その口を塞ぐには 1



「これなんだ?」
 白い湯気を立てている鍋を指差し、物珍しそうにゾロが問いかけた。
「煮豚」
「にぶた?」
「この間のラーメンに入っていただろ」
 言われてから、「ああ」と思い出したように返事を返すと、ゾロはまた鍋の中を覗き込んだ。クツクツと音を立てて煮込んでいるそれは、さっきから美味しそうな匂いをラウンジの中に充満させていた。
 道理で……と、さっき扉の前を陣取っていたルフィ達のことを思い出す。
 この匂いに誘われたらしいツマミ食い常習犯達は、ずっとラウンジの前をウロチョロしていて、鍛錬を終わらせたゾロがラウンジで水を飲もうとしたら、俺も俺もと一緒に中へ入りたがったのだ。
 無論、そんな連中の進入を許したら最後どうなるかがわかっているコックさんは、水が飲みたいと言ったゾロだけ中へ招き入れ、味見させろと喚く他三名は問答無用で蹴り出していた。さっきから、誰かがラウンジを訪れるたびに、これら一連の攻防を繰り返しているらしい。
 それでも懲りることなくドアの前に居座っている辺り、流石と言うべきなのか。
 その間も鍋はせっせと肉の塊をイイ感じに煮込んでいる。下から沸き上がるこげ茶色の泡と一緒に、肉の塊が浮き沈みしている。
 ゾロは不思議そうな顔をして、その肉を目で追っていた。
「なんで紐が入ってんだ? これも食うのか?」
「食うわけねぇだろ、アホ。そりゃ煮崩れしねぇように縛ってんだ」
 へぇと、わかってるんだかわかってないんだかな顔をして、ゾロはまた鍋の中を覗いた。
 煮崩れという言葉の意味は知らないが、外にいる連中が味見したいという気持ちはなんとなくわかった気がしたのだ。湯気といっしょに漂ってくる匂いは確かに美味そうで、先日食べたラーメンを思い出した。上に乗っていたあのトロトロ蕩けるみたいな柔らかい肉がこれだったとは。
 多分この紐から良いダシが出てるんだろうなぁと、かなり見当違いなことを思いながら、ゾロは急に憶えた空腹を誤魔化すように、水をまた一口飲んだ。

 さて、不思議そうな顔して鍋を覗き込んでいる男の一方で、これまた不思議そうな顔してその姿を眺めている男がここに一人。
 夕食の大まかな下準備が終わったサンジは、椅子に座って一服しつつ、目の前の光景を見るともなしに見ていたのだが。
(なんつうか、こう……後ろからどつきたくなる光景だな)
 言い換えれば微笑ましいと言うべきか。
 煮豚の何がそんなに珍しいのか、じっと見つめていたかと思うと、「おお」と小さな感嘆の声を上げて、何故かウンウンと一人頷いている。顔つきが微妙に真剣なのが、可笑しくて仕方ないのだ。
(なんだ、このマリモは。新たなアピール方法でも思いついたのか?)
 マリモの隠れた可愛さ見せます。これでアナタの心を虜。
(……とか?)
 ちょっぴり青ざめつつ、そんなフレーズを思い描いてみた。
 当然だが、そんな戦略など、この男に限ってありはしないのだろうが。
 だからそれも、ごくごく自然な行動の一つではあるのだが、どうにも見ているこっちは胸の辺りがモゾモゾしてくる。愛玩欲やら、保護欲といった要求が芽生えたりして、衝動的に抱きつきたくなるのだ。いい子いい子と、決していい子でも可愛らしくもない男のマリモ頭とかマリモ頭とかマリモ頭とかを撫で回してやりたい。いっそ新婚プレイさながら、後ろから目隠しをして「だぁ〜れだ?」と言ってみるのはどうだろう。
(……それってどうよ)
 冷静になってみると、非常に恐ろしい考えだ。
 それによくよく見れば、上半身裸の男の肩にキラリと玉の汗が光っている。いつもの鍛錬が終わった後であるから、当然だろう。鍋から立ち昇る湯気同様、その身体からもモワッと湯気が発生しているような気もする。やはり汗臭そうだ。抱きつかなくて正解だ。
 でも、頭グリグリだけはしてやろう。手は後で洗えばいいわけで。なんというか、これはご褒美なのだから。
 とか、なんのご褒美だよとサンジ自身も突っ込みようがない、そんなくだらないことをアレコレ考えていたからだろうか。一瞬、反応が遅れてしまった。
「うおっ?!」
「げっ」
 突如として、船が大きく横へ傾いたのだ。
 気がつくとサンジは斜めになった床に足元をとられ、バランスを崩したまま壁に身体を打ちつけていた。右に左に揺れる視界の中、咄嗟に伸ばした手の先に大きな鍋がチラリと見えた。



 ***



「いってぇ……」
 サンジは顔を顰めると、ぶつけた頭を両手で押さえた。その押さえたところから、ジンジンと痛みが頭に響く。横になったまま薄っすらと目を開けると、アチコチに物が散乱している床が見えた。
 どうやら、船の揺れは納まったらしい。一時はあの大きな揺れで、船が転覆するんじゃないだろうかと思ったが、見たところ無事なようだ。ただ、外からは仲間達のワァワァ騒ぐ声が聞こえる。
(様子見に行かねぇと……)
 サンジは痛む頭を押さえながら、ゆっくり身体を起こして立ち上がった。立つと、軽い眩暈がする。
 ふと、揺れる前のことを思い出した。船が大きく揺れて、手を伸ばして、掴みそこなった―――
「鍋!」
 ハッとして、振り向いた。だが、振り向いてから驚いた。
「おまえ……」
 サンジが掴もうとしたあの鍋を、いつの間にかゾロががっちりと素手で掴んでいたのだ。
「結構熱かったな」
「熱かったじゃねぇだろ! テメェ、何やってんだ!」
「なにって」
 ゾロは鍋を床へ下ろすと、真っ赤になった自分の手にフーフーと息を吹きかけた。
「だから、何やってんだ! 早く冷やせ、アホ!」
 サンジはその手を掴むと、すぐに蛇口から水を出してかけた。ボールの中にも水を溜め、冷蔵庫からありったけの氷を持ってくると、ガツガツ氷を砕きながら放り込み、有無を言わさず真っ赤になっている手をその中へ浸した。
「ちゃんと冷やしとけ」
 暫くの間そうしていると、サンジは自分がゾロの手首を掴みっぱなしだった事に気がついた。慌てて手を離したが、焦っていた所為で袖口ごと水に浸してしまい、シャツは肘の辺りまでぐっしょり濡れていた。
 小さく舌打ちをして、濡れた袖口を捲くる。ついでに、無言でゾロの膝の辺りを蹴った。
「おい……」
「るせぇ、黙って冷やしてろ」
 サンジ横顔をみて、ゾロもそれっきり黙りこみ、言われた通り氷水に手を浸したままにしていた。



「すぐに冷やしたからそれほど酷くならなかったみたいだ」
 両手にぐるぐる包帯を巻きながら、チョッパーがそう言った。それから、ゾロって手の皮が厚いんだね、とも。普通なら大火傷になってるらしい。普通じゃなくて良かったねと、褒め言葉と言えなくないことまで言っていた。
「水脹れがよくなるまで、あんまり重い物を持つなよ」
「へいへい」
 船医の言葉を聞きながら、ゾロは包帯を巻いてある自分の手を見た。持つなと言っても、何重にも巻かれた包帯はまるでグローブを装着しているようで、重いものを持つ以前に何も持てない状態になっている。
「これ、もっとなんとかならねぇのか?」
「ならねぇ、今日はこのままでいろ。絶対外すなよ」
「外すなって……どうしろってんだ、この手で」
「だから、何も持つな」
「あのなぁ……」
「ゾロはすぐに包帯外したがるからな。このぐらい巻けば、一人じゃ外せないだろ」
 その大袈裟すぎる包帯は、いくら忠告しても医者の言うことなんか聞きやしないゾロのために、チョッパーが考えたことらしい。
 ゾロが溜息をつくと、これで丁度いいんだとチョッパーが笑って答えた。

 そんな二人のやりとりを、サンジはしばらくなんとも言えないような顔して黙って聞いていた。苦虫を潰したように煙草を咥え、腕を組み、包帯だらけになったゾロの手を見る。その手に向かって、何度も心の中で毒づいていた。余計なマネしやがって、とか。なに勝手なことしてんだ、ボケとか。別に俺は頼んじゃいねぇんだ、とか。クソという言葉は、もう百回以上は言っている。
 ジッと手ばかりみていたら、顔を上げたゾロと目があった。開きかけた口が何か言いそうになるのをぐっと堪えると、そのまま後ろを向いた。
 中断していた食事の準備をしようと思った。すっかり冷めてしまった鍋から、茶色く色づいた煮豚を取り出す。背中に視線を感じながら、縛っていた紐を解いた。
 言ってやりたい怒鳴ってやりたい文句は山ほどあった。言い足りないほどあった。だが、きっとそんなことは言えやしない。さっき、軽く蹴りを入れたが、もっと蹴っておけばよかったと後悔した。取り出した煮豚は、やっぱり美味そうな匂いをさせている。自分が作ったのだ。美味いに決まっている。
「美味そうだなぁ……」
 後ろでチョッパーが呟いたのが聞こえた。なんて答えたらいいのかわからず、ムシャクシャしながら煮豚を切り揃えていった。
(クソっ)
 ほんわりと煮豚から立ち昇る湯気が顔に当たる。顔が熱い。やたら火照る顔を誤魔化すように唇をきつく噛んだ。
 今、自分の顔は赤くなってないだろうか。それが湯気のせいではないのはわかっていたが、今だけは湯気のせいにしたかった。多分、そう。
 きっと自分は―――――らしくないほどアイツに感謝しているのだ。



2004/05/30掲載

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