月も星も明るい夜、風は南西寄りで少しばかり肌を冷ましていく。それでも残暑、虫の鳴くのも日中の蝉よりはまだ盛んではない。
「猫臭い」
 ぽつりと呟いた青年は、瓦屋根の上に腰を落としていた。座りはせず、爪先で体を支えている状態。よほど身体感覚がよくなければできないだろう。青年はその膝に両肘を預け、右手の甲を頬に押し付けて、端整な顔であるというのに、しかめ面をしていた。
 ――あー……、臭くて敵わねえなー。人以上に鼻が利くってのもヤなもんだね。それを隠そうともしないのも腹が立つ。
「誰か」
 青年が低く声を上げれば、黒装束の忍が一人、すうと彼の眼下の庭に控えた。
「俺は出掛ける。少し周辺を見て回るだけだ、一人でいい。すぐ戻る」
 声無く肯定の意を示した忍に戻れ、と言う。忍は、来た時と同じように音も無く去った。


「さーて、猫を捕まえに行きますかね」
 青年は立ち上がりながら明るい口調で独り言。だが、ひくひくと鼻を動かす姿は、あまり人がする仕草ではなかった。臭いの元を辿っている、とでもいうのだろうか。人ならば、鼻頭をさほどに動かさず、すん、と臭いを嗅ぐだろう。青年の動作は、獣のそれによく似ていた。
 遠く、ある一点を見つめるように、青年は呟く。
「……見つけた。まずは懲らしめなきゃねー。事と次第によっちゃ上等の三味線を大将に献上できっかもな」
 するりと屋根から降りた先は青年に与えられた居室。押入れを開け、休養だからと外しておいた戦装束を取り出す。
 鉄の大箱に鍵をして仕舞っていた武具を、薄い単衣、同様に薄い帷子の上から身につけ、全身を黒く覆う。上から纏うのは深緑を基調に茶や錆、褐色に染められた独得の装束。カチリと飾りじみた頤から額にかけてを守る鉢鉄を止め、赤茶の髪を流す。両頬と鼻頭に千歳緑の色を乗せ。籠手はまだ置いたまま、暗器を幾つか仕込み、そして最後の武器を入れた箱を手に取った。
 重厚な薄い箱に鍵と呪。青年以外が取り出そうとしようものなら肘まで焼け焦げる。ふっと息を吹きかけて呪を解き鍵を外し、一対の大型手裏剣を腰に帯びる。最も威力の弱い物だが、戦場でなければ青年にはこれで充分だった。そして指先までを隠すような籠手を着ける。
 縁側の雨戸は閉め切られている。音を立てずに開閉し、降り立った庭から塀へと跳躍する。ごきり、と肩を鳴らして青年は殊更明るく言ったのだった。
「さあて、やんなくてもいいけど。……臭いから、お仕事、お仕事」
 臭いの根源へと、忍は飛んだ。




 深夜の里山に近い道をとぼとぼと灯りもなしに歩くのは、身形のよい若い娘。
「甲斐の虎がいると聞いたことがあったのに。虎の仔もいるというから甲斐を目指してきたはずなのに、あたし迷子なのかな。人も見ないし、妖も見ないし。ヌシの居る土地だったらすぐ判るのに。御所から出たことがなかったから逃がされても困るの、判らなかったかしら? でも、殺されてしまったもの……、仕方のないことね」
 ただ、口にする言葉はいささか身形が良いとはいえ、若い娘のものと言うには些か可笑しかった。
「瀬戸海の鬼、奥州の竜、越後の軍神、伝説の風魔。どれもこれもあたしが御所から出るのを見計らったように姿を現すなんて! でも、あたし、年だけは負けない気がする!」
 嬉々として拳を握る娘。
 真暗な夜道を迷いも怖れもなく行けるのは、その者が人ではないからだ。しかし、忍はこれほどに防備の無い姿を晒しはしないし、口も開かない。娘を背後の樹上から見下ろしていた先の青年は呆れ果てていた。
 ――嘘だろ……。あーもう面倒だけどこれ以上猫臭いのは勘弁!
「や、一人?」
 娘の目の前に、唐突に現れた不審人物。へらへらと笑ってはいるが、姿は笑えないほどにがっちりと武装されていた。びくり、と娘が動きを止め口を噤み、どさりと腰を抜かした。
「どこの良家の娘さんだか知らないけどね、夜道を歩いちゃダメって言われてるでしょ? それも守れなきゃ襲われちゃうよー」
 へらりと軽く言ってのける青年に、娘は幾度か口を開いては閉じ、開いては閉じ。辛抱強く待つ青年がいい加減に、と口を開こうとした瞬間、娘は彼を指差して喜んだのだった。
「キツネ!」




 娘の言葉に青年は顔を顰める。
「アンタこそ猫のくせに」
 娘は立ち上がると、彼の言葉も気にせずにはしゃいでいた。
「狐でしょ、狐! 御所を出てから、妖でも初めて会えたの、あたし! ねえ、本物でしょ、転化してみせて!」
「てんげ? なにそれ。それより俺様の言葉、聞こえなかった? 猫だろ、あんた。臭くってしょうがないんだから少しは抑えてくれない?」
「すごい、完璧に人に化けられるなんて! 転化は転化。あたしみたいな獣上がりの妖がする変化じゃなくて、元々妖のあなたがするものじゃない」
 青年と娘の会話が噛み合わない。それどころか、二人の間には見えない溝があるかのようで、互いの言葉はそこへ流れ去っていくよう。


 が、青年の叫びでそれは収まった。
「っあー! とにかく黙りな猫娘!」
「はいっ!」
「そこに直れ!」
「はいっ!」
 見る者がいれば、滑稽と笑うしかない。山道の真ん中で両手を腰に顎で地面を示した青年と、逆らうことなく小さく座り込んだ娘。彼女が口を閉じたのを見て、青年は深い溜息を落とすと共に声を出した。
「あのねえ……、すっごく猫臭い、アンタ。そんでアンタの言うとおり俺様は狐だ。半人で半妖だけどな」
「臭っておりましたか! それは申し訳のないことを! まだ変化に慣れていませんから……。獣の姿に戻ればさほど臭わなくなりますので」
 慌てて謝ると、娘は意識を集中させて猫に戻ろうとするようだった。はあ、と青年が息を吐いたのもつかの間、娘はがばりと顔を上げた。
「あの、狐さま! 半人半妖と言われておりましたね、……転化はできないのですか?」
 泣きそうな表情を浮かべて猫娘は告げた。そもそも青年には彼女の言う転化というものが何か判らないため、眉を寄せて娘を見下ろすばかり。
「はあ? 俺様は生まれた時から人の姿なの。母親が人の姿のまま孕んでそのまま産んだらしい、って聞いただけ。狐の自覚は、殆どない」
 親の顔も知らないしさ、と呟いたのを娘は聞いただろうか。おそらく聞いていまい。興奮気味にしゃべる娘に青年はやれやれと首を振った。
「なんと勿体のないことを! 狐さま、あたしがあなたをご立派な妖にいたします!」


 深々と頭を下げて意味の判らないことを言った娘はもういない。替わりに煤色をした猫が一匹。
 ナア、と青年を見上げて鳴くので、これがその娘の変化した姿だろう、と首の後ろを摘まんだ。視線の高さまで持ち上げれば、大きな黒目で止めてくださいとばかりに訴えてきて、仕方なく青年はその猫を傷つけないように懐に抱えた。
「全く臭いがしなくなった。キツかったんだよなー、俺。しばらくそのままでいてくれよ、猫娘」
 しおしおと小さくなった煤猫は、ニィとか細く鳴いた。









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2008/09/25, 2010/01/10
2010/03/23 訂正
よしわたり



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