■サンクチュアリ■ 第1部:「君のとなり」 −5− 重苦しい空気が流れる客間。 来客があった時には、必ず出すはずのお茶は、今はない。 出すことすら忘れていた。 テーブルを挟んだ正面に、目の前に叔母がいる。 今まで、顔も出さず、連絡もしてこなかった叔母が。 そして、用件はひとつ。 “智成は叔母さんが引き取ることになったから” 叔母が家に来て言った言葉は、それだけ。 ひとりの智成を気遣う言葉も何もなかった。 体面、義務。 そんな理由で智成を引き取ることになったのだと。 叔母を見ていれば、手に取るように解る。 後は、智成が頷けばそれで終わり。 そう。 頷く以外に、道はない。 叔母は智成を意志を聞きに来たのではなく、既に決定したことを言いに来たにすぎないのだから。 だが、智成には頷くことが出来なかった。 叔母は、母の妹ではあるが、ほとんど交流はなかった。 そんな、ほとんど知らない叔母の家になど行きたくなかった。 何より、叔母の家は県外で、当然この家を離れなければならないし、転校もしなければいけないだろう。 はっきり拒否できればどんなに良いだろう。 だが、いくら拒否したとしても受け入れられるとは思えない。 そう思うと、頷くことも拒否することも出来なかった。 沈黙したまま、ただ、時間だけが過ぎていく。 痺れを切らしたのは叔母の方だった。 「今日は帰るけど、次に来る時には引っ越す準備をしておいて頂戴ね。転校の手続きとかはこっちでしておくから」 そう言って、話は終わったというように立ち上がろうとしたのだ。 「……ま、待ってください!」 呼び止めて何を言うのか。 そんなこと考えていなかった。 ただ、このまま叔母を帰してしまってはいけない。 それだけが智成の頭のなかを占めていた。 「どうしたの?」 渋々、といった様子で上げ掛けた腰を下ろす叔母。 「…………」 「黙ってたら解らないわ。何か話があるんでしょう?」 呼び止めておきながら何も言わない智成に、叔母は苛立ちを抑え切れずに言った。 その時、智成が思ったことは、あの人だったら自分が言うまで辛抱強く待っていてくれるのに、ということだった。 あの人――瀬野恭平。 恭平なら、智成が言うことをきちんと聞いてくれる。 恭平なら、苛立った様子など見せない。 恭平なら――。 ……恭平なら、こんな体面を気にしてだとか義務だとかで智成を引き取ろうなんて思わない。 そんな様子など、恭平からは微塵も感じられない。 智成と、一緒に暮らしたいと心からそう言ってくれる。 「あの、……俺を引き取りたいって言ってくれてる人がいて……それで」 恭平のことを考えていたら、咄嗟に、そんなことを言ってしまっていた。 「何ですって?」 叔母の声が険しくなる。 「どういうことなの?」 「どういうことって……だから、俺はその人と……」 厳しい声で言われると、弱々しい声音しか出てこない。 智成は、誰にもこんなに威圧感のある態度を取られたことがなかったから。 「その人のところへ行くって言うの?」 「それは、まだ解らないけど……でも、考えてる途中なんです」 「考える必要はないでしょう? うちで引き取るのはもう決まったことなのよ」 「…………」 唇を噛み締める。 「大体、その人はどういう人なの? 親戚ではないんでしょう?」 畳みかけるような叔母の言葉に、智成は何も言い返せなかった。 悔しい。 そう思った。 何も言い返せない自分が、もどかしい。 このままでは、叔母は帰ってしまう。 智成の言った言葉など聞かなかったことにして。 そして、その通り叔母が再び立ち上がろうとした時、玄関のインターホンが鳴った。 「あ、ちょっと出てきますから。待っててください!」 構わず出ていこうとする叔母を制して、智成は玄関に向かう。 夜遅くに誰かと思ったが、智成にはこの来客がありがたかった。 叔母を少しでも引き止められる。 何とか、叔母を説得しなければ。 出来ないと解っていても、そう思わずにはいられない。 「はい?」 夜だということもあり、すぐに扉を開けることはせず、そう呼びかける。 「智成君? 瀬野だけど……」 「せ、瀬野さん!?」 扉の向こう側から呼びかけているのが恭平だと解り、慌てて鍵を外して扉を開けた。 「突然ごめんね」 柔らかい声。 今までの叔母の声を思い出し、その温かい声に安堵を覚える。 初めて恭平が家に来た時は喪服だったが、今日はTシャツにジーンズというラフな格好だった。 「どうしたんですか?」 「腕時計を店に忘れていたから、届けに来たんだ」 恭平が手に持っているものは、間違いなく智成の腕時計だった。 明日取りに行こうと思っていたものだ。 「す、すみません。わざわざ……」 「気にしなくて良いよ。僕も夜遅くに届けに行くのはどうかなとは思ったんだけどね、でもやっぱり時計がないと困るんじゃないかって」 「そんなこと……あの、ありがとうございます」 「どういたしまして。でも、本当は時計を忘れてるってすぐに気付いていたんだ。店を空けるわけにはいかなかったから、届けに来るのが遅くなってしまって悪かったね」 「いえ、そんな……」 恐らく、店を閉めてすぐに来てくれたのだろう。 申し訳なさそうな恭平の顔を見ると、却って恐縮してしまう。 しばらくお互い黙っていたが、叔母といる時の沈黙と違い、すごく穏やかな時間だった。 安心できる、そんな気がして。 「……智成君、大分前に帰ったと思ったんだけど、どうかした?」 不意の問いかけに、意味が解らず首を傾げる。 「え?」 「制服のままだから……何かあったのかと思って」 「あ……瀬野さんのお店を出てから、惣一の家で御飯をご馳走になってたので……」 恭平は智成の返答に安堵したようだ。 「惣一君って、さっき来てくれた友達だよね? だったら良かった。じゃあ、僕はこれで帰るよ。またいつでも、店に来て。待ってるから」 恭平がそう言ってくれるのに嬉しくなる。 いつでも店に行っても良いんだと。 「は……」 「智成? どちら様?」 はい、と。 言いかけた瞬間、いつのまに来たのか背後から叔母の声が聞こえた。 「あ……」 恭平と話していたことで、叔母のこと、叔母の話を頭の隅に追いやっていた智成は、急に現実に引き戻されたようで心が苦しくなった。 それでも何とか振り返り、焦りを含んだ声音で叔母に答えようとする。 ……だが、何と言えば良いのだろう? “この人が、自分と一緒に暮らしたいと言ってくれる人です”……って? いや、さっきの叔母の様子からして、そんなことを言ったら恭平に迷惑を掛けかねない。 “忘れ物を届けに来てくれたんです”……? こんな遅い時間にわざわざ、と不審に思われるかもしれない……。 智成が躊躇っていると、肩に恭平の手が置かれた。 「瀬野さん?」 今度は恭平のほうに向き直る。 「お客さんが来ているようだから……僕はこれで」 「え。あ、はい。今日は、どうも……」 「と言いたいところだけど。大丈夫? 顔色悪いよ」 叔母には聞こえないように、小さく訊ねられる。 その気遣いに、縋りたい。 そんな気分になった。 迷惑を掛けるとか、そういうこと以上に、恭平の優しさに頼ってしまいたい。 その思いが膨れあがる。 「叔母なんです……俺を引き取るって……」 たったひとりの自分を唯一、理解してくれる人。 それが、瀬野恭平なのだ……。 「そう……智成君、ちょっとお邪魔しても良いかな」 「え……?」 「叔母さんに、きちんと話をしようと思うんだ。丁度良い機会だしね」 そう言った途端、智成が不安そうな表情をしたのに気付いた恭平が、柔らかい声音で言葉を紡ぐ。 「僕は、智成君が自分の意志で叔母さんのところに行くと言うのなら止めることは出来ない。でも、もしそうじゃないなら、僕は君を叔母さんに渡したくないんだ」 「せ、瀬野さん……」 思わず、赤面してしまった。 恭平の表情は真剣で、誠実で、凛としていて。 それが全て、自分に向けられている。 「最初に言ったよね。“君にそんな顔をさせるような親戚の人に君を渡しても、きっと幸せに暮らすことなんてできない”って。今、智成君はあの時と同じ顔をしてる。僕は、そんな辛そうな顔を黙って見ていられない」 だから。 智成の目を見る。 「だから、叔母さんときちんと話がしたいんだ。智成君にそんな顔をさせないためにね」 「瀬野さん……」 「入っても良いかな」 恭平の言葉が、じわっと心に沁みた。 その温かさに。 智成は、母に感謝した。 恭平と知り合ってくれてありがとう、と。 こんなに良い人と、自分を会わせてくれてありがとう、と。 「はい……どうぞ……」 だから、迷いなくそう言った。 智成の言葉と表情に、恭平が微笑みを向ける。 安心させるようなその笑みは、事実、智成の心を軽くしてしまった。 やがて、やんわりと智成から視線を外すと、叔母をまっすぐ見る。 叔母は、恭平がどういう人なのか解らず、困惑しているようだ。 「智成君の叔母さんですよね。お話があるのですが」 恭平はそう言って扉を閉めると、叔母の返事も待たずに家の中に入った。 2003/05/24
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