■遠い、約束の時へ。■ □第1章 記憶 −1− 久しぶりの学校は、ひどく居心地が悪かった。 教室に入るまでもなく、靴箱や廊下で人とすれ違ったりする度に、そう感じられた。 視線が、すごく気になった。 だって、みんな知ってる。 僕が1ヶ月間行方不明だったことを。 そして、その1ヶ月間のことを、僕が全く覚えていないことも。 今日、学校へ行けば、クラスメイトたちが僕に話しかけてくる。 1ヶ月間のことを、訊ねられる。 記憶がないことにも、触れられる。 そう思ったら、急に歩く気力がなくなって、僕は立ち止まってしまった。 突っ立ったまま、動けなかった。 俯いて、考える。 教室へ行こうか、それとも――― しばらく後、教室へ向かいかけていた足を止めて、僕は反対方向へと歩き出した。 学校にいる間で、唯一、安心できる場所。 僕の避難場所。 だから今日も、逃げさせてほしかった。 教室へ行くよりも、避難場所へと向かったのだ。 ……それが、ここ、保健室だった。 「……隆ちゃん」 ドアをそっと開いて、声をかける。 すると、奥の方で椅子に座っていた隆ちゃんが、こちらを向いた。 「お、篤紀か? 久しぶりだな」 おいで、と手招きされて、僕はほっとして保健室に入った。 「隆ちゃん、ちょっと居させてくれる……?」 「良いぞ。ちゃんと授業に出るならな」 本当は、嫌だったけれど。 僕は、小さく答える。 「……うん。予鈴が鳴ったら、ちゃんと教室に行くから」 そう言うと、隆ちゃんが僕の頭をくしゃっと撫でた。 「よし。ま、いろいろと大変だからな、お前」 「……うん」 俯いて、言う。 「……気になるか」 「……うん。……何か、視線が痛くて……」 「そうか。ま、座れよ」 促されて、僕は隆ちゃんと向き合って椅子に座った。 「大丈夫か?」 「うん……」 隆ちゃんの態度がいつもと変わらないことが、そしてその優しさが、僕は涙が出そうになるほど嬉しかった。 隆ちゃんは、この学校で養護教諭をしている。 名前は、早見隆盛(はやみ・りゅうせい)という。 けれど、僕は小さい頃から隆ちゃんのことを知っているから、先生である今も“隆ちゃん”と呼んでいる。 家の近所に住んでいて、僕にとってはお兄ちゃんみたいな存在だ。 それは麻那にしてみても同じで、お兄ちゃんが2人いるように思っている。 隆ちゃんは、目つきとか、ちょっときつい印象を与える外見をしている。 けれど、意外と穏やかな性格で、笑うと表情が柔らかくなるので、生徒にも結構人気がある。 生徒相手でも対等に会話してくれるから、それも人気のある理由だと思う。 誰とでも砕けた態度で接することが出来て、僕はそういうところを尊敬している。 同時に、すごくうらやましい。 僕は、あまり人と話すのが得意ではないから。 「篤紀? どうかしたか?」 僕が黙り込んだので、隆ちゃんが心配そうに訊ねてくれる。 僕は、慌てて首を横に振った。 「この1ヶ月間のこと、気になってて……何で、記憶がないのかなって」 今考えていたことではないけれど、僕が1番気にしていることを隆ちゃんに伝えた。 病院で目覚めた時も記憶のことが気になったけれど、あの巾着袋を見てから、心がざわついていた。 “何か”を感じているのに、それが解らないもどかしさ。 記憶がないことへの苛立ち。 僕は今、すごく不安定な気持ちだった。 「記憶がないのが、そんなに気になるか?」 「うん」 隆ちゃんは、少し考えるふうにしてから、言葉を紡ぐ。 「俺、思うんだけどな。記憶なんて、思い出す時は思い出すし、思い出せないなら思い出すまでそっとしておくのが良いんじゃないか?」 「でも……」 言っていることは解るけれど。 「生活に支障はないんだろ?」 「それは、そうだけど……」 「だったら、もう気にするな。思い出せないならそのままでも良いだろ?」 「…………」 何も言い返せなくて、僕は唇を噛み締めた。 「あんまり思い詰めるなよ」 そう言って、僕の頭を隆ちゃんの胸に引き寄せた。 さっきのように、くしゃっと頭を撫でた。 「隆ちゃん……」 隆ちゃんは、僕が落ち込んでいると、いつもこうやって安心させてくれる。 だから、ここは僕の避難場所になったんだ。 「俺は、思い出さない方が良いって言ってるんじゃないぞ。思い出せないのを無理に思い出さなくても良いって言ってるんだからな」 「そう、かな……」 「そうなんだよ」 「そうだよね……」 頭の上から聞こえる隆ちゃんの声に耳を傾け、僕は頷いた。 どこまでも優しい声と、温かい手。 それが、僕を落ち着かせてくれる。 「自然に思い出す方が、良いだろ?」 そう言って、僕の頭に置いていた手を外す。 それに名残惜しさを感じなら、僕は答えた。 「うん、ごめんね、隆ちゃん……」 「別に謝ることはないだろ。……ほら、予鈴、鳴ってるぞ」 隆ちゃんの言うとおり、予鈴のチャイムが鳴っている最中だった。 僕は慌てて立ち上がると、 「うん。……ありがと、隆ちゃん」 隆ちゃんに御礼を言って、僕は保健室を後にした。 隆ちゃんと話して、少し心が軽くなった僕が教室に行くと、ちょうど先生が入ってきたところだった。 僕はそれに少し安心して席についた。 周りの視線は、相変わらず感じられたけれど……少なくとも、HRの間は誰かに問いかけられることもないだろう。 けれど、それもHRが終わるまでだった。 先生が教室から出て行って、1時間目の体育の準備をしようと僕が鞄を開けたところで、数人のクラスメイトが近くに寄ってきていた。 そして、次々に、言葉を投げかけられる。 「ひさしぶり、井上」 「もう大丈夫なのか?」 「1ヶ月もどこで何してたんだ?」 「記憶ないって、ほんと?」 などと、口調は僕を心配しているようだったけれど、明らかに好奇心が勝っていることが解る。 聞かれても、僕には答えられないのに。 それはみんな知っているのに。 「僕、覚えてないから、解らない」 それだけしか、言えないのに。 彼らは、しばらく僕に話しかけていたけれど、やがて諦めたのか、飽きたのか、離れていった。 それでも僕は緊張を解くことが出来ずにいた。 全員が着替えを終えて、教室を出て行って、ようやく僕は息をついた。 質問攻めにあう覚悟はしていたけれど、やっぱり疲れる。 「……見学しようかな……」 隆ちゃんに、ちゃんと授業に出るって言ったのに……けれど、とても体育をするような元気はなかった。 「隆ちゃん、ごめん」 小さく呟いて、鞄を閉めようとした時だった。 「篤紀」 不意に、名前を呼ばれて、振り向いた。 「美作君……?」 クラスメイトの美作拓巳(みまさか・たくみ)君だ。 僕は、声をかけたのが美作君だったことに驚いた。 美作君とはたいして話をしたこともなかったのに、“篤紀”なんて親しく名前を呼ぶなんて。 僕が、じっと見ていると、美作君は中に入ってきた。 「お帰り」 「え……?」 僕のすぐ横に立って、嬉しそうに言った美作君を凝視する。 “お帰り”って……1ヶ月間行方不明だったから、無事に戻ってきたことに対する“お帰り”――? けれど何故、それを美作君が言うんだろう? 「行ってきたんだよな?」 「行ってきた、って……」 今度は、全く意味の解らないことを言われ、首を傾げた。 「ずっと待ってたんだ、篤紀……」 「え……?」 聞き返したけれど、返事はなかった。 その代わりに――…… 「え……あ、あの……?」 「篤紀……」 美作君の声が、すぐ近くに聞こえる。 僕は、美作君に抱きしめられていた。 「篤紀、会いたかった……」 「美作君、あのっ……」 身体を捩ったけれど、ますますきつく抱きしめられてしまう。 混乱して、わけが解らなかった。 会いたかったって……何で? 1ヶ月以上も学校に来てなかったから……? けれど、美作君が僕に会いたい理由なんて、解らない……。 美作君は、何を言っているんだろう……その言葉に、どういう意味があるんだろう……? 「あの、離して……っ」 いつまで経っても抱きしめる腕が緩まない。 ずっと、美作君の腕の中に閉じこめられたままだ。 僕は何とか逃れようとした。 腕を突っ張って、胸を押し返す。 けれど、僕の腕の力では、美作君を押し返すことが出来なくて、少しだけ身体が揺れた程度だった。 その拍子に、美作君の身体が、机にぶつかった。 机の上に置いてあった鞄が床に落ちて、中身が散らばる。 瞬間、美作君の腕が少しだけ緩んだ。 その隙に、押し退けようとしたけれど、それが出来るほどではなかった。 美作君は僕を抱きしめたまま、散らばった鞄の中身を見ている。 そうして、片手だけを僕から外して、落ちているものをひとつだけ手に取った。 「美作君……?」 手に持ったものを感慨深そうに見つめる美作君に、訝しげに声をかける。 僕は、その手の中にあるものを見て、目を見開いた。 それは。 あの、巾着袋だった。 見ていると涙が出てくるのに、何故かずっと持っていたくて、鞄に入れてきていた。 それを、美作君が、じっと見ている。 散らばったものの中から、迷わずそれだけを手に取って。 それを、見ていたのだ。 「ちゃんと持っていてくれたんだ、これ……」 「え……、し、知ってる、の……?」 美作君の口振りに、僕は目を見張る。 「もちろん。忘れるわけないだろ……俺が、篤紀に渡したものなんだから……」 何? 美作君は、何を言って……? 「あ、これ……」 袋の中に入っている砂を見て、美作君が呟いた。 「この砂……ちゃんと、入れられたんだ、俺……」 「何……?」 声に出して、問いかける。 けれど、美作君は聞いていないようで、反応は返ってこなかった。 僕の頭の中は、疑問でいっぱいなのに。 ちゃんと最初から説明して欲しい。 美作君が何を知っているのか。 僕の1ヶ月間と、どう関わっているのか。 ……そう。 混乱しながらも、僕は確信していた。 美作君は、僕の知らない1ヶ月間を知っている――― 2003/2/23
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