館の廊下を歩いているのは二人の男。少年のように見える顔立ちながら意志の強そうな瞳をし、日に焼けた茶色い髪を縛って赤い鉢巻を締めた若者。もう一人は飄々と掴みどころのない様子をして両手を頭の後ろで組んだ、赤茶の髪をした青年。
それまで無言だった若者が、人気がなくなったのを見計らって、それで、と青年へ声を掛けた。
「佐助、見つかったのか」
「ぜーんぜん。どっか行ったんじゃない」
軽い口調の青年に若者は肩を落とす。
「謝らねばならぬと言うのに……。佐助、それでも忍か」
今度は青年が、がっくりと頭を落とした。
「……旦那ねえ、自分が追い出しといてよく言うよ」
「佐助が悪いのではないか! 朝から妖とはいえ女子と部屋にいるなど! は、破廉恥だ!」
返す言葉もない若者は、くるりと青年に向き直って、威張るように屁理屈をこねる。
夕暮れ、若者の鍛錬に付き合わされた形となった青年は、湯を浴びた彼に従って夕食に向かっていた。今朝の事は他言無用、と青年にきつく口止めされた若者は律義にそれを守っていたのだった。この様子では、一日中、聞き出したくて仕方がなかったに違いない。
「妖に男も女もないでしょ、たぶん」
適当な言葉にも食らいつく。
「そうなのか?」
「知らないけどさ。ひっ捕まえて聞いてみないことにはね。せっかく捕まえてたのに旦那が脅かしちゃうから逃げちゃったじゃない」
青年のじとりとした視線を受けた若者は少々たじろぐ。
「すまぬ……。だが、あれでは誤解しても仕方がないと思わぬか?」
「そりゃすみませんでしたね、訊問してただけなんですけどね。忍ですから、俺様」
「う……、すまぬ、佐助」
ねちねちと正論を言われ、若者はようやく、ここでこれ以上詮索する事は諦めたようだった。
「もー、判ってくれたんならいいんですけどね。すーぐ忘れちゃうんだから、旦那は」
「これからは気をつける」
「そうしてくださいよ」
「うむ」
そうこうしている内に二人は部屋に至り、用意されていた食膳の前に若者が座って青年は傍に控え、会話はそこで終了となった。
夜も更けた頃、昨夜と同様に青年は館の屋根で屈み込んでいた。風はない。チリチリ、リーリーと鳴く虫の声がやたらと耳につく。
目的は、猫の臭いを探ること。主に探せと言われば従わざるを得ない。だが、一向に臭いがしないのだ。昨日までは、いや、今朝まで臭っていたのが、ぱたりと止んでしまっている。完全に獣の姿へと戻っているのだろう。炎と槍鋒に怖れをなした煤色の猫。少しの罪悪感を抱いて、……青年は独り頭を抱えた。
――いや、俺様の所為じゃないっしょ!? あーどっかで早く化けてくんないかねー、アイツ。
まさか猫一匹探し出すのに真田忍隊を動かすこともできず、館の主に報告するにも何の証拠もない。それどころか、自分が人でなく妖だと見破られることを青年は危惧していた。
青年と猫以外は、知らないのだ。彼が狐の妖だと。
とはいえ、青年も半人であるために術も簡単なものしか使えず、猫の言う転化とやらもできはしない。妖の姿になったことなどないのだ。生まれてからずっと人であり、里に拾われてからはずっと忍の猿飛佐助であり。猫娘に狐だと言われてようやくそういえばそうだった、と思い出すほどのものだった。
だからこそか、青年がその猫を躍起になって探してしまうのは。主の命でもあるが、自分の為でもあるだろ、と冷静に見ている青年がいる。
――そうさ、俺のためだ。あの猫娘、には訊かなきゃならないことが沢山あるんでね。
観察者と化している己に言い聞かせ、もう一度だけ夜の空気に身を溶かしこんで猫臭さを探った。
――臭いがない。逃げたか。
もう二度と現れるものかと薄く嘲り笑うもう一人の己を、今度は忍となった青年が黙らせる。
青年に人格が複数あるわけではない。ただ、場合によって人によって、態度を変えるだけのことだ。忍として生きるからには「仕事」と「その他」を切り離すのは必然。ゆえに生まれてしまった心裡の葛藤は抑えることができない。好きにさせておくのが一番だ。どうせ、表に出ることなどないのだから。
「もう一刻だぜ? 旦那も納得してくれるでしょ。寝よ寝よ」
敢えて呆れた声を出して、青年は自室に潜り込む。敷きっ放しの薄い布団が彼の寝床。ごろりと横になって、すぐに目を閉じた。
ニィ……。
小さく鳴いて、煤猫は風脈を辿って匂いを嗅ぐ。奥州、とそれは伝えてきた。竜がいるという、彼の地。だが、猫は変化しようとせずに、しばし迷う。
――佐助さま。あたしは妖だから、人として生きている佐助さまとは相容れないのかしら。炎を纏った若武者さまが大層怒っていたのは何故かは判らないけど、佐助さまは若武者さまと親しげだったもの。きっと、妖のあたしに怒ったんだ。……あたし、竜に会いに行こう。竜ならあたしよりもずっと年経た妖だろうし、もしかしたら唐に嫌気が差して奥州に居を構えたのかも!
そう考えればそうとしか考えられなくなるのが猫の欠点だった。もう頭の中は奥州の竜のことしかなくなっていた。しかし、いざ変化しようとして青年に言われたことを思い出す。猫臭い、との。
――あたし、このままの方がいいかもしれない。変化したら佐助さまに見つかってしまう。でも、妖化なら臭わないかな。
変化するときとは違う雰囲気をして、獣だった猫は、妖化した。
煤色の毛並みも、真黒の瞳も変わらない。だが、両耳は大きく立ち上がり、ひげがぴしりと伸びた姿は美しい。体格も随分大きく、人の子ほどはあろうか。加えて、尾は三本。
妖になるのに時を要したせいか、尾が二本の猫又とは少々趣を異にしていた。ひたり、と三本の尾で地面を叩き、青年達の居る方角へ向って一度頭を下げてナァ、と鳴く。
――佐助さま。ありがとう。
妖猫は、風脈に乗って駆けて行った。
あれから、十日。毎朝見つかったかと訊ねてくる主に、見つかりっこないでしょと忍が応じる日々が続いた。
日も暮れかけの頃、湯を浴びて夕食に向かう若者についた青年、二人して廊下を歩いていた。これが日常なのだ。
「もう諦めてくださいよ、旦那。俺様任務も被ってもう寝不足」
くたびれた声を出す青年の目の下が、千歳緑の色とは別に、くっきりと薄黒く染まっていた。それを見た若武者は何も言えなくなったのか、すまぬ、と俯いて呟いた。
「諦めよう。妖はひとところに留まらぬもの、そうでないものは何処かのヌシであるか力の強いもの、とお館様にもお聞きした」
「大将に話しちゃったの!?」
丸まっていた背を伸ばして大仰に驚いた青年に後退りながら、若者は焦りをみせる。彼が敬愛する師は、悩んでいることなどすぐに見破ってしまうのだ。
「いや、あの事は話しておらぬ。妖とはなんでござろうか、と聞いただけだが」
「あーらら……、大将の事だから絶対感付いてるぜ。俺様は知らないよ」
主を庇う気もない忍に、若者は更に焦る。
「元はといえば佐助が……!」
と、そこへ忍隊の忍が一人庭先に現われて、奉げるように一枚の竹片を差し出した。
「文頭に長の名がありました。真田様と思しき名も。届けてきたのは独眼竜が忍にございます。敵意はないもの、と。いかがなさいましょう」
疲れに笑っていた青年の顔が、忍になった。若武者も気を張っている。
「俺が受け取る。相手方にこちらから返答を遣す旨伝えろ。内容次第ではどうなるか、だがな」
「了解しました」
忍はすぐに去り、後に残ったのは青年の手の中にある竹の破片。紙も充分に普及している今時、こんなものに文字を書くのは型破りな独眼竜か、あるいは。同じことを思ったのか、若武者はいつもの部屋ではなく、人払いをせよと命じて自室へと向かって行った。
すたん、と障子を閉めた音がやけに響き、かわらけに点る灯りがぼう、と揺れた。
「佐助、読めるか」
「読めますって。人の言葉で書いてあるんだから。えーと……、『佐助さま、申し訳ありません。助けてください。竜は人でした。あたしは炎の若武者さまに謝らないといけません。でも、竜さまが離してくれません。面白いものを見つけた、と喜んであたしと毎日遊ばれております。竜さまはいい人ですけど、あたしはどうしてか毎日お腹が痛いのです。他に頼める人がいないので佐助さまにお願いします。助けてください。』。独眼竜の旦那にバレてるよあの猫!」
「伊達殿に!?」
酷く弱った文字が、あの娘の状況を表しているかのようで、二人は奥州筆頭の所へ向かう事を即決した。
そんな二人を豪快に笑って送り出した甲斐の虎に、青年は一抹の不安を感じずにはいられなかった。
――大将、絶対判ってるな……!
だが、若者はそんな青年の内心など知らず、師と熱く拳を交わし、好敵手との再会に胸躍らせていたのだった。
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2008/09/27, 2010/01/10
2010/03/24 訂正
よしわたり