■サンクチュアリ■ 第1部:「君のとなり」 −6− 隣に、恭平がいる。 そのことが、こんなにも安心感をもたらしてくれる。 さっき、叔母と2人で向かい合っていた時の孤独で苦しい時間……。 なのに、此処に恭平がいるというだけで、孤独ではなくなった。 今、叔母と向き合っているのは、智成ひとりじゃない。 恭平が、隣にいてくれるから……。 「初めまして、瀬野恭平といいます」 丁寧な言葉遣いで、軽く叔母に頭を下げる恭平。 「智成の叔母です」 叔母も、同じように挨拶をする。 急に現れた来客に驚いていた叔母も、さすがに答えないわけにはいかなくなったらしい。 「それで、お話というのは?」 「智成君のことです」 「智成の?」 「はい。是非――僕に智成君を任せて頂けないかと」 「――何ですって……?」 穏やかな口調の恭平とは対称的に、叔母の声が険しくなる。 「僕は、智成君と一緒に暮らしたいと、そう思っています」 「な……」 絶句する叔母。 それも当然の反応だろう。 初対面の、しかも、智成のどんな知り合いかも解らない人に、突然そんなことを言われたのだから。 「今日は、そのことをお話したいと思ってお邪魔しました」 「…………」 沈黙が部屋に満ちた。 智成は、恭平と叔母を交互に見る。 叔母の反応が気がかりだった。 けれど……。 嬉しかった。 きっぱりと、恭平が言ってくれたこと。 “智成君と一緒に暮らしたい”――そう、何の迷いもなく言ってくれたことが……。 叔母は、唖然としたまま、しばらく何事かを考えているようだった。 やがて、何かに思い当たったように顔を上げ、 「もしかして――貴方が、さっき智成が言っていた……」 低い声でそう言った後、智成を厳しい顔で見据える。 「そうなのね、智成」 “智成を引き取りたいという人” それが恭平だと、確信した声音。 否、確信せざるを得ないだろう。 ああもはっきりといわれてしまっては。 「……そうです」 今更、躊躇っても仕方がない。 智成も、きっぱりと叔母に答える。 ――大丈夫。叔母に怯える必要などない。 恭平が、傍にいてくれるのだから。 「そう……。瀬野さん、貴方、智成とどういう関係でいらっしゃるの?」 智成の答えを聞いて、叔母は恭平を厳しく詰問し始めた。 「智成君は、僕の恩人の息子さんなんです。智成君のお母さんには病院でお世話になりましたから」 「……ただの、患者ってことじゃないの。それなのに、智成を引き取ろうなんてどういうつもり?」 「一緒に暮らしたいから、ただそれだけです」 「そんなの理由にはなっていません! それにもう、智成はうちで引き取ることに決まったんです。血の繋がりも、何の関係もない他人に、家族の問題に口出しなさらないで頂きたいわ!」 「智成君の家族は、智成君自身が決めることですよ。智成君自身が家族だと思える人……それが、本当の家族なんだと僕は思うんですけど」 「! それが貴方だと仰りたいの? 馬鹿馬鹿しい、昨日今日出逢った人に、そんなこと思えるものですか」 口を挟む間も、息つく間もない。 お互い、一歩も譲らない。 ただ、叔母だけが熱くなっていて、恭平のほうは穏やかなままだというだけだ。 そんな恭平に、智成は頼もしさを感じずにはいられない。 だが、叔母の次の言葉に顔が引きつった。 「もしかして……。――いえ、きっと何か魂胆があるんじゃないの。でなければ、よく知りもしない子を引き取ろうなんて思わないわよ。残念ですけどね、財産なんてものはこれっぽっちもありませんからね。財産を期待しているのなら――……」 瞬間、全ての音が消えたような感覚に陥った。 ――そして。 「せ……っ、瀬野さんはそんな人じゃないっ!!」 突然大声を上げたことに、自分自身驚いた。 だが――。 叔母の言葉が、許せないと思った。 恭平に対しての暴言を。 ……許せなかった。 今の智成には、それだけしか頭になかった。 「確かに、俺は瀬野さんとは会ったばかりでっ。瀬野さんのことなにも知らないかもしれないけど、でも……でも……!」 自分が口走っていることも、何もかも、頭で考える前に勝手に表に出てしまうのだ。 呆気にとられている恭平と叔母の様子にも頓着出来ず――。 「瀬野さんは優しい人だって、すぐに解った。ちょっとずれてるところもあるけど、すごく優しい人だって!」 頬を、湿ったものが流れ伝っていることにも気付かなかった。 気付けなかった。 「だから叔母さんにそんなこと言われたくない! 瀬野さんときちんと話したこともないのに、瀬野さんのこと悪く言われたくない……!」 ただ言いたいことを全てぶちまけた。 今まで呑み込んできた言葉の代わりとばかりに、ただ、感情の侭に。 言い終えた後には、嗚咽だけが残った。 肩が上下に揺れて、息が上手くできない。 しばらくして、ふわり、と、何か温かいものが肩に触れた。 「あ……」 震えていた肩が少しだけ治まる。 恭平の優しい手が、智成の肩を抱いていた。 そして……上げた顔のすぐ傍に、恭平の穏やかな……同時に、哀しげな表情があった。 「瀬野、さ……」 呼びかけは最後まで言葉にできなかった。 恭平の哀しげな目に、動揺してしまった。 「智成君」 自分の名を呼ぶ恭平の、切ない声。 出逢ってからまだ日は浅いが、今まで、恭平のこんな声を聞いたことはなかった。 ――どうして? 「ありがとう、智成君」 どうして、そんな声で。 そんな、御礼の言葉など……“ありがとう”だなんて……言えるんだろう。 聞いているだけで、辛くなる。 そんな辛い響きの、“ありがとう”……。 「ありがとう……智成君は僕のために怒ってくれたんだよね。嬉しくないって言えば嘘になる。でもね……」 「瀬野さん……?」 「……でも、僕は、すごく苦しいよ。智成君は……僕のことを優しい人だと言ってくれたけど、本当は人のことをそんな風に言える智成君のほうがずっとずっと優しい子なんだよ。だから、僕のために怒ったり泣いたりするのは見たくないんだ……なのに、そうさせてしまったのが僕自身だということが、すごく苦しい」 「瀬野、さん……」 苦しみに満ちた声音で、辛そうな顔で、それなのに……。 不思議なことに、恭平の言葉は智成の心に優しく染み渡っていく感じがする。 恭平の優しい想いが、伝わってくる……。 その時、不意に気付いた。 叔母に対して言いたいことを吐き出して、けれど、肝心なことは伝えていない……伝えられていないことを。 「叔母さん」 真正面から、叔母を見た。 初めてかもしれない。 こんなにまっすぐ、しっかりと、叔母の目を見据えて話を切り出すのは。 ずっと厳しい目を見せていた叔母の目が、たじろいだように泳いだのを見たのは……。 「俺は、瀬野さんと一緒に暮らしたい。だから、叔母さんの所へは行きません。……それを、認めてください」 「と、智成……」 最後まで、目線を叔母から背けずに、言い切った。 ……言い切れた。 そして、絶句した叔母は。 しばらくの静寂の後、立ち上がり、 「……そう、……それなら、勝手にしなさい」 吐き捨てるように、けれどどこか寂しさをも感じさせるような声音を残して、叔母は部屋から出て行った。 その後ろ姿を、智成は信じられない気分で見ていた。 叔母が自分の言葉を、認めてくれるとは思わなかったのだ。 否、認めてはいないかもしれないけれど。 それでも……、あっさり引き下がってくれるとは思いもしなかった。 一気に、力が抜けていくような感覚を覚えた。 叔母が帰ってから、恭平と2人きりの客間は静かな時間が流れていた。 智成は、叔母に自分の言いたいことをはっきりと言えたことに、驚きを感じていた。 同時に、胸のつかえが下りたような、すっきりした気分でもあった。 叔母の様子は気になるけれど、それ以上に、安堵の気持ちの方が大きかった。 それは、隣にいてくれる恭平のおかげでもあり、だからこそ、今度は恭平に言いたいことがある。 さっき叔母に向かって言ったことを、今度は恭平に。 「あ、あの、瀬野さん」 「うん?」 「さっきのことなんですけど……、瀬野さんと一緒に暮らしたいって言ったこと……」 「うん、解ってる。大丈夫、焦らなくても良いんだよ。もっとゆっくり考えて……」 智成の言葉が、叔母の所へ行きたくないがために出た言葉だと勘違いしたらしく、恭平は的はずれな返答を寄越す。 いつも優しくて、智成のことを良く解ってくれている恭平。 そして、叔母と対峙していた時に感じた、頼もしさも持っている恭平。 それなのに、どうしてこういう時だけ、自信がないような一歩退いたような態度を見せるのだろう。 「そうじゃないです」 「智成君……?」 「勢いとか話の流れで言った訳でもなくて。……本心なんです」 「智成君……」 恭平は、智成の言葉を噛み締めるように少しの間目を閉じ、やがて穏やかな微笑みを浮かべた。 どこまでも澄んだ目で、智成を慈しむように見つめる。 そして、改まったようにかしこまって、ただひとこと、恭平は言葉を紡いだ。 「僕と……一緒に暮らして欲しい」 「はい。俺も、瀬野さんと一緒に暮らしたいです」 恭平の心からの言葉が耳に届いた瞬間、躊躇うことなく、智成はそう言えた。 初めて会った時に、恭平が同じ言葉を言った時には、困惑ばかりを感じていたのに……。 けれど今は。 頷く以外の答えなどあるはずもなかった。 智成は、そっと差し出された恭平の右手を握る。 それが、これからの新しい生活の始まり。 握り返してくれた恭平の手は、優しさに溢れていた。 |