そんな日もある 2



 あの時も我らが船長は、いつものように腹が減ったー腹が減ったーと雛鳥が親鳥にするように、ぴーちくぱーちくとサンジに餌を強請っていた。
 椅子に座って足をブラブラさせたり、その椅子の上に立ってみたり、かと思うとサンジの後ろをちょろちょろ歩いてみたり。終いには、サンジの背中におぶさるようにぶら下がって、料理を作る手元を見ながら騒ぐ。
 流石にサンジも、それは暑苦しいから離れろと喚いていたが、船長は負けじと引っ付いてきた。しばらく押したり引いたりが続いたが、その日のルフィは非常にしつこかった。よほど腹が減っていたのか。ピッタリとサンジの背中に張り付いて離れようとしない。
 ついには怒鳴るのも面倒になったのか根負けしたのか、時間の無駄だとサンジはおんぶオバケをそのままにして食事の準備をするはめになった。

 ようやく一通りの料理がテーブルに並ぶ頃、背中でおんぶオバケが美味そうーと叫ぶ。これで、ようやく肩の荷を下ろせる。
 サンジはルフィに全員が揃うまで食べるなよと釘を差すと、皆を呼んでくるから背中から降りろと、自分の首に巻きついている腕を引き離そうとした。
 その時、巻きついていた腕に、ふと妙な違和感を覚えた。
 違和感というより、違うなと思った。
 いつも自分を抱きこむ腕はこれよりもう少し力強くて、太い。背中に感じる温度はもっと温かくて広い。その温かい場所へ背中を預けるようにしてゆったり座るのが心地いいと、そう感じ始めたのは最近のことだ。
 それに前に回された手が、こんな風に大人しくしてることもない。擽るように喉仏と顎を行ったり来たり忙しくしてみたり、優しく顔を撫でられたり。くすぐったいと悪態の一つも交えて言えば、面白そうに耳元へ唇を寄せてきて―――

「サンジ、なんか顔が赤いぞ?」
「……っ?!」

 その後、自分が何をどうしたのかまるで憶えていない。
 憶えていないが、とりあえずその場でおんぶオバケを撃退したのは確かだ。いつも通り仲間達を呼んで昼食も食べた。いくらなんでもマズイだろうとか、何がマズイのか、頭の片隅で芽生えた煩悩を滅却しようと、とにかくこの場は普段通りにしなければ、それだけを考えた。



「あー……」
 今が夜ならどんなにいいかと思った。夜だったら、有無を言わさずあの手を格納庫へ引っ張っていくのに。
 空は相変わらず、どんよりとした曇り空だ。せめて、からっと晴れてくれればこの気分も、おかしな欲求もなくなるそうな気がする。なのに、まるで晴れる気配がしない。
 トイレで一人抜く気にもなれず、かといって萎えたわけでもない。与えられる快感を知りすぎて、あれが欲しいと身体が疼くのだ。どうしたものかと、解決策を考えても、いい考えなど浮かんでこない。浮かんでくるのは、あの男のことばかり。
「あー……」
 また意味のない「あー」と、溜息を吐き出した。
 その時、どこからともなく、わっという声が上がる。
 ん?とサンジは億劫そうに視線だけ上げると、声のした船尾の方で三人――ルフィ、チョッパー、ウソップが驚いた顔でこっちを見ていた。
「何やってんだ……アイツ―――ら?」
 直後、ばちゃっと、サンジの目の前で何かが弾けた。弾けたというより、額に何かが、ぶつかった。
 半ば呆然としながら、ゆっくりと顔を上げてみると、よくわからないものが異様な臭いを発しながら、だらりとサンジの顔を滑るようにして流れ落ちてきた。
 額が心なしか痛い。
 こちらに駆け寄ってきたウソップと目が合うと、おあっ!とすごいものを見たような顔でウソップが叫んだ。
「サ、サンジ! 悪ぃ!」
「……」
「いや、ちょっと手元が滑ったというか」
「……」
「ルフィがっ……って、おいルフィ! てめぇも謝れ!」
「……ぇ……」
「へ?」
「臭ぇーーー!!!」
 絶叫した。
「臭ぇー! うあっ、が……っ、げっ、口に入ったじゃねぇか! ウソップてめぇ、何しやがんだ! アァ?!」
「あの、その、なんだ、あれだ。つまりその……腐った卵星バージョンアップ3を開発していたら、ルフィがふざけて、発射台から飛んでってしまったというか」
「腐った卵だあ? じゃ、なんだこのネバネバは!」
「いや、だから、改良バージョンってことで納豆を少し加えたり」
「つうか、目に染み……うげっ……辛ぇ!」
「お、おう。例によってタバスコ入りだったり、辛子とワサビも少し……」
「フザケンな! てめ、コロス!」
「と、とにかく、まずは急いで洗ってきた方がいいぞ」
「当たり前だ! さっさと水汲め!」
「はいぃぃ!」



 ドスドスと、足音荒くサンジはバスルームへと向かった。
 最悪だった。非常に最悪だった。ただでさえ、欲求不満でイライラしていたところへこれだ。
 あの三人は、風呂に入ったらあとできっちり蹴りいれてオロしてやる。
 だが、今は報復するより先に風呂だと、バスルームへ続く倉庫のドアをサンジは怒りのまま乱暴に開けた。
 すると、それと同じタイミングで向かいのバスルームの扉も開いた。
 驚いて立ち止まると、中から出てきたのはホカホカの白い湯気と、ゾロ。どうやら、サンジが一人悶々としている間にトレーニングを終えて、汗を流したらしい。やたらすっきりした顔で、肩にかけたタオルで頭をゴシゴシ拭いている。
 しかし、サンジの姿に気がつくと、ゾロは頭を拭く手を止めて呆気にとられたような顔をした。その顔が徐々に嫌そうに歪んでいく。
「なんだ、その格好……」
 ゾロがそう言うのも無理はない。
 何しろ、今のサンジは頭から得体の知れない液体を被り、黄色い髪を茶色く染めて、しかもそのヘドロのようなものが着ていた白いシャツにまでべったりとくっ付いていた。
 おまけに
「テメェ……なんか、すげぇ臭うぞ……臭ェ」
 ゾロのところまで、この腐った卵星バージョンアップ3の香りは届いたらしい。よほど、強烈な臭いなんだろう。タオルで何気に鼻の辺りを塞いでいる。
 だが、しかしだ。今のサンジにはそんなことなど、どうでも良かった。
 昼間っから湧き上がってしまった欲求を持て余し、どうすることも出来ず悩んでいたところへこの災難。しかも、その欲求を訴えたい相手に
「おい、こっちに近寄るな」
 なんてことを言われれば、気持ちが一気に荒むというもの。
「テメェ……よくも……」
「よくも?」
 なんたる屈辱。これもそれもあれもどれも、全部が全部、きさまの所為だろうが。
 ゾロの預かり知らぬところで、サンジは理不尽な怒りをふつふつと沸かせていた。そうだ、全部コイツが悪い。
 いきなり欲情してしまったのも、コイツがいっつもベタベタくっ付いてくるから悪いのだ。だから、ルフィの腕なんかで妄想しちまって、いきなりヤりたくなっちまったんだ。この災難もそうだ。普段なら、この時間あんな場所に自分はいない。キッチンで夕食の仕込みをしていたはずだ。それなのに、ヤりたくなっちまったからあんな場所をうろうろして挙句このザマだ。コイツもあそこではなく違う場所でトレーニングしていれば良かったのだ。そうすればこんなことには。
 サンジの茶色くなった頭と、握り締めた拳がぷるぷる震える。
 すると、様子がおかしいサンジから、ゾロは何かを感じ取ったのか、すっと音を立てずにその場から離れようとした。
 しかし、サンジはキッと顔を上げると、未だ何がなんだか訳がわからずにいるゾロに向かって
「俺の気持ちを思い知れっ!」
 そう叫んだかと思うと、逃げる暇を与えず腕を伸ばし、飛びつくような勢いでゾロへがばっと抱きついた。
「のぁ! て、てめぇー!」
 怒鳴るをゾロを無視して、ズリズリとシャツに顔をこすり付ける。ついでとばかりに、首に腕を回して頬擦りまでした。
「やめろ! てめ、離せつってんだろうが! このアホが!」
「離すかよ!」
 当然だ。さっきまで恋しいと思っていた人肌にやっとくっ付いたのだ。誰が離すかと、サンジは引き離そうとしてくる力に、ムキになって対抗した。
「臭ぇ! くっつくな!」
「うるせぇ! 今、俺は猛烈にお前にくっつきてぇんだよ!」
「俺はくっつきたくねぇ! 臭ぇんだよ、離れろ!」
「嫌だね! 俺はスリスリしてぇ!」
「俺はしたくねぇんだ! マジで臭ぇ」
「あんだと! 俺が愛の抱擁してやってんのに臭ぇとか言うんじゃねぇ!」
「臭ぇだろうが!」
「臭くねぇ!」
「臭ぇ!」

「どうでもいいんだけど、アンタ達。そこどいてくれる?」

 その晴天の霹靂とでも言うべき声は、サンジがゾロの腰にがっちり腕を回し、厚い胸板に顔を埋めてスリスリしている、まさにそんな時に舞い降りた。
 聞き覚えがありすぎるその声に、恐る恐る振り向いてみれば、ナミが本の山を抱えてドア口に立っていた。
「なんかここ、すごい臭うんだけど……」
 目の前の二人の状態などまるで無関心な様子で、ナミは臭いの原因でも探すようにキョロキョロと倉庫の中を見渡していた。その後で改めて二人に向き直り
「この本、部屋に運びたいのよね」
 しっしっと追い払うような仕草をすると、二人のすぐ足元にある女部屋のハッチの蓋を開け、本を持ったまま下へ降りていった。
 ナミが下へ降りていってる間、二人はくっついたままの格好でずっと固まっていた。いや、動けなかった。半ば、魂が抜けていた。特にサンジは。
 しばらくして、本を部屋に置いて戻ってきたナミが
「じゃ、私の用は終わったから、後はどうぞごゆっくり」
 ハッチの蓋を閉めて、固まったままの二人へ意味深な笑顔を浮かべた。それから、何事もなかったかのようにその場から立ち去って行った。
「あ、そうそう、サンジ君。おやつの時間なら少しくらい遅れても大丈夫よ。好きなだけゾロにスリスリしてなさい」
 しかし、きっちり爆弾を落とすことは忘れない。

 バタン。

 異臭と暗闇を閉じ込めるように、ドアが閉まった。
「ち……」
「……」
「違うんだ、ナミさん! 誤解だ! 誤解なんだ、ナミさん!」
 何がどう誤解なのか。ともかく、ナミさんナミさんとサンジは慌てて、倉庫から出て行こうとした。だが、それをゾロが襟首を掴んで引き止めた。
「だそうだ。お許しが出たんだから、ゆっくりしていけ」
「離せ、てめぇ! 俺はナミさんに!」
「スリスリしてぇんだろうが」
「それどころじゃねぇ! 俺はナミさんに」
 しかし、抗議の声はことごとく無視され、サンジは強制的にバスルームへ引き摺られていく。扉が閉まると、すぐに怒鳴り声と何かが破壊されるような音がしてきた。ドスン、バタンと、音はなかなか鳴り止まない。
 外では、雲の切れ間からようやく太陽が顔を出す。
 事の原因を作ったナミは、今は素知らぬフリをして優雅に長椅子に座り、本の続きを読んでいた。その横でロビンも本を読んでいる。ルフィとチョッパーは、実験の続きを弄って遊んでいる。ウソップはというと、サンジの復讐に怯えながら未だ懸命に水汲みマシーンを漕ぎ続けていた。
 いつもと大して変わらぬ日常の中で、やがて、静けさを取り戻したバスルームからは、甘ったるい声が聞こえてくるわけだが、それもまた日常の一部。
 日はまだまだ高い。時間はあるのだ。忙しいコックさんも、たまにはこんな日があってもいいのだろう。



2005/06/25掲載
※所詮ラヴ

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