■トライアングル■


−2−


「新っ!」
 家のドアを開けるのももどかしい思いで、叫ぶ。
「新!!」
 何度呼んでも姿を現さない新に、航は苛立つ。
 靴を脱ぎ捨てて、慌ただしく家の中に入った。
 新は、リビングか、それとも部屋にいるのか。
 ここから近いリビングに行ってみようと思った時、目の前のドアが開いた。
「新っ、どういうことか説明し……っ」
 新だと思い、いきなり怒鳴りつけた航だったが、顔を出した人物を認めると、それは新ではなかった。
「……母さん」
 夕食の準備をしていたのだろう、エプロン姿の母がそこに立っていた。
「こーちゃん、お帰り。どうしたの? 騒いでいたような気がするけど」
“騒いでいたような”ではなく、騒いでいたのだ。
 この母を前にすると、憤っていたことも一瞬忘れてしまう。
 母の持つ雰囲気というのか、どうも怒りが持続しなくなる。
 だから、次に出た航の言葉は、先程までの勢いの欠片もなかった。
「……母さん、新は?」
「あっちゃん? あっちゃんなら、まだ部活じゃない?」
 自分が行かないから忘れていたが、そうだ、放課後はいつも部活がある。
 バスケ部も、当然ある。
 あまりに憤っていたため、そのことに頭が回らなかった。
「はあ……」
 勢い込んできた分、力が抜ける思いがした。
 新が帰ってくるのは、恐らく夕食時だろう。
 それまで、待つしかない。

「そうだ、ちょうど良かったわ。こーちゃんが帰ってきたのなら、もう行こうかな」
 嬉しそうに、目を細める。
「行くって……父さんのところ? 早すぎるんじゃない?」
「そんなことないわよ。早く行けばそれだけ長い間航一郎(こういちろう)さんと一緒にいられるもの」
 航たちの父……航一郎は、今単身赴任中で家にはいない。
 結婚して20年近く経つというのに、まだ新婚気分な母は、初め単身赴任を反対していた。
 けれど、断れるものではない。
 それが解ると、家族で引っ越すと言い出したのだ。
 その意見には航たち兄弟が反対したので、結局は、両親が週末ごとに交互で行き来することに決まった。
 先週は父が家に帰ってきたので、今週は母が父のところへ行くことになっている。
 交通費で給料が飛んでしまうんじゃないかと航は思うのだが、そのことに反対するとまた家族で引っ越すなどと言い出しそうなので何も言わなかった。
「もう準備も出来てるし、行くわね。夕食は出来てるから」
 母はそう言って、エプロンを脱ぐ。
 嬉しくてたまらないというように。
 兄2人は部活で帰りが遅く、航は学校が終わってもまっすぐ家に帰ることは珍しい。
 いつもは兄弟たちの誰かが帰ってくるまでは行かないので、航が早く帰ってきたのが余程嬉しいらしい。

 気がつけば、母はもう荷物を持って玄関に来ていた。
 父のこととなると、いつものんびりしている母は別人のようにてきぱきと行動する。
「じゃあ、こーちゃん、行って来るわね。あっちゃんとたっちゃんにもよろしく言っておいてね」
 そう言って、あっという間に家を出ていく。
 その姿は母というよりも少女という方が正しいような気がする。
 航は母を見送りながら、溜息をついた。


 リビングで何をするでもなく、航はぼうっと天井を見上げる。
 新が部活を終えて帰ってくるのは7時近くになるだろう。
「早く帰ってこいよな……」
 もう1度溜息をつく。
 母のことで、大分気が削がれてしまっていた。
 まあ、新の顔を見れば、また怒りが戻ってくるだろうから、それはそれで良かったのだけれど。
 ぼんやりと、航は母のことを考える。
 母は、航のことを“こーちゃん”と呼ぶ。
“こう”ではなく“わたる”という名前なのだが、母が“わたる”と呼んだことは1度もない。
 それは、もともと母が“航”と書いて“こう”と読ませるつもりで名前をつけたからだった。
 けれど父が、それでは自分と同じ読み方になるからと言って“わたる”にしたのだ。
 だからといって、母の呼び方が変わるわけではなかったのだが。
 航にとっては、別にどちらの読み方でも構わないので、気にはしていない。
 そんなことを思っていると、
「ただいまー」
 元気な声が聞こえ、続いてリビングのドアが開いた。
 そちらに目を向けると、同じ顔がふたつあった。
 双子の兄、新と巽(たつみ)が帰ってきたのだ。
「新っ」
「あ、こーちゃん、ただいまー。途中で巽と会ったから一緒に帰ってきたー。……こーちゃん、また部活来なかった」
「こーちゃんって言うな!」
 部活のことは無視した。
「それって差別。母さんが言っても文句言わないのに」
「母さんは新と巽のことも“あっちゃん”“たっちゃん”って呼んでるから良いんだよっ」
 新の場合は、からかうためにそう言っているだけだ。
 現に新は、巽のことは“たっちゃん”とは呼ばない。
 ……と、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「新、どういうことかちゃんと説明しろよ」
「どういうこと……って?」
「とぼけるなよ。朝練の時に、言ったことだよ」
「朝練の時? ……ああ、あれ?」
 思い出した、というように頷く。
 本当に忘れていたのか、忘れた振りをしているだけなのか、どちらか解らなかったが航はその態度に苛々する。
「説明って言われても、本当のことを言っただけだけど?」
 やっぱり、本当なんだ……。
 創を疑っていたわけではないが、どうしても信じたくなかったのに。
「何? 凌(しのぐ)のこと?」
 それまで黙っていた巽が、口を挟む。
「巽、凌って誰?」
「新の恋人」
「……それって、男、だよな……?」
「勿論」
 頭を抱えたくなる。
 朝練の時に言ったということは、バスケ部員の口からそのことが学校中に伝わっていくのではないだろうか。
 今日はまだみたいだったけれど、明日にはもう……。
 そう考えて、頭を振る。
 考えを振り払うように。
「何で、そんなこと言ったんだよ……」
 航がそう呟くと、新は何でもないことのようにあっさりと答える。
「みんなに知ってもらいたかったから。恋人宣言っていうのもなかなか面白いよね」
 笑顔で。
 楽しそうに、言うのだ。
 面白そう。
 それだけで、部員たちに言ったというのだ。
 それで航がどんな思いをしたのかも知らずに。
「新の馬鹿! 新のせいで、俺が武に何て言われたと思ってるんだよっ」
「何、怒ってんの、航」
「怒るだろ、普通。俺まで新と同じなのかとか言われたら!」
 武に言われたことをそのまま新に伝え、同時に航の怒りをもぶつける。
「武、そんなこと言ったの?」
 新は、きょとんとした顔でそう言った。
 1歳しか違わないこともあって、新も巽も航の幼なじみのことを良く知っている。
 一緒に遊んだこともあった。
 今は、新にとって同じ部活で頑張っている仲間でもある。
 だから、武の航に対する態度が変わったことも知っていた。
 そして、新や巽に対する態度をも変わってしまったことも。
 創とは今も親しくしているが、武とは部活の先輩後輩という枠から出ることはない。
 武は、新のことを幼なじみの兄ではなく、部活の先輩だという態度を崩さないのだ。
「そうだよっ」
 航は、新の言葉に頷く。
 そして、ふと巽の方を見ると、平然としているのが目に入った。
 巽は物事に少々のことでは動じないタイプで、それを航は良く知っている。
 けれど、それも時と場合によるだろうという気持ちで巽に必死で訴えようと口を開いた。
「巽はどうなんだよ。何とも思わない?」
 間髪入れず、巽は落ち着いた態度のまま……頷いた。
「恋愛は個人の……新の自由だから」
「で、でもっ。巽と新は双子なんだから、余計に周りからいろいろと言われると思うんだけど」
「そんなことないよ。大丈夫、今日だって何も言われなかったし」
「これから言われるかもしれないだろ?」
 あまりにも平然としている巽を訝しむ。
 人事ならともかく、巽自身にも影響があるかもしれない事なのに。
「言われないって。だって俺、彼女いるから」
「え」
 巽に彼女?
 そんなこと、知らなかった。
 兄弟だからって、何もかも報告し合わなければならないことはないけれど。
 何故だか、少し寂しくなった。
 一瞬、暗い気持ちになってしまい、慌ててその思いを否定する。
 今はそれどころじゃないのだ。
「航もさ、彼女作れば? そしたら何も言われなくなるんじゃないかな」
「そんなの……簡単に出来るわけないだろ……」
 巽の言葉に航が脱力しつつそう言うと、今度は新が身を乗り出すようにして言う。
「じゃあさ、武の言葉を本当にしちゃうってのはどう?」
「は?」
 一瞬、意味が理解できずに訊き返す。
「だから、男と付き合っちゃえば?」
「な……っ」
 あまりの言葉に、航は絶句してしまった。
 一体どういう理屈だ、という航の思いは、新の言葉への衝撃で声にならなかった。
「どう? 結構良い案だと思うけど?」
 新は同意を求めるように、巽に視線を向ける。
「良いんじゃない? 俺は別に航が誰と付き合おうが構わないよ」
 この兄たちは……っ。
 性格は正反対のくせに、顔も声も喋り方も……言うことや考えまで、何でそんなに似ているんだ?
 我が兄たちながら、信じられない。
「ふざけんな、何で俺が男と付き合わないといけないんだよ! 新と一緒にすんなっ」
「航……」
 あ。
 しまった、言い過ぎた……。
 航がそう言った瞬間の新の傷ついたような表情を見て、そう思った。
 けれど、自分が悪いんじゃない。
 新と巽が、ふざけたことを言うから悪いのだ。
「まあまあ、そう言うなって。絶対付き合えとか言ってないし。航が好きなようにすれば良いんだから」
 ほら、現にもう、いつもの新に戻っている。
 航は、無性に悔しくなって新を睨みつけた。
 そんな航を軽くあしらって、新はリビングを出ていこうとする。
「あーっ、新! 謝っていけよっ」
 散々に喚き散らす航を意に介すことなく、新は自分の部屋へと行ってしまった。
 航の胸には、武にあの言葉を言われた時と同じ――いや、それ以上の憤りが残った。



初掲載(メルマガ):2003/02/09
再掲載(加筆&修正):2005/02/18



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