「幸村ぁ!」
「お館様ぁ!」
「幸村ぁ!」
「お館様ぁ!」
「ぃゆきむるぁ!」
「ぅおやかたさぶぁ!」


 早朝から熱血師弟の殴り合いが行われているようだ。互いの名を叫びながら、力の限り殴り合う音がうるさくてかなわない。青年は毎日の日課となってしまった溜息をそれはそれは深く落とした。
 それから更に、自分が寝起きしている布団の隅で小さく丸まって腹を上下させている猫を見て、肺の中を空にするほどに息を吐いた。
「おい、なーに勝手に人の布団で寝てんの」
 摘み上げても、猫はニャア、と鳴いて前足で顔を撫で回しただけ。
「もしかして人の姿をしてないと話せない?」
 青年が呆れを満面に猫の鼻っ面を押せば、お手上げとばかりに猫は両前足を顔の横で垂らした。招き猫かよ、と呟いた青年に力無くナァと鳴く猫。
「偉そうなこと言っといてさ、自分の方が未熟なんじゃね?」
 小莫迦にしたように、へらへらと笑った青年の手からするりと逃れて、猫は部屋の隅へ。ぽふん、と微かな音をさせて、昨夜の娘の姿になる。途端にきつくなる猫臭さ。ひくりと顔を強張らせた青年にあわあわとしながらも、娘が畏まった姿は武家のものではなかった。
「あの、あたしちゃんと名前あります! と言います。それに、人に変化できるようになった時にの姓を賜りましたもの!」
 嬉しそうに名前を言い、姓を名乗った娘は、にこにこと笑っていた。反して、青年の眉間はぎゅうと寄せられた。




 やれやれ、と首を回してから青年が猫を見た。
「いやね、名前の話してるんじゃないの。あー、しかもマジかよ……。あんた、御所から出てきて、姓を賜ったって?」
「はい、狐さま」
 その言葉にふん、と嫌そうに鼻を鳴らす。
「俺様は猿飛佐助。狐なんて名じゃないよ。その衣服に畏まり方、あんたが住んでた所でしてたやつだろ?」
「はい、佐助さま。それがどうかしましたか」
 何事もないといった風情の娘に、青年は自らが忍であることを棚に上げてかっと怒る。
「どうかしましたか、じゃない! そこへ帰れ!」
 と名乗った猫の妖の姿は、どう見ても公家、しかも上等な絹の衣装。畏まって座る姿を青年は見たことはないが、だからこそ世俗とは隔離されたものだと思われた。しっし、と追い払う仕草をする青年にくるりと丸い目を向けると、娘は項垂れてしまう。そして、小さくこぼしたのだった。
「あるじさまが、弑されて、あたしも斬られて、目を覚ました時にはあたしの知っている御所じゃなくなっていて……。だから、出てきたんです」
 ――そういう話か。確かに彼処は乱があったと聞いていた。
 青年の顔が急に感情を削ぎ落としたものになる。体を固くした娘の言葉から得られた情報が裏付けとなるとは思いもよらなかったと、娘に目を遣る。
 ――「斬られて」と言っていたな。だが血の臭いはしない。知っていることは全て明かしてもらおうか。


 にこりと笑みを貼り付けた青年が問う。
って言ったな? 斬られた傷はどうしたの?」
 気配に聡いのは、青年も娘も同じ。笑っていながらも訊問する気だと悟った娘は大人しく従うかのように、こくりと頷いた。
「あたしは、斬られても死にません。深く斬られた傷を治すのに時間が掛かってしまうから、床下で眠りに就いていたんです。随分掛かって治しました」
「じゃ、あんたを殺したければどうすんの?」
「答えられません。佐助さまが同じことを訊かれて答えられますか?」
 頭も悪くないようだ、と青年はにんまりと作った笑みを深めた。
「ま、答えない。だが俺は所詮は人、そういうこった。――さて、の『あるじさま』を斬ったのは誰だ?」
 それまでと一転、真剣な表情になった青年。娘は考え込むように瞼を伏せた。




「名前は知りません。黒と白の、よく目立つお人でした。立ち居振る舞いは見事なものでしたが、すらりと向けられた白刃は迷いなく、火を纏わせてあたしを斬りました。その後、あるじさまとしばらくお話なされていたようですが、気の付いたあたしが這ってでもあるじさまを守ろうとしたところで、あるじさまは……。それからは、火の手が回ってきて、もう獣の姿に戻ってしまって、逃げて体を休めるのに必死で覚えていません」
 娘の黒い瞳が青年を見る。その言葉に偽りなし、と判じたか、彼はふうん、と頷いた。
 ――黒と白の目立つ、立ち居振る舞いの見事な火の使い手。一人しかいないな。他の火属性の奴等とは考えられない。
「それから? が目を覚ました時には『御所』はどう変わっていた?」
「なにもかも、です。猫のあたしを知っている人は誰もいなくなっていて、変化して人に紛れて話を聞いた限りだと、次のあるじさまには会えないんだって。あるじさまの他に御所で妖がいるのを知っている人はいなかったから、出てくるしかなかったんです。外に出たら猫におなり、とあるじさまがのたまわしていたから猫の姿でしばらく京をうろうろしていたら、色んな話を聞いたんです。鬼や虎や竜や軍神がいるって! だから、まずは甲斐の虎に会いに行こうと思って信州に向かう風脈に乗ったんです。でも人にも妖にも会わなくて、甲斐に向かえてるかどうか判らなくて、佐助さまが来てくれて助かりました!」
 娘は輝くような笑顔で言うと、深々と頭を下げた。


 青年は、もう忍の顔をしていなかった。
 呆然と娘を見下ろして、空腹の他にどことなく腹が、寝起きの他にどこかしら頭も痛む、とぼんやりしていた。
「風脈に乗ったら誰にも会わないでしょーが。妖も猫臭すぎるアンタに構えば自分にも臭いが移ると思って避けてたんじゃない? 俺様はその臭いに耐えきれなくなって仕方なく行っただけ。もう、三味線の皮にしてやる」
 ごきごきと肩を鳴らし、腕を伸ばしてくる青年のそれをかわしながら、娘は怯えたように首を振る。本気で。
「それは止めてほしいです、佐助さま! あたし三百年経ってようやく妖になれたのに!」
 腕を下ろした青年が、さも呆れた口ぶりで言った。
「……普通さ、猫って百年生きたら妖になれんじゃないの?」
「そう聞いていたんです。でももう、あたし妖です! あ、猫臭さも隠せない未熟なんだ……」
 青年と娘、二人して項垂れてしまうほかに、することはなかった。
 どたどたと、近付きつつある足音にも気付かぬほどに。




「佐助っ! 遅いぞ!」
 すぱん、と小気味よい音を立てて障子が開けられる。
 とっくに開けられていた雨戸から差し込む朝日が低く、丁度青年の目を刺した。眼を眇め、片手で光を遮って声を出そうとした青年より先に、障子を開けた若者が叫んだのだった。
「破廉恥であるー!」
 途端に場は混乱に陥る。
「ひゃあ!」
「旦那! 何言ってんの、これには訳があるから!」
「言い訳無用! 若い娘をつ、つ、つ、連れ込んで! 朝まで、など、と、そ、そ、そのような!」
「旦那、お願いだから落ち着いてくださいって、ホント!」
「佐助っ! 仕事だとしても巧くやれぇ!」 
 顔だけでなく、体まで真っ赤にした若者が、必死になって宥める青年に向かい、両手に炎を纏わせた二槍を構えた。だが、それに驚いたのは青年ではなく、娘。顔面蒼白になって叫び上げた。
「ほ、炎! いや、いやだ、あるじさまはもう……!」
 娘はぽふん、と煤色の猫の姿になって一声高く鳴くと、唖然とする二人の足下を抜けた。そして、あっという間にその場から姿を晦ましたのだった。


 残ったのは、すっかり赤面の面影も残さない若者と、二槍を向けられたままの青年。
「佐助? 俺は寝惚けているのだろうか……」
 猫の出て行った庭を見ながら若者は首を捻る。青年はいたって平静に答えて返す。
「旦那は起きてますよ。朝から大将と修錬したでしょ」
「うむ。しかしだな、娘が猫になったのだぞ」
「俺様も見たから。夢じゃないよ、コレ」
「どういうことだ……」
 主が酷く狼狽し、困惑しているのをいいことに槍を手で降ろした青年は、これ以上何も出ないというほどの溜息を深く長く落としたのだった。









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2008/09/25, 2010/01/10
2010/03/24 訂正
よしわたり



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