■月に惑いて■


−2−


 月見の夜。

 隣の家は真っ暗だ。
 人の気配もない。
 基と父親の卓(すぐる)、母親の奈緒は従兄弟の家に出かけていっていないのだ。
 彼方の家でささやかに行われる月見は、何処か味気ない。
 楽しいはずなのに、楽しくない。
 それは隣の柏原家の家族がいないから。
 基がいないから。


「今頃、どうしてるのかしらねえ」
 ため息混じりに有希恵が呟く。
 けれど、誰も何も答えない。
 言葉だけが宙に浮く。

 基は今頃、勇士や瑞希という従兄弟と楽しく過ごしているのだろうか。
 自分たちとは決して一緒に過ごさない、月見の夜を……。



 月を見るのもそこそこに、彼方は自分の部屋へと引き上げた。
 すぐにベッドには行かず、窓へ近寄る。
 明かりの消えた、基の部屋。
 今夜は帰ってこないと言っていた。
 従兄弟の家に泊まると。
 従兄弟ってどんな人たちなんだろう。
 一度、会ってみたい……かもしれない。

 ああ、そうか。
 自分は、基のことをもっと知っていたいのだ。
 基のことだから、知りたい。
 どんな些細なことでも。


 そうして、月見の夜は更けていく。




「彼方、朝だよ」
 肩がゆらゆらと揺れる。
「彼方?」
 ぐいぐいと腕を引っ張られる。
「いくら休みだからって、いつまでも寝てないで起きなよ」
 さっきから耳に聞こえるのは聞き慣れた声。
 いるはずのない彼の。
 途端に、目が覚めた。
「基!?」
「わっ、びっくりした。どうしたの」
 肩を腕を掴んでいるのは基の手だった。
「びっくりしたのはこっちだよ。どうしたんだよ、従兄弟のところじゃなかったのか?」
「朝一番の電車で帰ってきたんだ」
「何で? 休みなんだからゆっくりして行けば良かったじゃん」
 心にもないことを言う。
 本当は嬉しいのだ。
 いつものように基が起こしに来てくれるのが。
「だって彼方を起こすのは俺の役目だから」
 笑顔を向け、彼方から手を離す。
 彼方は身を起こすと、着替え始める。
「昨日、どうだった。楽しかったか?」
 呟くと、基は苦笑いを浮かべ、首を振る。
「全然。彼方と一緒にいる方が、楽しい。……彼方は? 彼方はどうだった?」
「……別に、普通だよ」
 基の言葉が嬉しかったのに、反対に訊ねられると、素直な言葉が出てこない。
 それでも基は笑っている。
 基は解っているのだ、本当は彼方が寂しく思っていたことを。
 それを素直に言えないだけだということを。
「あの、さ」
「うん?」
 小さな呟きを聞き逃さず、基が問い返してくれる。
「俺といる方が楽しいんだったら、……だったら、来年は一緒に月見しような」
 “一緒にしたいから”。
 その言葉を呑み込んで、告げた。
「……出来たら一緒にしよう」
「…………」
 基の言葉はある程度予想出来た。
 どんなに言っても、これだけは基ははっきり頷かない。
 この先……あと何回月見の夜が訪れるのかは解らないけれど、基と月見をすることはないのだろう。
 解りたくはないのに、そう解ってしまう。
 ……寂しい。
 とても、寂しい。
 基と一緒にいたいだけなのに。
 基と過ごさない時間があって欲しくない。
 そう言えたら、基は何と答えるだろう。
 ……解っているから、訊けない。
 否定の言葉は、聞きたくないから。





 彼方は、夢を見ていた。
 最近よく見る夢。
 まだ幼い頃の……。

「かなちゃん、……がこわいの?」
「うん。こわい……」
「じゃあ……は?」
「こわくないよ」
「だったら、だいじょうぶだよ」
「なんで?」
「だって、…………だもん」
「え?」
「…………ならだいじょうぶ。それにね、かなちゃんはぼくがまもるから、ぜったいぜったいまもるから……」
「もといちゃん……?」
「…………からもぜったいまもってあげるから。…………ないよ」
「もといちゃん……」
「だから、なんにもこわいことなんて、ないからね」


「……っ」
 突然、目が覚めた。
 息が荒い。
 窓を見ると、まだ薄暗い。
「俺……」
 あの夢は、何だろう。
 微かに覚えている、あの幼い頃。
 基と交わした言葉。
 けれどはっきりとは思い出せない。
 夢の中でも肝心な部分が抜け落ちている。
「基……」
 呼吸を整え、再び目を閉じる。
「基……」
 眠りは、なかなか訪れてくれない。
「基……」
 繰り返し繰り返し、呟く。
 基。
 ……基。
 繰り返し繰り返し。



「彼方、おはよう」
 窓が開き、驚きを隠せない顔で基が部屋に入ってくる。
「……おはよう」
 基が驚くのも無理はなかった。
 覚えている限りでは、彼方は自力で起きたことがなかったからだ。
 いつも基が起こしてくれるから。
 けれど今朝はもう起きていた。
 正確には、途中で目が覚めてから眠れなかったのだ。
 基との会話が気になって、眠れなかった。
 あの、抜け落ちた部分を思い出したかった。


 眠れなかったからといって眠たくないわけではない。
 基の顔を見たら、なんだか眠れそうな気がした。
 目を閉じようとすると、基に阻まれる。
「折角起きたのに、また寝るの? 駄目だよ」
「もうちょっと寝かせてくれよ……昨夜、よく眠れなかったんだ……」
「学校、どうするの?」
「行くよ。行くけど、ちょっとだけ」
 そう言って、目を閉じる。
「彼方」
 基の呼ぶ声が聞こえる。
 心地良いその声音に、彼方の意識が薄れていく。
「彼方……」
 彼方は、眠りに落ちた。
「ごめん、彼方。ごめん……」
 そんな、基の声が聞こえたような気がした。





 あれから、彼方と基は表面上はいつも通りだった。
 月見の夜前後が過ぎてしまえば、毎年そうだ。
 けれど今年は。
 今年は、何故だか不安でしょうがない。
 去年までも、不安は感じていた。
 今年はそれ以上の、不安が彼方を襲う。
 その正体も解らないままに。



 その日、学校から帰ってくると、基の家の前に男が立っていた。
 見たことのない男だった。
 セールスか何かかなと思いながら素通りする。
「待って」
 彼方の家の門に手を掛けようとしたところで、呼び止められた。
 見ると、基の家の前にいた男が彼方のすぐ傍まで来ていた。
「この家の子?」
「はあ」
 男の言葉に彼方は気のない返事をする。
 男は何が面白いのか、にこにこと笑っている。
「そっか。じゃあ彼方ってあんた?」
「え?」
 この男は何だろうと思いながら、しばらくして曖昧に頷く。
「へえ、あんたかあ。ふうん……」
 遠慮もなしに彼方の顔を覗き込んでくる男から少し身を引いて、門を開ける。
 馴れ馴れしいし、軽そうだし。
 付き合ってられない。
「あ、待ってよ。俺、柏原勇士っていうんだけど」
 門の中に入ろうとしていた足が、止まった。
 その名前に聞き覚えがあったからだ。
「基の……従兄弟……」
 確か、そう言っていた。
 上は勇士で、下は瑞希。
 勇士は大学の4回生だったか。
「そうそう。基が言ってたんだろ? 俺もあんたのことは基に聞いてたから」
「基は……まだ学校です。先生に呼ばれてて」
 少し険のある言い方でそう言う。
 けれど内心は動揺していた。
 基が、自分のことを話していた……?
 何と言っていたのだろう。
 それに、何故、基の従兄弟が此処にいるのだろう。
 基に用事があるにしても、今までこんなことはなかったから不思議だった。
 何せこの17年間というもの、従兄弟の存在は知っていても実際に会うことがなかったから。
 それが今日、従兄弟が訪ねてきた。
 今まで感じていた不安が、更に大きくなっていく。
「基? 違う違う。今日はあんたに会いたかったの」
「……俺?」
「そう。基に話を聞いて気になってたんだよね。だから、あんたに会いに来たんだ」
 基に用事があるのではない?
 彼方に用事がある?
 何故、面識もないような相手に会いに来る必要があるのだろう。
「ちょっと話があるんだ、ここでいいから聞いてよ」
 声のトーンを落とし、内緒話をするように顔を近づけられる。
 彼方は更に身を引いた。
「……話って何ですか」
「そんなに睨まなくてもいいじゃん。単に話するだけなんだからさ」
 知らずに勇士を睨んでいたらしい。
 彼方は話を聞くかどうか迷った。
 けれど、結局は頷いた。
 勇士が言ったからだ。

「基のことだ」

 ―――と。
 基のことなら、聞かないわけにはいかない。
 更に、勇士は言う。

「正確には、基とあんたのこと、かな」
   


2002/12/23



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