■月夜を抱く君■
−1− 満月の夜だった。 塾が終わり、いつもの帰り道を歩く。 途中、公園があって、そこを通ると近道だった。 公園の暗さに躊躇いながら、結局はそこを通る。 けれど今日だけは。 多少、帰るのが遅くなろうとも、公園を通るべきではなかった。 後で思い切り後悔する羽目になったのだ。 「え……?」 聞き間違いだろうかと、一瞬、思う。 静かな公園内、確かに何かが―――声が聞こえたような気がしたのだけれど。 和都(かずと)は、立ち止まって辺りを見回してみた。 近くには誰もいない。 けれど聞き間違いではない証拠に、少しずつ声が大きく近くなってきた。 それもひとりの声ではない。 もっと大勢の、怒鳴り声。 足音も近づいてくる。 身を竦ませながら、和都は急いで公園から出ようとした。 厄介なことに巻き込まれたくなかった。 「邪魔だ、どけっ」 歩きかけた時、すぐ耳元で男の怒鳴り声が聞こえた。 あっと思う暇もなかった。 こちらに突進してきた男と思い切りぶつかり、和都は地面に倒れてしまう。 その上に、男が覆い被さってくる。 「……っ!」 腰を強かに打ち、更に上からの圧迫感が和都を襲う。 「……ってえ……おい、どけって言っただろうが!」 和都の上から身を起こしながら、男は罵声を浴びせかける。 その凶暴さに、びくりと身体を震わせる。 そんなこと言ったって急に避けられるわけない、と咄嗟に浮かんだ言葉も、声にする前に飲み込んでしまう。 けれど、この状態のままでいるのも嫌で、男の様子を窺い見ながら、緩慢な動作で和都も起きあがった。 「……ったく」 不機嫌そうに男は呟き、和都を睨みつける。 剣呑な雰囲気を醸し出している男を前に、再び身体が震えるのをどこか人事のように感じた。 尚も男が何事かを言い募ろうとした時、公園に複数の男たちが入って来るのが見えた。 「……ちっ」 「え!?」 男の舌打ちが聞こえたと思った途端、和都の身体が宙に浮いた。 男が和都を抱え上げたのだけれど、何が起こっているのか全然解っていない和都には、そのことを認識できなかった。 そのうちに、段々と茂みの方へ入っていき、和都は放り投げるように勢いよく地面に押しつけられた。 すぐに男が和都に覆い被さってくる。 「なっ、ちょっ……むぐっ」 「ちょっと静かにしてろ」 「ん、ん―――」 男の手で口を塞がれ、声にならない声が漏れる。 和都は自分に何が起こっているのか整理しようとした。 けれど駄目だった。 整理しよう、落ち着こうとすればするほど、頭に血が上って考えられなくなる。 口を塞いでいる手を掴み、押し退けようとするけれど、全然びくともしない。 あまり力強くはない和都は、それでも渾身の力を振り絞って身を捩る。 それが、何の意味もなさないとしても。 「――いたか!?」 「いえ、こっちには。あちらを探してみますか?」 「ああ、そうだな」 男の姿に視界を遮られて、どういう状況になっているのか見ることはかなわなかったけれど、耳から入る情報で、公園に入ってきた男たちが去っていったのを感じ取る。 ざわついていた公園内が、一気に静けさを取り戻した。 「……行ったか」 それを確認した男は、ようやく和都の口を解放した。 「……っ、ごほっ」 口にあった圧迫感が消え、安心したと同時に入ってきた空気に和都は咽せる。 「い、一体、何……?」 かすれた声で和都は問うた。 手を放してくれたのだから、上から退いてくれるだろうと思ったのに、予想に反して男は退こうとしない。 和都の問いに答えるでもなく、ただ、和都を見下ろしていた。 「あの……?」 頭に上った血が引いていくに連れて、和都は地面の感触と匂いに気分が悪くなってきた。 男と地面に挟まれて身動きが取れない状況も、和都の本意ではない。 普段はどちらかというと大人しい和都も、さすがに苛立ちが募ってきた。 「あの!」 少し声を荒げる。 けれど、男は和都を見据えたまま、何も答えない。 全身に男の舐めるような視線が絡みつく。 その視線に、和都は漠然とした恐怖を感じた。 男の背後から見える満月が――普段、特に気にもしない満月が、何故だかその恐怖を増幅させていくようで、和都はそれを視界から追い出した。 そうすると、和都の目に映るものは男だけになる。 その男の瞳が、光ったような気がした。 口元には、微かな笑み。 歪めるような、嫌な感じの、笑み――。 苛立ちも、何もかもが、じわじわと確かな恐怖へと変貌していき、声も出なくなる。 その男の瞳に浮かんでいるものは――。 次の瞬間、男の手が和都の制服のブレザーに伸びた。 和都は、手際よく脱がされていくブレザーを、男の手を、呆然と見遣る。 「あいつらに見つかって追っかけられた時は今日は駄目かと思ったけど、これはこれで良いかもな……」 低い声が、すぐ間近で聞こえた。 和都には意味の解らない言葉。 男は、脱がせたブレザーを乱暴に脇に放り、再び和都に手を伸ばす。 今度はネクタイを緩め、Yシャツのボタンに手をかけた。 「や、ちょ、ちょっと! 何して……っ」 ここに来てようやく和都は、男の手を止めようと、男を引きはがそうと、必死で暴れ回った。 冗談ではない。 何故、こんなことになっているのだろう。 塾に行って、終わったら帰って。 いつものように、今日もそうなるはずだったのに。 男は、そんな和都の抵抗をものともせず、ゆっくりボタンをはずしていく。 ひとつ、ふたつ。 全部はずされるんじゃないかと身構えた。 背筋を、冷や汗が伝っていく。 けれど男は、ふたつはずしただけで手を止めた。 「――?」 急に止まった手に、安心はしたものの、困惑も隠せない。 男の行動が、読めない。 解らない。 けれど。 「――!!」 次の瞬間、和都は、声にならない声を上げていた。 驚愕に、目を見開く。 両手を突っ張って、男の肩を押し戻そうとする。 けれど、和都の首筋に顔を埋めた男はびくともしない。 首筋にかかる男の息が、押しつけられた唇が、全ての感触が不快で、けれど、和都には男を制止できるだけの力も何もなかった。 「やめ……っ」 目尻に涙が浮かぶ。 そして。 首筋に男の歯が立てられた瞬間。 和都は、無我夢中で手に触れたものを掴み、男を力一杯殴りつけた。 「……っ」 男が呻き、和都から僅かに離れた隙をついて、男の下から抜け出した。 そのままよろよろと立ち上がり、駆け出す。 男に言いたいことは山ほどあったけれど、それより何より、この場から逃げ出すことが、今の和都の全てだった。 幸い、男が追ってくる気配はない。 それでも和都は走り続けた。 公園の外へ。 明るい場所へ。 人通りの多い所へ。 どれくらい走っただろう。 家近くの賑やかな大通りまで来たところで、ようやく和都は立ち止まった。 「はあ、はあ……っ」 息が上がって、上手く呼吸が出来ない。 しばらく肩で息をしていると、何とか落ち着いてきた。 そろそろと辺りを見回し、さっきの男が居ないことを確かめ、ほっとする。 一体、さっきのは何だったんだろう。 訳も解らず、自分の身に起こったことすら、把握できていなかった。 ただ、恐怖だけがあった。 男を思い切り殴りつけた凶器は、未だ和都の手にあった。 それは和都の鞄だ。 教科書や参考書等が入った重たい鞄。 これを持って、学校や塾に行くのはかなり辛かった。 けれど、今日、初めてこの鞄と中身に感謝した。 自分の窮地を救ってくれたのだから。 ――もう二度とあの公園を通ったりしない。 そう思うには十分すぎる目に遭った和都は、深く深く息を吐き出す。 震える手で乱された服を整える。 時折吹く夜の風の冷たさに身体を竦ませながら、早く家に帰りたいとそれだけを考えて思うように動いてくれない足を必死で前へと歩ませた。
2006/03/07
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