「姫さま、お市さま」
初夏の日中だというのに、どこか薄暗さを感じさせる奥の間へ声を掛ける。ややあって「……なあに?」とあった返答はいつものお市のもので、は安堵の息を吐いた。
「失礼しても?」
「……ええ」
お市の声はいつも細くて頼りない。それから感情の起伏を知ることは難しかったが、果敢に続けたお節介ともいえる世話焼きのおかげで、は今の一言でお市が嫌がっていないことさえ判るようになった。こっそりと頬笑みを隠して障子を引く。
「どうしたの、……」
「初物の桃を持ってまいりました。井戸で冷やしておきましたから、お召し上がりになりませんか? 殿もお呼びいたしましょう。一時ほどなら殿とてそう目くじらを立てることもございませんでしょう」
「……長政さまは、お忙しいのじゃないかしら」
「いいえ、そんなことは――」
お市がみどりの黒髪を揺らして睫毛を伏せる姿は女のさえも魅了する。ほんに美しい姫さまだとほうっと溜息を吐く。お市が「?」と小首を傾げているのにはっとして照れ笑いにごまかしながら言葉を継ぐ。
「お市さまがお誘いになれば殿はお喜びになりますよ。それに、初物はまずお二人で召し上がっていただきたいと、皆がそう思うております」
「そう、なの……?」
「ええ、もちろん。近江の民は皆、お二人がお好きですから」
それには少し嘘があった。
城の者は城主たる長政に仕えるのが職務。好き嫌いを言える立場にはない。
そして、長政の奥方たるお市の魔性の美は多くの者を惹きつける。良きも悪しきも。特にお市は魔王の妹として生まれ落ちたこと、それを嘆き、死の匂いをすぐ傍に漂わせている、その危うい立場や美しさが人を惑わすのだという声も聞く。気味が悪いと出来る限り近寄らずに済ませようとする者共は少なからずいる。
だが、はお市も長政も好ましいと思い、自らお市の側に仕える事を志願した。そして、毎日あれこれと世話を焼いて見えてきた姿があった。お市は、自分を責めて何もかもを諦め罪を追い続ける一方で、長政を慕う人らしい感情がある娘なのだ。長政は少々融通のきかないところがあるため、お市に冷たくしているように見えるが、内心はとてもお市を思っている。それが、他者にはあまり見てとれないだけ。
お市は戦に望んで出ているわけではない、とは知っている。戦場の気に中てられて魔王の妹らしき側面が覗くことがあったとしても、それを悔いる姿は幾度見たことだろう。誰にも、長政にも気付かれぬよう、声を殺し涙を流さずに泣いていた。長い間お市の側にいて、障子越しにようやくはお市の声を聞くことができたときはどれほど嬉しかっただろうか。
うっすらと微笑を浮かべたお市は、の言葉を曖昧に転がした。
「そう、だと、いい……ね」
「私はその一人でございますよ。さ、殿を呼びにまいりましょう?」
力強く頷いたはお市を促して立ち上がった。
ほどよく冷えた桃を、小刀で剥いていく。柔らかな果実は少し力加減を過つだけで崩れてしまいそうである。細心の注意を払いながらしゅるりしゅるりと紅赤の皮を剥けば、淡白い果肉が顔を出す。
ぽたり、と桶に落ちる滴。
「……いい、匂い」
「ああ」
ほんの少しだけ口許に微笑を刷いたお市に長政が相槌を打つ。それきり言葉はなくとも、二人の空気が穏やかなことが伝わってきても嬉しくなる。白磁の皿に、食べやすい大きさに切り分けた桃を載せる。甘い匂いのする両手を手桶で洗い、水気を拭き取ってから、器に楊枝を添えて二人の前へ差し出した。
「どうぞ、お召し上がりください」
「ありがとう、……。……長政さま」
へ礼を言い、お市は長政の衣服の袖をつ、と引く。夫を立てる妻らしい仕草に赤くなったり青くなったりしながら長政は楊枝に手を伸ばした。
「い、いただこう」
味わうように咀嚼した長政は、無言でお市に皿を寄越す。目礼して、お市が一口食べる。二人分の感想をに伝えるようにお市は嘆息した。
「……おいしい」
「それはようございました。まだありますのでたくさんお召し上がりくださいね」
次の桃に小刀を入れ始めたに、長政が眉を寄せる。
「一介の腰元風情が、初物を手に入れるだけの財があるのか?」
は手を止めて苦笑する。
「私は百姓の出でございますから。私がお市さまにお仕えしていると知った親が、誰よりも早く作物を収穫しては送ってくるのです。『お殿さまとお姫さまに召しあがってもらうように』と言伝を忘れずに」
「そうだったの……?」
「はい。ですがお二人の御食事はきちんとした手順を踏まえて作られ、毒見もなされるでしょう? ……だから、秘密にしておいてくださいね? 特に殿?」
つまり、二人が今食べている桃はがこっそり持ち込んだものなのだ。それを聞いた長政がばっと立ち上がって息も荒くを指差す。
「なんという悪! 即刻削除する!」
「もう食べられましたから、殿も同罪にございます」
「長政さま……の言うとおりよ……」
微笑む女二人に反論する言葉もなく。「くっ」だの「何を」だのと唸る長政も、観念したのかどさりと座ると桃を食べた。
「……まだあるのだろう。市も食べ足りぬようだ、三つ数える間に剥くのだ」
「……長政さま、素直じゃない」
「う、うるさい市!」
二人のやり取りを頬笑ましく見ながら、は桃を剥く手を再開させた。
その夜、湯殿に付き従ったは物言いたげなお市に「どうしました?」と声を掛けた。白く滑らかな肌が温まってほんのりと赤く、お市も人であることがはっきりと判る。そしてまた、安堵する。
「は……、百姓だったのね……」
思わぬ言葉に目を見開く。
「そうですが、口にしたことがございませんでしたか。紆余曲折、色々ありましたが、姫さまの御側にこうしてお仕えできて、は幸せです」
百姓が城に上がる、さらには奥方の側に仕えるということは決して認められるものではない。身上を偽り、ない頭を捻って策を弄し、ようやく辿り着いたこの立場を誰にも譲る気はなかった。お市から信頼され、長政にあれこれ言われながらも認められる以上に幸せなことが、には考えられない。
「大袈裟よ……」
困惑するような視線を遣すお市には言い切る。
「殿の次にお市さまをお慕いしているのはこのでございますから」
「ふふ……市、嬉しい」
「光栄でございます。さ、御身体をお拭きしましょう」
結んだ髪からこぼれた一房が濡れた項に垂れて、目も眩むばかり。やはり、お市は、どの女よりも美しい。
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2010/07/10
2011/04/11 訂正
よしわたり