■月に惑いて■


−1−


 夢を見ていた。
 幼い頃の、夢を。

 あの時、彼は何と言った?
 覚えていない。
 思い出せない。

 ―――けれど、とても大切なことだったような気がする。

 とてもとても。

 大切な、こと。







 耳元で、不快な音がする。
 快い眠りを妨げる音。
 いつも無意識に、音を止めてしまっている。
 そして。

「……彼方……彼方」
 聞き慣れた、声。
「ん……」
 うっすらと目を開けると、予想通りの顔が映る。
 物心ついた頃から―――いや、赤ちゃんの頃からずっと一緒だった。
「基……も、朝……?」
 半分寝ている声で、問う。
「もう朝。ついでに、あと10分で本鈴だよ」
「うっわあっ!!」
 その言葉に、飛び起きた。
 慌ててベッドから降り、パジャマを脱ぎ捨て制服に腕を通す。
「何でもっと早く起こしてくれなかったんだよ」
「起こしたよ、何度も。彼方が全然起きなかったんだ」
 毎日繰り返される会話。
 お互い飽きもせずよくやるよなあと、自分のせいであることを棚に上げて思う。
「……用意できた? もう行ける?」
 基が言うのに頷くと、足早に部屋を出る。
 洗面所に駆け込んで顔を洗った後、家族への挨拶もそこそこに家を飛び出した。



「な、基。そろそろ……月見だよな。今年は……どうなんだ?」
 学校への道を走りながら、彼方は基に訊ねる。
 少し遠慮がちに。
 答えは解っているから。
 それでも訊かずにはいられなかったのだ。
「今年は……悪い、駄目なんだ。従兄弟の家に行くことになってるから」
「……そっか」
 内心では今年“も”だろと思う。
 けれど、追求することはしない。
 似たような会話が、毎年交わされているのだから。


 久住彼方(くずみ・かなた)と柏原基(かしわら・もとい)は、幼い頃からの幼なじみだ。
 家が隣同士ということもあり、彼方と基だけではなく家族ぐるみでの付き合いが続いている。
 彼方たちが産まれる前から親同士は懇意にしていたが、産まれてからは更に親密になった。
 誕生日も近い彼方と基は、産まれた時からずっと一緒なのだ。
 物心ついた時から、行事やイベント、旅行などは2家族で一緒に行っていた。
 誕生日も、クリスマスも、お正月も。
 ただひとつを除いては。

 この17年、月見というものを基と―――柏原家と一緒に過ごしたことがなかった。
 ほかのこともどちらかの都合が悪くて一緒に出来ないこともたまにあったが、月見だけは、毎年必ず別々だ。
 毎年、何かと理由をつけては断られる。
 今年も例外ではなく。
 彼方はそのことをずっと不思議に思っていた。
 勿論今も。


 そういえば、さっきは聞き流してしまったが、基は今年は従兄弟の家に行くと言った。
 考えてみれば、これだけいつも行動を共にしているというのに基の従兄弟になど一度も会ったことがない。
 従兄弟がいるということだけは知っていたが、それだけの認識しかなかった。
「……従兄弟って、どんな人?」
 思わず訊ねると、基の足が止まった。
 彼方も慌てて立ち止まる。
 急にどうしたのだろう。
 従兄弟のことを訊くのはまずかったのだろうか。
 彼方がそう思っていると、基はゆっくりと口を開いた。
「上は今、大学の4回生で……下は高2だったかな、確か」
「ふうん……なんて名前?」
「上が勇士(ゆうし)で、下が瑞希(みずき)」
「ふうん……」
「……どうかしたの?」
「別に……」
 彼方はそれだけ言うと、再び走り出した。
「彼方!?」
 基の声が追いかけてくる。
「早く行かないと、間に合わないだろ!」
 本当は今更急いだところで遅刻は確実だろうが。


 どうしてだろう。
 月見を一緒に出来ないのはいつものことなのに。
 どうして、今年は、こんなにもやもやした気分になるのだろう。




 案の定、1時間目に間に合わなかった彼方と基は屋上に来た。
 1時間目をさぼって、2時間目から出席することにしたのだ。
 彼方は寝転がって空を見ていた。
 基はその横に座って、彼方を見る。
「なんか……怒ってる?」
「何で?」
「機嫌悪いから」
「そんなことは……」
「そう? だったらいいけど」
 それきり、2人とも黙り込む。
 2人でいて、こんなに重苦しい気分になったのは初めてだった。
 彼方は自分の気持ちを持て余しているのだ。
 どうしてもやもやした気分になるのか……それは多分、基が自分に隠し事をしているような気がするから。
 月見のことも従兄弟のことも。
 基は自分のことを誰よりも良く解ってくれて、自分も基のことを解っていると思っていたのに。
 ほかの誰よりも近い存在だと思っているのは彼方だけなのだろうか。
 だから基は、自分に何も話してくれないのだろうか。
 たかが月見じゃないか。
 けれど、彼方にとって、それは一番重要なことだった。
 何でも一緒だった2人の、唯一、異なった時を過ごすものだったから。





「柏原たち、今年も駄目だって?」
 夜、父親の周一(しゅういち)が帰ってきて開口一番にそう言った。
「お帰りなさい。……ええ、そうなんですって」
 母親の有希恵(ゆきえ)が台所から顔を出し答える。
「そうか……今そこで奈緒(なお)さんに会ってね、そう言ってたから」
「私も、昼間奈緒に聞いたのよ。彼方は基君から聞いたのよね」
 居間のソファでテレビを見ていた彼方は、有希恵を振り返りもせずに首だけで頷く。
「毎年のこととはいえ、なんだか寂しいな」
 周一は彼方の向かいに腰を下ろし、ネクタイを緩めた。
「そうねえ。月見だけですものね、一緒に過ごしたことがないの……」
 自分と同じことを思っている2人の会話を聞いていたくなくて、彼方は自分の部屋に行った。


 自分のベッドに横になり、窓の外を見遣る。
 カーテンは開かれたままなので、隣の明かりが漏れている。
 基の部屋の明かりだ。
 しばらく眺めた後、彼方は起きあがり窓を開けた。
 少し手を伸ばせば、隣の基の部屋の窓に手が届く。
 コツコツと、窓を叩いた。
「基……」
 そう呟くと、窓に影が近づく。
「彼方?」
 窓の開く音がする。
 そこから基が顔を覗かせる。
「どうした? 何かあった?」
「いや……何してるのかと思って、さ」
 特に用事があったわけではない。
 気づいたら、窓を叩いていたのだ。
「本読んでたんだ。推理小説」
「基、推理小説好きだよな」
 窓と基の隙間から見える部屋の中。
 ベッドの上に文庫本が置いてある。
 基が今読んでいたという推理小説だろう。
「……そっち、行っていい? ……あ、でも本読む邪魔になるか」
「いいよ。読み終わったところだし」
「そっか。じゃあ」
 そう言って、窓枠に足をかける。
 基が窓から離れたのを確認して、彼方は隣の窓に飛び移った。
 身体を屈め、部屋の中へと滑り込む。
 慣れたもので、無事に着地する。
「いらっしゃい」
「……お邪魔します」
 部屋に入ってからいらっしゃいもお邪魔しますもないだろうと苦笑いしながら床に座り込む。
「何か、飲み物とか持ってこようか」
「いい」
 部屋を出て行こうとする基を止める。
「あのさ、今日、泊まってもいいか?」
「いいよ」
 彼方の言葉に基はあっさり頷く。
「着替えどうする? 持ってくる?」
「いい。基の貸して」
「すぐそこなんだから、取ってくれば良いのに」
 基はそう言いながらも彼方のためにパジャマを出してくれる。
「ありがと、洗って返すから」
 基は頷くと、布団を取ってくると言って、部屋を出て行った。
 閉じられたドアを見つめながら、彼方はパジャマに着替える。
 基のパジャマは、彼方より少しだけ大きい。
 身長も体重もそう違わないのに、基の方ががっしりした体格をしているのだろう。
 いつからそうなったのだろうと思いながら、ベッドに倒れ込む。
 彼方も基も、それぞれ成長していく。
 成長していっている。
 ふと、思う。
 自分と基のこの関係はいつまで続くのだろう。
 ずっとずっと、続いて欲しい。
 そう思いながら、けれど、漠然とした不安が押し寄せてくる。
 いつまでもこのままではいられないのだと。
 いつかは別々の道を歩むのだと。
 そうしてふたりは疎遠になっていくのだろうか。
 それとも、今の久住家と柏原家のように家族のように付き合っていけるのだろうか。
 それぞれ別の家族を持って。


 この不安は一体何なのだろう―――
   


2002/12/23



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