠く遠く。
 家の中にいるのに、何故か、自分がこの家にいないような、そんな気さえして。
 自分の居場所さえ見失う。
 心は空っぽで、前向きなことを考えることも出来ない。
 ただ、母の遺影を眺めるだけ―――



 どれくらいの時が経ったのだろう。
 時間の感覚さえない智成の耳に、来客を告げるインターホンの音が聞こえた。
 ぼんやりとした感覚の中でその音を聞いていた。
 だが立ち上がることはしない。
 誰にも会いたくなかった。
 特に、親戚連中には。


 それからしばらく後。
 インターホンは、未だ鳴り続けていた。
 もしかしたら、中に人がいることを知っているのかもしれない。
 それでも智成には出ようという気が起こらなかった。


「あの、すみません。誰か、いらっしゃるんでしょう? お焼香させていただきたいんですが」
 インターホンの音の切れ目に、男の凛とした声が響く。
 そしてまたインターホンの音。
「すみません!」
 交互に聞こえてくる音。
 どうやら誰か出てくるまで粘るつもりのようだ。
 智成は考える。
 お焼香―――
 母に―――?
 親戚連中でないことは確かだ。
 今は、彼らにとってはお焼香どころではないはずなのだから。
 かといって、この来客に心当たりがあるわけでもない。
 しばらく逡巡した後、智成はゆっくりと立ちあがった。
 ふらつく身体を踏ん張って、玄関まで歩く。
 外にいる人物を確かめることもなく、鍵を開けた。
 そろりと、扉を開く。
 目の前に飛び込んできたのは、喪服を着込んだ男。
 男の顔を見るが、見覚えはなかった。
 年の頃は、30前といったところだろうか。
「ああ、やっぱりいらっしゃったんですね。……智成君、だよね?」
「……そうですけど」
「こんにちは。僕は瀬野恭平(せの・きょうへい)といいます。羽山(はやま)さんに……お母さんにお焼香させてもらっても良いですか」
 30前の男が高校生の智成に対して、丁寧な口調でそう述べる。
 智成は、そんな恭平に少しだけ好感を持った。
 黙って頷くと、恭平を中に招き入れる。
「どうもありがとう。お邪魔します」
 そう言って、靴をきちんと揃えて中に上がる。
 智成は扉を閉め、母の元へと案内した。
 母の遺影の前に恭平が座るのを確認すると、智成は台所へ行った。
 何をする気力もなかった智成だが、来客があるとお茶を出すことが母と2人で暮らしていた頃の智成の役割だったので、ほとんど条件反射でお茶を湯飲みに注いでいた。
 今までなら、お茶を持っていった先には、客と母が智成を待っていてくれた。
 けれど今日は……お茶を出すのも、客と話すのも、すべて智成がするしかないのだ。
 母はもう、いないのだから。
 そう考えると、不意に目頭が熱くなる。
 慌ててそれを振り切ると、台所を出て恭平の元へ向かった。

 部屋の入り口で中の様子を見ると、恭平は目を閉じて手を合わせていた。
 ずっとずっと、とても長い時間。
 恭平が目を開きこちらを振り返るまで、智成も心の中で母に手を合わせていた。
 母のために手を合わせてくれている恭平を、見ながら。



「お茶、どうぞ」
 そう言って盆に乗せたお茶を、恭平の前に置く。
「……ありがとう」
 微かに微笑んで、湯飲みを手に取る。
 智成は、その微笑んだ顔をじっと見つめた。
 ……微笑んでいるのに、その笑顔は何処か寂しそうで。
 目が、赤く潤んでいて。
 胸が締め付けられた。
 母の死を、本当に、心の底から、悼んでくれているのだ、この人は―――
 智成の、空っぽだった心に、ほんの少しだけ光が戻った気がした。
 同時に、疑問が浮かぶ。
「あの……母とは、どういう……それに、俺のこと、知ってるんですか……?」
 智成の疑問に、恭平はひとつ頷き、話し始めた。
「羽山さんには、とてもお世話になったんですよ。つい最近まで足の骨折で入院していて、その時ずっと僕の世話をしてくれていました」
 母は、近くの総合病院で看護婦をしていたのだ。
 智成が8歳の時に父が亡くなるまでは、土地を借りて小さな病院を2人で経営していた。
 内科と小児科のふたつを。
 診察は父がした。
 その他諸々のことは、2人が協力し合ってやっていた。
 智成には詳しい記憶は薄れているが、とてもとても幸せそうだった。
 そして、そんな2人を見て、智成も温かい気分になった……そのことだけは、今もはっきりと覚えている。
 父が亡くなると、医師免許を持たない母ひとりでは病院を続けることが出来なくなった。
 どうしようかと悩んでいる時、懇意にしていた医者が総合病院に母のことを頼んでくれたのだ。
 それから8年。
 母はずっと総合病院で看護婦として働き、最近は婦長として頑張っていた。
「あんなに親切で、親身になってくれた看護婦さんは初めてで……ああ、婦長さんでしたね……すごく、嬉しかったんですよ。いくら感謝しても足りないくらいです」
 嬉しそうに母のことを話す恭平に、智成も嬉しくなる。
 母は、病院で、こんなに慕われていたんだと。
 そんな母を、誇りに思えた。
「……すみません」
「え?」
 急に、恭平に頭を下げられ、困惑した。
 何故、謝ることがあるのだろうか。
「お通夜にも、お葬式にも出られませんでしたから。羽山さんが亡くなったことは知っていたのですが……入院中だったので……本当は、行きたかったんだけど……結局、亡くなってから一週間も経ってしまって」
「そんなこと……気にしないでください。入院中だったんだし……母は怒ったと思います」
「……そう、だね。もう少しで退院なのに、病院を抜け出したりしたら……きっと羽山さんは怒ったでしょうね……」
「はい。それに、母はきっと今、喜んでいると思います。俺も、嬉しいです。母のことをこんなに……」
 そう言うと、恭平の目がすっと細められた。
「やっぱり、聞いていたとおりだ。すごく良い子だって、自慢の息子だって、よく話してくれました」
 その言葉に、智成の顔がかっと熱くなった。
 おそらく、耳まで真っ赤になっているのではないだろうか。
「母が、そんなことを……」
「だから、智成君の事を知ってたんですよ。勿論顔もね」
「えっ!?」
「羽山さん、智成君の写真をいつも持ってましたから。何回も見せてくれましたよ」
「…………」
 ますます顔が熱くなる。
「それで……」
「は、はい?」
 恭平が真剣な表情になったので、智成は緊張した。
「智成君は、これからどうするの……?」
「どう、って……?」
「此処で、ひとりで暮らすの? それとも、誰か親戚の人の所へ行くの?」
「…………」
 智成は高校生だ。16歳で、未成年で。
 それでもひとりでやっていけないことはないと、智成はそう思っていた。
 思いたかった。
 だが、親戚連中はそれでは納得しない。
「今……親戚の人たちが、相談してます。俺を、誰が引き取るかって」
 自分の言葉に、心臓がキリキリと痛み出した。
 唇をきつく噛み締め、拳を握る。
 何かを堪えるように。
 それは怒りで、哀しみで、やるせなさで。
「みんな、本当は俺を引き取りたくないんです。でも、誰かが引き取らないと……体面もあるし。だから、押し付け合いをしてる……」
 静かな憤り。
 親戚連中に、思い切りぶつけたいこの気持ち。
 自分はひとりで此処で、この家で、暮らす。
 未成年だから、子供だから、そんな理由で、この家を離れたくない。
 ……だが、ぶつけても無駄だ。
 体面を気にする彼らは、認めない。
 そして、一週間も不毛な押し付け合いをしているのだ。
「そう……そうか」
 そんな智成をじっと見ていた恭平が、静かに、口を開く。

「だったら……僕の所へ、来て欲しい」

「……は……?」
 一瞬、言われた意味が解らず、智成は恭平を見返した。

「僕と一緒に暮らそう、智成君」

 真剣な瞳が、智成を見ていた。
 強い意志を持った瞳が。



2002/12/23



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