■サンクチュアリ■ −3− 名刺を手に、智成は店の前に立った。 『喫茶・ひだまり』 その看板の前に。 恭平が智成の家を訪れた、その翌日。 午前中をひとりで家で過ごした智成は、恭平との会話をじっくり考えていた。 恭平と一緒に暮らすこと。 どんな形でも良い、どこでも良い、そう言った恭平と一緒に暮らすことを。 気持ちは、ほとんど決まっていた。 断る理由なんか、なかった。 この1週間で、恭平よりも自分を心配してくれる人などいなかった。 1番、安心できる。 だが、智成は心にブレーキをかける。 恭平は一緒に暮らすのに理由などいらないと言った。 本当にそうだろうか。 それは家族とかもっとごく親しい間柄の人同士ならば言えることであって、初対面でそんなことを言えるものだろうか。 だが、だとしたら恭平が智成を引き取ろうとする理由は何だろう。 母に感謝していたとしても、そのお礼だとしても、智成を引き取ることは重すぎることではないか。 ……結局、恭平の真意が分からないので思考は堂々巡りだった。 これ以上、考えるのはよそう。 そう思っても、ひとりきりの家で何をするでもない智成には、どうしてもそこに考えがいってしまう。 今日は平日で学校はある。 忌引で休める期間も過ぎている。 それでも学校へ行く気にはなれなかったから、こうやって家でひとり考えることしかできないのだ。 ふとテーブルの上に置かれた名刺に視線を向ける。 ……行ってみようか。 あれこれ考えるよりも、本人に直接聞いた方が確実だ。 恭平が話してくれるかどうかは解らないが、何もしないよりも……ここでひとりでいるよりも、恭平の所へ行った方が良い。 もしかしたら、学校に行かなかったことを聞かれるかもしれないけれど。 ひとりで考えるのは、もう嫌だった。 特に、今日は……。 今日だけは、ひとりでいたくなかった。 智成は立ち上がると、家を出た。 手には、名刺を握りしめて。 そうして、探し当てた場所。 恭平の店。 さっきから智成は、店の前で突っ立っていた。 ここまで来たは良いが、どうしても入る勇気が出ない。 通りを車が走っていくのを横目に見ながら、智成は拳を握りしめた。 いつまでもここにいてもどうしようもない。 唇を噛んで、手をドアにかける。 そっと、ドアを押す。 ドアの上の方につけられた小さな鐘が、来客を告げた。 「いらっしゃいませ」 昨日聞いた穏やかな声が、智成の耳に聞こえてくる。 「あ、の……」 ドアを開けたまま、智成自身もそれ以上店内に入れないまま、呟く。 「智成君? 来てくれたんだね」 恭平の方は、すぐに智成だと気付き、カウンターから出てきて足早に近寄ってきた。 ドアを閉めながら、智成の背中を押して中へと促す。 「そこ、カウンター席にでも座って」 前方に見えるカウンター席を指差し、そこへと誘導する。 「あ。は、はい」 つっかえながら、カウンターへと近づいていく。 そこには先客がいた。 「あれ、初めて見る顔じゃないか? マスターの知り合い?」 「ええ、まあ」 興味深そうな顔で聞いてくる男ににこやかに答え、智成を席に座らせた。 「入院中にお世話になった人の息子さんです」 「ああ、さっき言ってたっけ。君がそうなんだ」 男は手に持っていたカップを置き、智成を見た。 「マスターが君のことを話してたよ」 「はあ……」 智成は生返事を返すことしか出来ず、ぼんやりと男を見返した。 ……まさか恭平は、母さんや自分のことを店に来る人みんなに言っているのだろうか。 そう考えて、元々居心地が悪かったここが、更に居づらくなってしまった。 「ああ、ごめん。いきなりこんなこと言って。……マスター、今日は帰るよ。また今度来るから」 智成の気持ちを察したのか、男は立ち上がった。 「わざわざすみませんでした」 「全快祝いに来ただけだから、気にしなくていいよ」 そう言って、男は智成にも手を振ると、店を出ていった。 「ありがとうございました」 恭平は、それを見送った後、智成に笑顔を向ける。 「来てくれてありがとう、嬉しいよ」 智成は黙っていたが、恭平はそれでも優しい目で見ていた。 それを見ると、学校へ行かなかった後ろめたさはあったが、恭平がそのことについて触れないのに安堵もしていた。 「お昼はまだ?」 「あ、まだ食べてません」 「そう。じゃあサンドイッチはどう? すぐに出来るよ」 「え……でも……」 「お腹、空いてるよね」 本当だった。 最近、食欲がなくてあまり食べていなかったのだ。 智成が頷くと、恭平は、解ったと言って、サンドイッチを作り始めた。 言ったとおり、サンドイッチはすぐに出来上がり智成の前に置かれた。 一口で食べられるように小さく四角に切られたパン。 メニューをちらっと見てみると、そこに載っていた写真のサンドイッチは割と大きめだった。 恭平を見ると、ただ笑うだけで何も言わなかったが、食欲がないだろうということを考慮して作ってくれたことが解った。 そんな些細な気遣いが、今の智成には、とてつもなく嬉しく感じられる。 食欲がなくても、食べられる。 そう思えた。 「美味しい……」 ひとつを口に入れてみて、そう呟く。 「そう? 良かった、口にあって」 安堵の表情を浮かべた恭平が、店のドアのほうへ歩いていく。 どうしたのだろう、と智成が見ていると、恭平はドアに掛けていた“営業中”の札を“定休日”にしてしまった。 「瀬野さん……?」 そうしてドアに鍵を掛けると、再び智成の傍に来て、隣に腰を下ろした。 「あの、良いんですか、お店……」 戸惑いながら、智成は訊ねる。 「うん、良いんだ。元々、智成君が来てくれた時には店を休むつもりだったからね」 「そんな……あの、俺、また出直してきます。さっきの人だって……」 「あの人は全快祝いに来てくれただけだよ。退院は5日程前にしていたけど、まだ店は開けてなかったからね」 「あ、そう言えば骨折したって……」 それで入院して、母と知り合ったのだ。 「掃除中に脚立から落ちてしまって。でも、ひどい骨折じゃなかったし、もうほとんど治ってるんだ。生活に支障はないし、だから昨日、智成君のところへ行ったんだ」 それを聞いて、安堵する。 退院していくらもしないうちに、結構離れている智成の家まで来たりして足は大丈夫なのだろうかと思ったのだ。 反面、店を開けるより先に、自分の家に来てくれたということが嬉しかった。 サンドイッチを口に運びながら、そんなことを考えていた。 サンドイッチをほとんど食べ終えた頃、智成は今日ここに来た目的のひとつを恭平に切り出そうとした。 だが、言う前に、少し躊躇う。 どんな返事が返ってくるだろう。 それが気になる。 「瀬野さん。……瀬野さんは昨日、一緒に暮らしたいと思うのに理由なんかいらないって言ってましたけど……俺、やっぱり良く解らなくて……どうして一緒に暮らそうと思ったんですか?」 それでも、意を決して訊ねた智成に、恭平は穏やかに返した。 「どうしてかな……僕も、正直言って良く解らないんだ。入院中にお世話になった人の息子さんだから智成君と暮らしたいって思ったのかもしれないけど……でもね、もし智成君が羽山さんと何の関係もない人だったとしても、それが智成君だったなら僕は一緒に暮らしたいと思ったと思うよ」 「? あの、良く解らないんですけど……」 「そうだね。僕も、本当に解らない。でも、智成君だから、一緒に暮らしたいって思うんだ」 「…………」 そう言われても、やはり智成には良く解らなかった。 恭平も解らないと言っているけれど、恭平は恭平なりに考え、答えを出したのだということは解る。 “智成君が智成君だから” 良くは解らないけれど、その言葉に、妙にくすぐったさを感じるのは気のせいだろうか。 ……いや、少なくとも、嫌だとは思わない。 むしろ……。 「そうだ、智成君に渡したいものがあるんだ」 唐突に、恭平が立ち上がった。 驚いて仰ぎ見るが、恭平はカウンターの向こうへ行ってしまう。 目で追ってはみるものの、智成が座っている位置からは恭平が何をやっているのか何を持ってこようとしているのか解らなかった。 やがて、恭平は大きな箱を抱えてこちらに来てその箱をカウンターの上に置く。 そして箱から、何かを出した。 「今日、誕生日だよね。おめでとう」 差し出されたものを見て、智成は目を見張った。 「あ……」 同じものだった。 毎年、母が作ってくれたものと同じケーキ。 違うのは、その大きさだけだった。 「このケーキね、入院中にお母さんに教えてもらったんだ」 「え……?」 「ケーキは作るのが苦手でね。店のメニューにもないんだよ。そう言ったら、作り方を教えてくれたんだ」 16本の小さな蝋燭を立てながら、思い出すように話す。 「智成君の誕生日に毎年焼いているんだって言ってた。甘いものが苦手だから甘さは控えめだって」 蝋燭に火を灯す。 「母さんの……」 炎に揺れるケーキを見つめる。 今年は食べられないと思っていた。 母のケーキ。 今年はひとりぼっちで過ごすのだろうと思っていた。 だからひとりでいたくなかった。 だからここへ来た。 目の前のケーキに顔を近づける。 目を閉じて、蝋燭の灯りを吹き消す。 恭平がケーキを切り分けていくのをぼんやりと眺める。 「どうぞ」 そっとフォークを手に取って、恐る恐るケーキに伸ばす。 躊躇いながら、ゆっくりと口に入れた。 「……母さんの、味だ……」 毎年作ってくれるものと全く同じ。 そう思ったら、目の奥に、熱いものがこみ上げてきた。 目尻に涙が浮かぶ。 涙を零すまいと慌てて腕で目元を擦ろうとする。 だが、上げた腕は力強い手によってそれを阻まれた。 一瞬、目を見張ったが、すぐに智成はもう片方の腕で涙を止めようとする。 「駄目だよ」 穏やかで、だが強い口調で、両の腕を掴まれる。 「瀬野、さん……?」 「泣きたいのを無理に止めることはないんだ」 ゆっくりと腕を降ろされ、今度は包むように手を握られる。 「お母さんが亡くなってから泣いてないんだろう?」 「…………」 「泣いて良いから……ここには僕以外、誰もいないから、思い切り泣くと良い……」 後から後から、涙が流れていく。 そうだ。 泣いたことなんかなかった。 泣いたら、どうしようもなくなるから。 足下から、何かが崩れていくような気がするから。 ……泣いても、誰もいなかったから。 そうしたら、もう涙が止まらないような気がして……。 「……っ……」 哀しくて、辛くて、本当は泣きたかった。 泣きたかった。 「う……」 それでも、泣いて良いと言われても、声を押し殺して泣くことしか出来なかった。 下を向いて、出そうになる声をとどめて。 嗚咽を漏らす。 我慢のために、肩が震える。 「無理しなくて良いんだ……」 だが、その優しい声に、震えが収まった。 代わりに、声がどんどん大きくなっていく。 「っ、母さん、母さん……っ!」 何で、何で。 母がいなくなったら、ひとりになってしまう。 母がいたから、哀しくても笑っていられたのに。 ……寂しい。 でも、それよりも、辛いのは。 「俺、母さんに何にもしてあげられなかった……!」 再び、震えが智成を襲う。 父が死んでからひとりで智成を育ててくれた。 働いて、家事もして、いつも自分のことを考えて。 そんな母を見てきて。 でも何も出来なかった自分に腹が立った。 いつか母に、母が自分にしてくれた以上のことを返そうと思っていたのに。 「こんなことなら……いつかじゃなくて、今何かすれば良かったのに……っ」 半ば叫ぶようにしてそう言うと、智成の手を握っていた恭平の手が外された。 そしてその手はすぐに智成の背中に回される。 ぐっと引き寄せられ、智成は恭平の胸に倒れ込んだ。 「瀬野さ……」 しゃくり上げながら、顔を上げようとすると、それを阻むように智成の頭に手が置かれる。 何度も何度も、あやすように宥めるように、頭と背中を撫でてくれた。 その優しさが、温かさが、じわじわと智成の心に浸透していった。 恭平は何も言わず、智成の言葉を聞いてくれている。 口を挟むことなく、智成の言うことを黙って聞いてくれていた。 少しずつ震えが収まって、智成は息を吐いた。 涙ももう、止まっていた。 恭平の手は、まだ智成を優しく包んでいる。 「智成君は、優しいね」 不意に、頭上で、恭平の声が聞こえた。 今まで何も言わなかった恭平が、智成が落ち着くのを待って囁いた。 「でも、お母さんは、そんなこと思っていなかったんじゃないかな? 智成君の成長が何より楽しみだったんだよ。お母さんは何かを返して欲しいなんて思っていなかったと思うよ」 「瀬野さん……」 「僕は母親になったことはないし、これからもなれないけど……母親ってそういうものじゃないのかって思う」 抱きしめていた腕を外すと、智成の目を見て言葉を続ける。 「今こんなに智成君が苦しんでいる分だけ、お母さんもきっと苦しいんじゃないかな」 「俺、俺は……」 自分は、何も解っていなかったのだろうか。 解っているつもりで、一番解っていないのは自分だったのかもしれない。 母はいつだって笑っていた。 辛い時でも、哀しい時でも、苦しい時でも。 全ては、智成のために。 そして母自身のために。 智成が自分の思うように生きられるように、それを見守られるように。 それが、母の幸せだったのだと。 そう、思って良いのだろうか。 恭平の言うように、そう思っても。 ―――そう、思いたい。 「でも本当に良かったよ。少し緊張してたんだ、ケーキなんてまともに作ったの初めてだったから。折角教えてもらったのに上手く出来なかったらどうしようって。……何とか出来たけど、肝心の智成君の口に合わなかったらどうしようって。お母さんのケーキを台無しにするかもしれないって思ってたんだ」 「そんな……」 恭平はきっと一生懸命作ってくれたのだろう。 店に出すつもりで教えてもらったケーキを、智成の誕生日に出すために。 ……智成のために。 「俺、嬉しかったです。母のケーキ、もう食べられないと思ってた……」 「嬉しいな、僕も。作って良かった……本当言うとね、なかなか上手くいかなくて、昼前までかかって作ったんだ。大きさは……ちょっと大きすぎたかもしれないけど、つい張り切りすぎて」 照れたように呟く恭平に、智成は少し笑ってしまう。 智成も、少し照れてしまったから。 「あ、でも。俺が今日来なかったら、どうするつもりだったんですか? そのケーキ」 照れ隠しに、そう言う。 「勿論、持っていくつもりだったよ、智成君の家に。やっぱり誕生日のその日に渡したいからね」 瞬間、顔が熱くなって俯いてしまった。 「最初は、お焼香に行くの今日にしようかと思ったんだけど、いきなり来てケーキなんて渡したらびっくりするんじゃないかって思い直したんだ」 いきなり初対面で一緒に暮らそうと言われるよりは、そちらのほうがまだびっくりしなかったと思う。 だが、恭平の声音からは真剣な気持ちが伝わってきて、本心からそう言っているのが解る。 恭平の気遣いや優しさ、温かさ、ちょっと感覚がずれているところ。 何もかもが、智成の心にすんなり馴染むような気がした。 そうしたら、自分の今の状態が、急に恥ずかしくなった。 母がいなくなって落ち込んで、自分を責めて。 無気力になって、学校へも行かず――― 自分は一体何をしていたんだろう。 何をしているんだろう。 恭平のこの優しさに……何も言わない恭平に甘えている。 それはすごく楽だけれど。 それでは駄目なのだ。 閉じこもって、甘えて……そればかりではどうにもならないのだ。 甘えっぱなしでは、いけないのだ。 ……だから。 「瀬野さん、俺……」 顔を上げる。 恭平が、まっすぐ自分を見ている。 それに負けないように、智成も恭平をまっすぐ見た。 「俺、明日学校行きます」 はっきりと、そう告げた。 恭平は、黙って微笑んでくれる。 「だから……あの、明日も……」 ここに来たい。 その言葉を智成が言い淀むと、恭平は優しく言ってくれた。 「明日は、残りのケーキを一緒に食べようか」 「……はい」 智成の、止まっていた時間がようやく動き出した瞬間だった。 2003/1/15
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