三日経ち。煤色の猫は、鞠にされかけて必死に逃げていた。
「、Stop! なにも本気で蹴ろうと思って言ったわけじゃねェ!」
「ほーらこっちに来な、またたびの術ー」
「猫とはかくもすばしこいものか! うおおおお! 捕まえてみせるぅ!」
蒼、緑、紅がそれぞれに特徴的な衣服を着た男達の手から。
「だから待てってんだろうが!」
「またたびのじゅつー」
「猫殿、待たれよ! 某がおあいてぇ、たのむぁあ!」
見事に連携の取れていない三者三様の手から逃れに逃れ、煤猫が悲鳴を上げながら転がり飛び込んだのは、庭の池。水が嫌いなはずの猫が潔くも、どぼん。
「おい! ! おい!」
「またたびー」
「ね、猫が自ら水に飛び込むとは……! それほどまでに怯えていたのか! 伊達殿に」
「真田幸村、そこでどうしてオレの名が挙がるんだ」
「いや、飼い主は伊達殿ではござらぬか」
「いや、追いかけてたのはてめェも同じだろうが」
「またたびー」
「佐助はいい加減しつこいぞ。本当にそれは猫が寄ってくるというまたたびの粉か?」
「いいじゃん、旦那。嘘から出た真ってあるでしょ」
「Shit! バカどもにつられるところだったぜ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎはするものの、誰も池に手を突っ込んでまで追いかけようとはしない。政宗と幸村が仕様のないことで言い争いをしている隙に、池が大きすぎてどぼんと身投げをしたの姿を見失ってしまったというのもある。佐助は元から追う気がそれほどない。からかいに混じっていただけだ。
庭の池に向かって呼びかけている二人と、それを見ている一人から遠く離れた濡れ縁で、べしゃりと何かが音を立てた。人が池から上がってきたのだ。見ようによっては気味が悪い。
「Ah?」
「うわ、水浸し泥まみれ」
「人ではないか! 大丈夫か、そなた!」
一番にそこへ駆け寄ったのは幸村。頭から水にぐっしょりと濡れ、泥や水草を髪や衣服にべっとりと纏わせていた人を助け起こす。がほがほと大量の水を飲んでしまったかのように苦しむ背を擦りながら、顔の泥を自分の着物の袖で拭ってやっている。
「旦那面倒見よすぎてどうしちゃったの?」
「猿飛、あれは真田に任せてを捜すのを手伝え」
幸村を遠くに見ながら、佐助と政宗は各々好き勝手な事を言う。
「溺れていたのか? 呼吸はできるな?」
弱く肯いたその者は池の水の匂いが濃く、少々生臭い。げぼ、と最後に泥を吐いて、なんとか落ち着いたようだった。口内が気持ち悪いのかしきりに口をぱくぱくとさせている。
「……ありがと、ございました。……真田さま」
「某を知っておられるのか」
だが、幸村はこの娘に見覚えがない。娘は黒々とした目を瞬かせて幸村を見ている。
「知っております、真田さま。先ほどまで全力で追われていたではありませんか。あたしが、猫の妖、です。このような姿で再びお目にかかろうとは。あの、先日はあたしが大層失礼な事をしてしまい、真田さまのご機嫌を損ねました事、誠に申し訳ございませぬ」
このような姿で、と言いながらが深く頭を下げる。幸村はもはやそれどころではなかった。
「ね、ね、ね、ね、ね、ね、ね、…………!」
「ね?」
「猫ォ!?」
素っ頓狂な幸村の叫び声にがぎぃんと響いた耳を両手で押さえていた。遅かったが。それに反応したのは、遠くで未だ見付からない猫を両手に猫じゃらし姿でうろうろ探していた二人だった。
「Cat!? か!」
「えー、全然そんな臭いしないけど」
「臭い?」
「そ、臭い。成長するんだねー、やっぱり」
しみじみと腕を組んで頷く佐助。ひとつ咆えた政宗は猫じゃらしを捨てて、ずぶ濡れで畏まっていると情けなくも腰を抜かした幸村の許へ走って行った。
大騒ぎを起こした後、濡れ鼠状態のままのを脇に抱えて走っていた城主がまず見咎められ、芋蔓方式にへらりと笑う忍と卒倒寸前の若武者が発見されて全員が小十郎に連行されることとなった。――現状、は掛け布や綿入れが何枚も巻かれて顔しか出ていないみの虫状態で、一列に並ばされた城主以下二名と相対するように座った片倉小十郎の影にひそりと置かれている有様。
這うように低い声が、竜の右目から発せられる。まず向けられたのはその、竜。
「三人で寄って集ってを捕まえて頭から池に突っ込むという拷問に掛けたのですか、これは」
「No. 小十郎、先に湯を沸かせ」
「今沸かさせているところです。政宗様、三度も同じ事で話を逸らさぬよう。それで、真田殿が助けてくれたのですな」
次に着物と顔を少々汚した、兵。
「某は、何も……! 大きな魚でも取ろうとした者が溺れたのかと思い助けに走っただけでござる」
「旦那、はいかいいえだけで答えて」
「はい!」
最後に一人事なかれを貫く姿勢満々の、忍。
「猿飛、なぜ政宗様を止めなかった」
「猫捜せ、っていうから付き合っただけですってば、俺は。無理強いもしてなければ悪乗りもしてませんよ。ま、人を助けなかったのは悪く思うかもしれませんけど、どこかの誰かに猫が出てくるもん出せなんて無茶を言われて困惑してたんでね」
そして、向けられる水は元へ戻る。
「……政宗様、何をしておられるのですか。今朝回復したばかりのを摘まみ出したと聞いて来てみればこの惨状。、政宗様は確かに蹴るとおっしゃったのだな?」
「言いました。鞠遊びしよう、と言って、あたしをちょんと爪先で蹴りました」
「Joke だ、ほんの戯れだ、なにも本気で言ったわけじゃねェ」
「病み上がりにいきなり連れ出されて、真田さまと佐助さまのお二人の前にぶら下げられて、それから鞠遊びなんて聞いたら。三人であたしを蹴るのかと思います」
圧倒的に優勢の大きな体の影ということもあってか、はがっちりと動けなくなった体をさらに小さくしてぼそぼそと小十郎に訴えかけた。余程恐ろしい思いをしたらしいと、推察して哀れんだ男の怒りは極殺に達し、ばちばちと男の周囲が帯電し始めた。
はびくびくしつつも、それは決して自分に向けられないと予想して煽ったのだ。飼い主の影響でいらぬ知恵をつけたと、内心溜息を落とした者二名。
「どういうことだ、。事実か? ――政宗様、真田殿、猿飛」
「ホント」
「うむ。まことにござる」
「く、悔しいが否定できねェ……!」
四対一。政宗と共に悪乗りをしていた幸村はを救った事で免罪符を手に入れ、佐助はのらりくらりと自分の被害を最小限に抑えるだけ。
じっとりと恨みがましい視線と、肌を焼くほどの雷撃と、二人分の憐憫と侮蔑の入り混じった同情を受けて政宗は、――最終的に城主たる己の頭を畳に付けざるを得なくなったのだった。己の飼い猫に対して。
それに対して吹き出した幸村と佐助に、苦笑する小十郎も巻き込んでまた一波乱。罵り合いが熱を増し、あわや取っ組み合いになろうかとして、が政宗さま、と咎めるように言った。お前は誰の肩を持つんだ、と息を切らせた政宗に問われたところで、湯の用意が整いました、と女中が告げに来て、さっさとは逃げ出した。
「知恵付けやがって……」
そしてまた、元へ戻る。
その後、湯を使い人の姿で出てきたは、年若い町娘のようにお仕着せされていた。髪を結い上げ簪を挿し、猫の面影を残すくるりと丸く大きな目が印象的な顔、藍地に白の絞り染めを散らせた着物には淡黄の帯、そして煤色の帯紐。
合わないか、と思われたのは帯紐の色。だが、それだけはの色だとて政宗が譲らなかった。
「Good. 上出来だ」
一番にの姿を見た政宗が隻眼を細めて喜んだ。はにかむようにが俯くと、政宗はぐしゃりと頭を撫でる代わりにこぼれ落ちた髪をくるりと巻き上げて何かで留め、軽く笑った。
「政宗さま?」
「なんでもねェ。行くぞ、小十郎が待ってる。それに真田幸村と猿飛佐助もな」
はい、と頷いて微笑む姿は人そのもの。これが猫だと、誰が言えるだろう。先を歩く政宗の後を、しっかりと躾けられた姿でついて歩いて行く。しゃら、と軽い音が鳴った。
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2008/09/28, 2010/01/10
2010/03/24 訂正
よしわたり