■サンクチュアリ■ −4− 「智!」 教室に入ると、すぐに聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。 「来たんだ、もう良いの? 大丈夫?」 こちらに駆け寄ってくる。 あまりの勢いに、面くらってしまう。 「でも本当に良かった。心配してたんだよ」 自分たちの席へ向かいながら、明るく話しかけてくる。 智成に話す機会を与えないほどに。 惣一なりの気遣いだということは解っているので、智成も無理に口を開くことはしなかった。 榎本惣一(えのもと・そういち)は、高校に入学してすぐにできた友達だ。 母が生きていた頃は、惣一の家で夕飯をご馳走になったり、時には泊めてもらったりもしていた。 それはいつも、母が夜勤で一晩家に帰ってこない時だった。 本当に、惣一の家族には良くしてもらっていた。 「様子見に行けなくて、ごめん。……なんかさ、智に会うのが辛かったっていうか……」 そんなの、良いのに。 それは辛い時に惣一がいてくれれば、少しは楽になったとは思うけれど。 自分もそう言う立場になったら、どんなに心配でも様子を見に行けなかったと思うから。 親しい人を亡くした人に、かける言葉なんて見つからないから。 それよりも智成は、学校に来てこうして声をかけてくれる、心配してくれる友達がいて、それだけで十分だった。 それに、優しさや温もりは、もう十分もらっているから……。 恭平と……そして惣一に。 「良いよ、気にしてない。ありがと」 「そ、そっか」 智成の言葉に、安堵したように惣一は微笑んだ。 自分の席に着き、椅子に座る。 惣一の席は智成の前なので、いつも惣一が後ろを向いて話していた。 今もそうしているのだけれど、惣一は智成の方を向いているだけで話そうとはしなかった。 何かを言いたそうで、けれど言いたいけれど言えない、というような感じだった。 「惣一?」 智成が声をかけると、やがて決心したように口を開く。 「……智、これからどうするの? 親戚の人とかは……」 ああ、やっぱりそれか……と、意外に冷静にその言葉を聞けた自分に驚いた。 そして思う。 冷静に聞けたのは、多分……恭平のおかげだと。 だから次の言葉も、落ち着いて言えた。 恭平に言った時は、取り乱していたけれど。 今度は。 「うん……今、揉めてるみたいだけど。でも……」 「でも……何?」 「その……俺のこと、引き取りたいっていう人がいて」 「えっ!? だ、誰、それ!?」 惣一は、急に大声になり身を乗り出す。 「か、母さんの患者だって。母さんに世話になったからって言ってた」 その様子に、たじろぎながらも智成は答えた。 けれど、その言葉を聞いた惣一は怒ったような顔になる。 「ちょ……っと待ってよ。それだけ? それだけの理由で、智を引き取るって言ってんの?」 「そう、だけど」 「…………」 惣一は、一体何を言いたいんだろう? 恭平が、智成を引き取ることがそんなにおかしいのだろうか。 それは智成だって考えた。 世話になった人の息子だからって引き取ろうなんて、どうしてそんなことが言えるのか解らないと。 けれど、恭平は……恭平は……。 「どんな人、その人……?」 しばらくして、惣一が低い声で智成に問うた。 「どんなって……優しい、と思う」 そうとしか、言えなかった。 恭平にもらったものは他にもあったけれど。 それを一言で言うことなんてできないから。 智成は惣一の様子を伺いながら、恭平のことを思った。 初めはどうして引き取りたいなんて言ったのか解らなかった。 もちろん、今も解らないのだけれど。 恭平の態度を見ていて、少なくとも本気で言っていることは良く解った。 今は、それだけでも十分なのだ。 自分を必要としてくれる人がいることが嬉しかった。 気にかけてくれる人がいることが、本当に嬉しいのだ。 「……会いたい」 「え?」 惣一の呟きに、智成は一瞬、言っている意味が解らず聞き返してしまった。 「その人に会わせてよ」 「え、えーと……」 意味を理解して、智成は言葉に詰まった。 「今日、学校終わったら、連れてって?」 今日は、恭平の所へ行くことになっているけれど。 恭平には、ひとりで行くと言ってあるのだ。 友達を連れて行ってはいけないというわけではないけれど。 「きょ、今日? 今日はちょっと……明日だったら……」 智成は、咄嗟にそう言っていた。 ……何故、自分がそんなことを言ってしまったのかは解らない。 けれど、そう言ってしまっていた。 惣一は、特に機嫌を悪くしたようでもなく、あっさり頷いた。 「ん。じゃあ、明日ね」 「う、うん……」 智成は、戸惑いながらも頷いたのだった。 「瀬野さんって、どこに住んでるんですか?」 学校が終わって、智成はまた恭平の店に来ていた。 恭平は、わざわざ智成のために店を臨時休業にしていた。 目の前には、ケーキ。 昨日の残りだ。 味はというと、焼き立ての昨日よりは落ちるけれど、それでも美味しい。 母と恭平が作ったものだから。 そう思っている。 恭平は、言っていたとおり智成の隣で一緒にケーキを食べていた。 そうしながら、学校の話などをして過ごしている。 今は専ら、智成が恭平にいろいろと尋ねているところだった。 「この店の裏だよ。店の裏口から出るとね、家の裏口がすぐ近くにあるんだ」 「そうなんですか……近くて良いですね」 智成は、恭平の答えを聞いて、ふと思う。 智成の家で一緒に住んでも良いと言っていたけれど、そうしたら店までの距離が遠くなる。 少なくとも、今よりも確実に不便になるだろう。 「まあ、楽といえば楽だけど……おかげで行動範囲が狭まってるよ」 今のは……智成の考えを読んで、自分の言葉をフォローしたんだろうか? それとも、ただ思っていることを言っただけ? 「……智成君? どうしたの?」 「あっ、すみません。ちょっと考え事……」 ぼんやりしているところに心配そうに声をかけられて、智成は慌てて答えた。 それから惣一のことを思い出して、恭平に尋ねる。 「あ、あの。明日、友達と一緒に来て良いですか? もちろん、客としてですけど」 「良いよ。待ってるからね」 恭平が快く承諾してくれたので、智成はほっと息をついた。 昨日今日と続けてここに来ているから、さすがに明日まで来ると言ったら迷惑かと思ったからだ。 「ありがとうございます」 御礼を言うと、恭平は笑顔でそれに答えてくれた。 翌日。 今まで来た2回は自分ひとりだったが、今日は惣一と共に恭平の店へやって来た。 「ここ?」 ドアの前で惣一が訊ねる。 「うん、ここ」 「じゃあ、入ろっか」 そう言って、惣一はドアを開ける。 「いらっしゃいませ」 聞き慣れた、穏やかな声が店内に響く。 智成は周りを見回してみた。 初めて来た時は、客はひとりだった。 次に来た時は、休みだった。 そして今日は。 店内に客がたくさんいるのが、智成には新鮮だった。 学校帰りの高校生が多い。 テーブル席はほとんど満席だった。 「智成君、いらっしゃい。……こちらが智成君の友達、かな?」 そう言いながら、恭平は智成たちをカウンター席へ招いた。 ちょうど、端に2席空いていた。 ……もしかして。 智成が見遣ると、恭平はにっこり笑って頷いた。 わざわざ、席を空けておいてくれたのだ。 昨日言った、友達の分も。 「あの……良いんですか?」 智成はついそう言ってしまった。 空けておいてくれたのは確かに嬉しいけれど、そんなことをして他の客は何も言わないのだろうか。 「大丈夫。この時間帯は高校生が多いからね。大抵、数人で来るからテーブル席のほうへ行くんだ」 恭平に促されて、惣一と並んでカウンター席に座る。 そして、コーヒーを2つ頼んだ。 恭平が作っている間、惣一は恭平をじっと見ていた。 手には、カウンター席に座った時に恭平が持ってきてくれたコップを持って。 中に入っている水が、不安定に揺れている。 惣一は手元など気にもしていなくて、今にも水が零れそうになっていた。 「惣一、水が―――」 見かねた智成がコップに手を伸ばすと、 「うわっ」 ばしゃっという音がして、コップが転がった。 智成がコップに触れた拍子に、惣一の手からコップが滑り落ちたのだ。 それは、智成の制服の上着を濡らした。 「智!」 「智成君、大丈夫? 怪我は!?」 恭平が、すぐに音に気付き飛んできた。 「あ、大丈夫です。コップ割れてないし、水がかかっただけですから」 「そう、良かった」 恭平は一度智成から離れ、すぐにタオルを持って戻ってきた。 「これで拭いて」 「あ、すみません」 智成はタオルを受け取って、水に濡れた箇所を拭いていく。 「ごめん、智……」 「ん、良いって」 気にしていないというように笑いかける。 実際、自分も悪かったから。 拭いていると、袖の方も濡れていることに気付く。 いつも左手にしている腕時計も。 カウンターの上は既に恭平が布巾で拭き終えた後だったので、智成は腕時計を外して拭いた後、カウンターの上に置いた。 そして、手首を拭いて、タオルを恭平に返す。 「もう、拭けた?」 「はい、ありがとうございました」 「あ、あのっ」 惣一が、口を挟む。 「すみませんでした。俺の不注意で」 「良いよ、気にしなくて。それよりも怪我がなくて安心したよ」 そう言って、その場から離れていく恭平を見送る。 「……なるほど」 「何?」 ぼそっと呟いた惣一に、訝しげな視線を投げかける。 「智の言ったとおり、優しいんだ」 「うん、そうだね……」 ぼんやりと智成は恭平を見遣る。 ……何だろう。 心が、ざわついた。 喫茶店を出た後、惣一に誘われて夕食をご馳走になった。 智成にとって、久しぶりの明るい食卓で。 誰かと一緒に食べた、夕食だった。 惣一もその家族も、智成の母のことに関しては一切触れなかった。 そのことに、なんとなくほっとしてしまった。 惣一は泊まっていくように言ってくれたけれど、何の用意もしていないし、だからといって一旦家に帰ってもう一度惣一の家に向かうのは面倒だったので、断った。 帰り道、寂しさを感じながら歩く。 ひとりになると、急に辺りが暗くなった気がする。 街灯などの灯りがあって、明るいはずなのに……。 更に、辺りだけでなく、自分の心まで暗く沈んでいくようだった。 それを振り払って、努めて暗くならないようにしようと早足で歩く。 途中、今何時だろうと思って腕を見た。 「……あれ?」 腕時計がない。 ポケットや鞄の中も見てみるけれど。 「どこにもない……あっ」 ふと思い当たる。 「瀬野さんの店だ……」 惣一が水を零した時に、外したまま置いてきてしまった。 ……店に取りに戻ろうか? けれど、惣一の家を出た時にはもう午後9時を回っていた。 今から行っても、迷惑かもしれない。 「……明日でも、良いかな……」 4日連続で行くことになるけれど大丈夫かなと、少し心配になったが、すぐにその考えを振り払う。 行く理由はあるのだし、それに……。 それに、何故か恭平に毎日でも会いたいと思っている自分がいるような気がした。 そんなことを思っている間に、家の近くまで来ていた。 玄関が見えてきた辺りで、智成は足を止める。 ……家の前に、誰かいる。 遠目には良く解らないけれど、少し近づけば街灯と隣家の灯りではっきりと顔が見えた。 その顔を認めると、智成の表情が強張る。 「……叔母、さん……」 智成の小さな呟きは、叔母にも聞こえたようだった。 2003/3/12
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