■サンクチュアリ■


第1部:「君のとなり」


−2−


 恭平のあまりにも真剣な瞳を前に、智成は固まった。
 この人は、今何を言ったのだ―――?
 恭平の言ったことが、じわじわと頭の中に浸透していく。

「冗談……」
 掠れる声で、それだけしか言うことが出来ない。
「冗談じゃないよ。僕は今日、お焼香するためだけに来たわけじゃない、そのことを言いに来たんだ」
「な……」
「正直言うと、ちょっと迷ってたんだ。親戚の人が智成君を引き取るって言うなら、その方が良いんじゃないかって」
 そこで言葉を切ると、手を智成の頬にそっと触れさせる。
「でも、迷うことなんかなかった。君にそんな顔をさせるような親戚の人に君を渡しても、きっと幸せに暮らすことなんてできない」
 智成には恭平の言うことが全然理解できなかった。
 確かに自分は親戚連中があまり好きではない。
 母が死んでも、その死を哀しむよりも先に智成を誰が引き取るかで揉める親戚連中のことなど。
 智成が今、どんな気持ちでひとりで母との思い出の詰まったこの家にいるかなど、知らずに。
 知ろうともせずに。
 それを恭平は解ってくれるのだろうか。
 だが、それがどうして一緒に暮らすことにつながるのか解らない。
 恭平にとっての智成は、世話になった人の息子だというだけだ。
 少なくとも、智成はそう思う。
 いくら話に聞いていたとしても、写真で顔を知っていたとしても。
 それだけで、他人と一緒に暮らすなどと―――自分を引き取ろうとするなど、智成には到底理解できなかった。
「どうかな、智成君。僕は君と一緒に暮らしたい」
 智成が絶句していると、尚も恭平はそう繰り返す。
 そんなことを言われても、どうしろというのだ。
 一緒に暮らすと言えば良いのか。
 見ず知らずのこの男と―――
 ……そんなこと、出来るわけがない。
 親戚連中の所へ行くのは嫌だが、恭平と暮らすなんて、それこそ無茶苦茶な話だ。
「……お断りします」
 低い声で、拒絶の意志を伝える。
 頬に触れていた恭平の手を、振り払う。
 だが恭平は、そう言われることは予想していたようだった。
 いきなり現れた男に、そう簡単についていくわけがない。
「勿論、今すぐじゃなくて良いよ。落ち着いてからで良いから。親戚の人には、僕の方からちゃんと話しておくしね」
 次の恭平の言葉に、智成は驚いた。
 智成がついていくわけがないと解っていながら、それでも恭平は智成を引き取るつもりらしい。
 親戚連中には願ったり叶ったりだろう。
 厄介事がなくなるから。
 とはいえ、恭平がいくら智成を引き取ると言ってもすんなり納得するとも思えない。
 血がつながっているわけでもない他人に、血のつながっている彼らが智成を渡したとなれば、周りから何を言われるか解らないのだから。
「大丈夫、必ず説得してみせるから。智成君は何も心配しなくて良いから」
 智成の沈黙をどう取ったのか、恭平が言った。
 その言葉は智成の心中を理解してのことだっただろう。
 だが、説得するしないの問題ではない。
 智成は、はっきり断った。
 それなのに、恭平はその言葉がなかったように振る舞う。
 穏やかな雰囲気の恭平は、だが、言動はかなり強引だった。
 それでも最初に抱いた好印象は今も変わらない。
 無茶苦茶なことを言っていても、親戚連中に比べれば、どれだけましだろう。
 少なくとも恭平は、智成自身を心配してくれている。
 だが、それに甘えられるかというと、無理な話だった。
 智成にとって恭平は、会ってからほんの1時間ほどしか経っていない、母の患者だったという存在なだけなのだ。
 それなのに。

 恭平は、そっと智成の肩に手を置いた。
「遠慮なんかしなくていいんだよ」
 違う。
 遠慮しているわけではない。
「そんなんじゃありません。瀬野さんの言っていることが理解できないだけです」
「どうして? 僕はただ、一緒に暮らそうって言っているだけだよ」
「それが解らないって言ってるんです。何で、赤の他人の俺を引き取るなんて言えるんですか」
 智成がそう言うと、恭平は顔を曇らせた。
 だがすぐに微笑んで、ゆっくり首を横に振る。
「そんなこと関係ない。赤の他人だろうが、血が繋がっていようがいまいが、僕が君と一緒に暮らしたいって気持ちは変わらないから」
「でも―――」
「血の繋がりがないと、家族にはなれない? そんなことないでしょう?」
 恭平の言っていることは正しい。
 血の繋がりが全てではない。
 現に、多少なりとも血の繋がった親戚連中を智成には家族とは絶対に思えない。
 それほど、親戚連中の母への想いが薄いことが堪えたのだ。
 だが、問題はそれだけではないのだ。
「血の繋がりがなくても家族にはなれるかもしれない。……でも、初対面の俺を引き取る理由にはならないんじゃないですか?」
「本当にそう思う? 僕はそうは思わない。一緒に暮らしたいと思うのに理由なんかいるの? いらないよね、少なくとも僕はそう思ってるよ」
 恭平の言うことに、つい納得してしまいそうになる。
 常識的なことを言っているようで、実際は非常識な言葉を。
 心の何処かで、嬉しいと思っているのかもしれない。
 母がいなくなって、ひとりで。
 親戚連中は様子を見にも来ない。
 決して来て欲しかったわけではないが、そのことが自分がひとりなのだということを明らかにされているようで哀しかった。
 そんななかに、恭平が入り込んできたのだ。
 智成の心に。
 優しい言葉と温かい笑顔。
 何処か父を思い出させるような、智成を見る眼差し。
 心が揺らぐ。
 恭平が本気で言っているならば。
 こんなに真剣に言ってくれているのならば。
 親戚連中のうちの誰かの所に行くよりも、ずっと。
 安心できるのではないか。

「でも……俺は、この家を離れたくない……」
 気がつけば、そう言っていた。
 これでは、家のことがなければ恭平と一緒に暮らすことを肯定しているのも同じだ。
 だが、智成は、本当は誰かに縋りたかったのだ。
 ひとりになったこの寂しさを。
 辛い気持ちを包み込んでくれるような、相手に。
 智成のことを本気で考えてくれる、そんな相手を……この1週間、求めていたのだ。
 それは恭平なのだろうか。
 信じても良いだろうか。
 こんなに弱い自分を、父と母は許してくれるだろうか。
 智成の心は、大きく揺れていた。

「僕が此処に来てもいい……智成君が良ければ」
「え……でも、瀬野さんはさっき、“僕の所へ、来て欲しい”って……」
 それは恭平の家に智成が来て、そこで一緒に暮らしたいということだろう。
「うん、言ったね。でもね、智成君がこの家を離れたくないんなら、僕は構わないよ」
「でも……」
「僕がこの家に住むのは嫌? だったら、何か別の方法を考えても……」
 恭平は、どうしてこんなに優しいのだろう?
 別の方法などあるわけがないのに、それでも恭平は考えてくれる。
 今、誰よりも智成のことを考えてくれているのは、恐らく恭平だろう。
 心が恭平に傾きかけるのを感じながら、だが智成は、今すぐに結論は出せないと思う。
 出すべきではないと、そう思う。
 突然言われて、勢いで頷いたみたいだから。
 混乱している頭を整理しながらゆっくり考える時間が必要だと思う。
「あの……」
「ん?」
 穏やかな表情を崩すことなく、恭平は智成を見る。
「少し、考えさせてください。すぐには決められないです、だから……」
「解った、そうだよね。さっきも言ったけど、今すぐじゃなくていいんだから。ゆっくり考えて、ね?」
「……はい」
 上手く丸め込まれたような気もする。
 だが、恭平の傍が智成にとって心地良いのは確かだった。
 1週間ぶりの、安心感。
 それを今、智成は感じている。



「じゃあ、今日のところは帰るよ。……そうだ、これ」
 しばらくして、恭平は立ち上がり、ポケットから薄い紙を出した。
 名刺だった。
 受け取り、書かれている文字を見る。
“『喫茶・ひだまり』 店長・瀬野恭平”
「ひだまり……」
「そう。日あたりの良い暖かい所って意味だよ。そういう空間にできたら良いと思って店名にしたんだ」
「喫茶店を、経営してるんですか……」
「まあ小さいところだけどね。一度、来てみてくれると嬉しい」
 そう言って、恭平は玄関へ向かう。
 靴を履いて、外へ出ていく。
「いつでも来てくれて良いから。待ってるよ」
 そう言い残し、恭平は帰っていった。


 智成は渡された名刺を握りしめ、恭平の言ったことを思い出してみる。
 最後の言葉は、喫茶店に行くことだけではなく、一緒に暮らせる時を待っていると、そういう意味にも智成には聞こえた。
 いつか、そんな日が来るのだろうと、そんな漠然とした予感があった。
 今は解らないけれど、いつかきっと。



2002/12/23



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