■遠い、約束の時へ。■


□序章 涙


 あの日、あの時。
 僕は、貴方と約束した。
 もう1度……もう1度。
 必ず、あの日のあの時に、戻ると。
 還ると。

 いつ来るかも解らない、来る保証さえない、そんな時を。
 僕はずっと、ずっと、此処で待ってる。
 貴方に会うために。
 もう1度、あの腕の中へ戻るために。
 僕が再び、あの光に包まれるその時まで。

 だから貴方も待っていて。
 お願いだから……。

 あの約束の時へ、戻るから―――





「お兄ちゃん、本当に大丈夫?」
 病室の白いベッドの上で、僕はぼんやりと天井を見上げていた。
 うっすらと、目尻に涙を浮かべて。
 その様子を、妹の麻那(まな)が心配そうに見ている。
「大丈夫……大丈夫だから……」
 僕がそう言って微笑むと、麻那はようやくほっとしたように息を吐いた。
「もうっ、本当に心配したんだから。1ヶ月もどこ行ってたのよおっ」
 僕の意識が戻ってから、もう何度目かの麻那との同じ会話、そしてその度に繰り返される問い。
 でも僕は、その問いに答える事が出来なかった。
 だって、覚えていないから。
 行方不明だったらしいこの1ヶ月間の記憶が、僕にはなかった。
 麻那もそれは解っているのに……けれど、解っているからこそ、何度も何度も、同じ問いを繰り返す。
 記憶のない僕を追いつめたり、詰るためではなく、麻那の不安だった心を表すために。
 僕がここにいるのを、確かめるために。
 まだ中学1年の妹は、とても甘えん坊だった。
 思えば、麻那と1ヶ月も離れていた時などなかった。
 麻那がどんなに心配して、寂しい思いをしてきたのか――
 それを考えると、胸が締め付けられるようになる。
 でも僕は、それ以上に、別の“何か”に心を奪われていた。
 家族の心配に、申し訳なく思う気持ちよりも、もっと強く。
 胸がきりきりと痛む、“何か”に。
 それを思うと、自然に涙が浮かんでくる。
 僕は覚えていないのに。
 “何か”が何なのかさえ、解らないのに……。



 僕が目覚めたのは、病院のベッドの上だった。
 目を開けた途端、心配と安堵の色を浮かべた顔が、4つ飛び込んできた。
 麻那、父さん、母さん。
 そして、白衣を着、眼鏡を掛けた男の人。
 彼は、僕の主治医だと言った。
 麻那は僕に抱きつき、母さんは涙ぐみ、父さんは何かを堪えるように僕を見下ろしていた。
 けれど、僕は何故、病院にいるのか、心配をかけるようなことになったのか、全く解らなかった。
 困惑する僕に、何があったのかと麻那や両親が訊ねてきても、首を横に振るしかなかった。
 警察の人がやって来て訊ねられても、やはり僕には何も答えることができなくて。
 反対に、麻那や警察の人たちにこれまでの経緯を教えてもらった。

 1ヶ月前のあの日、学校から帰ってきてすぐ、僕は忘れ物を取りにもう1度学校へ戻った。
 僕も、それは覚えていた。
 学校へは海岸沿いに歩くので、勿論そこを通って行った。
 途中、ふと足を止め、海の方へと近づいて行ったことも覚えている。
 ……ただ、そこまでが僕の覚えている記憶だ。
 その先は、何も覚えてはいない。
 麻那は、出て行ったきり数時間経っても帰って来ない僕を捜しに学校まで行ったそうだ。
 学校までは30分もかからないし、出ていく時には何も持っていなかったから、心配になったのだ。
 けれど、学校へ行く途中の道にも、学校にも、もちろん海にも、僕はいなかった。
 夜遅くに麻那が帰って来た時、僕と一緒だと思って安心していた両親は、麻那ひとりが帰ってきたことに驚いた。
 そして、麻那に事情を聞いて、更に驚いた。
 僕は、無断で外泊したことや家を空けたことがなかったので、両親の心配は並のものではなかったらしい。
 結局、翌朝になっても帰って来ず、警察に捜索願いを出したのだそうだ。
 最初は誘拐の可能性も考えて、世間には公表しなかった。
 誘拐ならば何らかの要求があるはずだが、数日経っても何もなく、目撃情報を得るためにとうとう世間に公表した。
 けれど、目撃情報は得られず、心配だけが募り、1ヶ月が過ぎた。
 そして、ある日の早朝。
 僕は海岸で倒れていたらしい。
 意識がなく、病院に運ばれ、家族にも連絡を取った。
 家族はすぐに飛んできて、意識のない僕の傍にずっといたそうだ。
 特に麻那は、僕から離れようとしなかったらしい。
 外傷は見つからなかったが、念のために検査入院することになった僕は、個室の病室に移されてすぐに、意識を取り戻した。
 けれど――目覚めた僕は、1ヶ月間の記憶を失っていたのだ。

 そうして僕は、眠りと覚醒と、麻那や主治医との会話を繰り返す日々を送っている。
 それは、退院するまでのほんの3日のことだったのだけれど、僕にはとてもとても長く感じられたものだった。
 その間、やはり僕の心には、“何か”の存在があった。
 そのことが気になり、記憶がない自分が、もどかしくなった。
 何か、大切なことを忘れている。
 未だにその正体は掴めないままだったけれど……。




 約1ヶ月ぶりの自分の家。
 部屋。
 見慣れた光景。
 でも記憶のない僕の感覚では、3日ぶりのものだった。
 同時に……何故か、もう何年も何十年も帰っていなかったような奇妙な感覚も覚えた。
 この感覚は何だろう……?
 今この時、この場所……全てのものが3日ぶりで。
 でも遙か遠く離れていたもののようで―――
 落ち着く自分の部屋。
 でも落ち着かなくて。
 3日ぶりに帰ってきたという安心感はある。
 けれど……帰る場所は、本当にここだったのだろうか?
 そんな気もして。
 僕は一体、どうしてしまったのだろう。
 自分の部屋の筈なのに、遠いもののようで。
 ほんの少ししか離れていないはずなのに、とてもとても懐かしく思えて。
 そう、これはまるで―――

 そこまで考えて、ノックの音に気付き、はっとする。
「お兄ちゃん? 入っても良い?」
 麻那の声。
「う、うん、良いよ」
 僕の答えと共に、ドアが開く。
「これ」
 そっと何かを持った手を差し出す。
「お兄ちゃんが見つかった時に握りしめていたもの。さっき、警察の人がやっと返しに来てくれたの」
 ああ、そういえば、そんなようなことを言っていたような気がする。
 ぼんやりと思い出す。
 手ぶらで出て行ったはずの僕が、唯一持っていたもの。
 麻那も見た覚えがないと言っていたもの。
 とすれば、それは僕が行方不明になっていたらしい間に、誰かが持たせたのか。
 もしくは、僕自身が手に入れた……?
「……あ……っ」
 淡い青色をした、小さな巾着袋。
 麻那からそれを受け取った僕は、奇妙な感覚に襲われた。
 あの人が作ってくれたもの。
 懐かしい。
 大切。
 愛おしい。
 涙……。
 いろいろな感情が、押し寄せてくる。
「ああ……」
 そっと袋を開く。
 手の上に、さらさらと落ちてくるもの。
 砂。
 ……あの人が持たせてくれたもの。
「え……?」
 僕は今、何を思ったのだろう。
 この巾着袋を作り、砂を入れて持たせてくれた――?
 誰が……?
 覚えていない。
 こんなもの、初めて見た。
 でも何故か。
 とても懐かしくて。
 ずっと知っていたもののような気がして。
 そんな筈はないのに。
 僕が探していたものの……求めていたものの一部を見つけたような、そんな気がして……。
「お、お兄ちゃん……?」
 知らず、涙を零していた。
「どうしたの? ねえ、お兄ちゃんっ」
 麻那の声がひどく遠い。
 立っている感覚さえも、なくなっていくようで。
 解るのは、胸の痛みと頬を伝う滴の熱さ。
 そして――

 ずっと感じていた“何か”を今、何よりも強く、近くに感じていた――



2003/2/17



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