宴の支度は整った。
独眼竜が自ら好敵手たる虎の若子をもてなすと言い、それぞれの腹心だけを控えさせた簡素なものであるからと若い女が一人、御膳番として残されただけで、城主は他の者に退出を命じた。
奥州筆頭伊達政宗、その右目たる片倉小十郎。甲斐は武田の若武者真田幸村、その有能な忍たる猿飛佐助。そして、人に変化した妖猫の。政宗は彼らに視線を巡らせ、にいと口端を上げてを促す。す、と頭を垂れたは甕から瓶子に移し、各人の酒杯に注いでいく。四人の杯が満たされたところで、政宗はからりと笑う。
「奥州の山海の幸を贅沢に使わせた。米も数櫃はある、酒も大甕で用意した。遠慮なくやってくれ」
各々の杯が掲げられ、一口に飲み干されて小さな、けれども賑やかな宴は始まった。
主に政宗と幸村が飲んで食べて騒いで暴れて、がお櫃や椀を持って座敷を幾度となく往復し、傍観に徹した二人の従者は黙々と主の醜態を眺めるだけ。内心どう思っているのかは、当人のみの知るところ。
酒に機嫌を良くした幸村が突然、の前にどかりと座り込み、がばりと頭を下げた。
「猫ど、……失礼。殿。先日は某が取り乱してしまい、まことに申し訳ござらぬ。この幸村、未熟であるがゆえにそなたを怯えさせてしまった事、深くお詫び申し上げる。某の無礼、お許しいただけようか?」
飛び上がるように驚いたはきょろきょろと助けを求めるように政宗と小十郎、それに佐助を見るも、誰一人として救いの手を差し伸べる気配はない。慌てて幸村の前で畏まる。
「どうぞ頭を上げてください、真田さま! 謝らなければいけないのはあたしの方です!」
「どういうことでござろうか?」
顔を上げた幸村に、今度はが頭を下げる。
「……妖のあたしに初めて話し掛けてくださったのが佐助さまだったから、あたし嬉しくて。真田さまが妖をお嫌いなんだと知らずに無礼をしたのはこちらです。申し訳ありませんでした」
ぱちぱちと瞬いてを見た幸村は、不可解そうだった。
「某、そのような事を言った覚えはござらぬが……」
それにまた、がよくわからないという表情をする。
「だって、佐助さまのところで槍を向けられたから……」
「そ、それは……!」
「それは?」
酒のせいだけではなく赤くなる幸村は言葉をなくしてぱくぱくと喘ぐだけ。
「旦那の勘違い。ちゃんが俺様とイイコトしたと思ったの、旦那は」
そんな二人の様子を見かねて、呆れた佐助が助け船を出した。佐助ェ! と幸村が怒鳴る。幸村の大声にくらりとしつつも、は訊ねる。
「いいこと?」
「そ。イイコト」
を見てにんまりと笑う佐助に、Shut up! と政宗が叫ぶ。その独眼は据わっている。
「余計な事を言うんじゃねェ!」
「はいはい」
肩を竦めた佐助と酒を呷る政宗の間に、ピンとした空気が張り詰める。こそりとは小十郎に近寄って小声で問うた。
「いいことって、なんですか?」
「……オメェは知らなくていい」
片手で腹を押さえた小十郎は、ひどく疲れたように言うのだった。
しばらくしてから、幸村は鼾を掻いて寝こけてしまい、佐助がぶつぶつと文句を言いながら幸村を引きずるようにして背負って与えられた部屋へ向かった。旦那もいろいろ思うところあったんでしょ、と意味深な言葉をに残し、政宗にはすいませんねえ、とにやつきながら謝っていた。チ、と舌打ちする政宗に、と小十郎は顔を見合わせて首を傾げた。
「あいつらも下がったことだ、knock off としようぜ」
酒杯を膳に置き、いつもより少し赤らんだ顔を小十郎に向けて政宗は言う。小十郎が立ち上がり、女中を呼びにいこうとするのには宴会を終えるつもりなのだと意味を悟る。
――言うなら今しかない。
「政宗さま、片倉さま」
の口から、りん、とした声が出た。
「Ah?」
「どうした」
「お話が、あるのです」
「今じゃなけりゃいけねえのか?」
もう夜晩く、宴席の片付けもさせなければならないと小十郎はあまりいい顔をしなかった。が、政宗は楽しげに眉を上げる。
「いいぜ。何だ?」
「政宗様」
「小十郎、こいつの目を見てやれ」
「どういうことです?」
厳しい視線がに刺さる。はきゅっと身を縮こまらせたいのをこらえるように膝の上で拳を握り、きちんと女中のようにして座っている。黒目がちで大きな両目がしっかり小十郎を見ていた。溜息が一つ。くつりと喉で笑った政宗が問う。
「で?」
が一礼した。しゃら、と軽い音がする。
「あたしは妖です。これまでを御所で生きてきました。最初のあるじさまにおはべり申しましたのはあたしがとっても子供だった頃です。それから、あるじさまは何十回も変わりました。長く生きたあたしが妖になって、変化もできるようになって、その時々のあるじさまは大層喜んでくださいました。でも、あたしが妖になって生き続けていることはあるじさまとあたしだけの隠し事でした。猫の姿でなら人前に出られましたが、妖や人の姿はあるじさま以外、決して見せてはいけないものでした」
は言葉を切る。政宗と小十郎は目線を動かすだけで何かを得心したようだった。
「だが、その姿を、見た奴がいるんだな?」
静かな政宗の問い掛けに、はこくりと頷いた。
「……はい。御所が破られた時です。火が付けられて、大変な混乱になっていました。あるじさまはあたしに猫になって逃げるようにのたまわれましたけど、あたしはあるじさまを守りたかったんです。少しだけなら陰陽道の術も使えるから、お役に立てると思いました。……でも、とても敵わなかった。あたしは斬られて、あるじさまは弑されました」
「松永、久秀……」
「まつなが、ひさひで?」
小十郎が忌々しげに呟いた名前を、は繰り返す。知らなかったのか、と小十郎は逆に驚いたようだった。
「御所に攻め入り、お前と、……『あるじさま』を斬った男だ。俺達伊達軍も少し奴には因縁があってな」
敢えての言葉を使った小十郎に、政宗がくつりと喉を鳴らした。
「Don't worry, 小十郎。は御門の飼い猫だった。道理でちッとズレてるわけだ」
「政宗様!」
諫める声も気にせずに政宗は続ける。隻眼がを射抜く。
「、飼主の仇は判ったぜ? ――お前はどうする」
「あたしは、政宗さまや片倉さまのように戦えないのです。仇を取ろうとは思いません」
「Good. 賢明だ」
政宗の表情が微かに和らぐ。小十郎は相変わらずだったが。も、ほんの少し口許を緩めた。
「御所の外へ出てからは、ずっと初めてのことばかりでした」
いろいろありました、と遠くへ思いを馳せるの様子に、二人は同じ事を考える。離別を告げるつもりだ、と。
「真田さまと佐助さまにご挨拶をしないまま去ってしまうのは寂しいのですが、今がその時だと思ったんです。――あたしは妖です。このままここにはいられません。政宗さま、ここを離れることをお許しくださいますか?」
真っ直ぐに政宗を見るに、隻眼が細まる。
「いいぜ」
それを受けて小十郎。
「あいつらの事なんざ気にすんな。オメェの思うままにやればいい」
「でも、片倉さまはきちんと伝えてくださるんでしょう?」
「You're just clever! Piece of cake for him!」
苦い顔をする小十郎。声を上げて政宗が笑う。も微笑み、それからきりりと表情を引き締めて深々と礼をした。真黒の瞳が僅かに揺れている。
「政宗さま、本当にありがとうございました。あたしの身勝手をお聞き入れくださって、感謝します」
「Ha! 堅苦しい挨拶はナシだ。今生の別れじゃねェ」
「……はい」
俯き加減のの頭を撫でると、政宗は少し考えてから簪を抜き取った。ばらりと落ちる髪をわたわたとまとめるに悪どい笑みを浮かべながら三本の簪を見せる。そのうちの一本をに差し出して、やる、と言った。
「ありがとうございます」
ぱっと笑顔になったは簪を見つめる。青い玉をあしらった銀の簪。小さな短冊状の飾りには精巧に竜の文様が描かれていて、よほど手の込んだものだとみえた。
「あたしには勿体ないくらい綺麗な簪です」
返してもどうせ政宗に無理やり持たされるのだと判っているは、器用にその簪で髪を留めた。しゃら、と玲瓏な音。宴の前に政宗が髪に挿したものはこれだったのだと、は瞬いた。
「政宗さま……」
小さく息を吐いて政宗は苦笑する。
「てめぇも見てきただろ? 人同士でさえ争ってるっていうのに妖と人が共存するのは難しいんだ」
そして、にい、と口端を上げた。
「まだ、な」
「まだ」
「いつかオレが天下を統一して、太平の世になったらそれも可能にしてやるよ。何十年か経ったらまたここへ来い。それから、オレの子や孫の相手をしてやってくれ。……その簪、大事にしろよ」
「……はい!」
政宗の言葉にしっかりと頷いて、は笑った。
美しい所作で立ち上がったがするりと妖の姿になった。三本の尾を持つ、滑らかな煤色の毛をした大きな妖猫。簪はどうなっているのか、片耳を飾っている。
「Coolじゃねェか」
にやりと笑む政宗に、頷く小十郎。それぞれの足許をぐるりと回ってから、はナァ、と鳴いた。
「達者でな」
「精々長生きするこった」
「お二人も、どうぞお元気で」
一声残し、妖は身軽に庭へ下りた。塀へ飛び乗ってちらりと振り返ると、その姿はすぐに塀の向こうへ消えた。
残された二人はただ苦笑するのみ。
「いつの間にあれほどまでに成長していたのでしょうな」
「さァな。だが、は妖だから何の不思議もねェだろ? オレは寝る。後は頼んだぜ、小十郎」
「は」
くつくつと笑いながら政宗は飼猫のいなくなった寝室へと戻る。小十郎はその胸中を察してか、政宗の背へ短い返事をするだけだった。
風の音に混じって、しゃら、と簪の鳴る音がした。
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2010/03/23
2010/03/24 訂正
よしわたり