「梔子に蕾がつき始めた。明日には城下へ届ける」と文が来たのが昨日。いつも早朝に村で一番足の速い者が荷を持ってくる。それを受け取りに、まだ暗いうちからは警備の兵の目をかいくぐって町へ下りた。
 夜を徹して走ってきた男と町外れで落ち合うと荷を受け取り、働いて貯えた銭を渡す。もちろん親への仕送りだが、幾許かはこの男にも握らせる。文も託して男と別れるとすぐに帰路へついた。ひと抱えはあろうかという切り花を抱え直して城への道を足早に行く。梔子の花は甘い香りを漂わせ、お市の心を和ませてくれるに違いない。自然、の顔は緩んでいた。
 明けきらない朝の空気は澄んでいて、鳥獣の鳴き声も良く通る。獣に遭遇しないうちに城へ辿り着かねば、と気が急いて見逃したのか、それとも。搦め手門を通って人気のない城内を歩いている最中だった。――は、殺気に敏感な戦人ではない。
「う、あああっ!」
 背後から強い力で押されて、呻く間もなくは地面に突っ伏した。抱えていた梔子の花は無残に散らばって一帯に独特の香りを充満させる。
 と、背に重みが増した。
「不用心ね。正室の側付きが独りで出歩くなんて」
 不意に掛けられた女の声はきゃらきゃらと笑い交じり。は呼吸の苦しいのも忘れて、仰け反って相手を見ようとした。
「何者、です……!」
「わたし? よ、よろしくね」
は私です! はぐらかさずにお答えなさい!」
 相手のからかうような態度にが怒鳴る。だが、女はを押さえ込んだまま笑うばかり。
「だからー、今からわたしがあなたなの。浅井が厄介だなんて誰が言いふらしたのかしら。こんなにあっさり終わっちゃった」


 ごり、と嫌な音がした。途端に走る激痛。体がびくんと跳ねた。視界に映ったのは赤い色をした梔子の花。視線をずらせば、に馬乗りになった女が血のついた手を嫌そうに振っている。の視線に「ああ」と女は口端を上げた。
「喉、潰したのよ。苦しんで死んでもらわないとね」
 あまりの痛みに感覚が麻痺しているのかと思うほど。浅い呼吸に血が混じって噎せる。忍とは斯くも容易く人を殺せるものなのか。それとも戦人は皆、このような苦しみを味わわないために勝たねばならぬのか。は激痛と熱に喘ぎながら、頭の奥底で場違いな考えごとをしていた。
「仕上げね」
 の顔に何か冷たいものが垂れてきた。次の瞬間、先とは違う猛烈な痛みがを襲った。声を荒げようにも喉は潰されている。痛い痛いと顔を触ってようやく、焼かれているのだと気付いた。熱い、痛い、痒い、苦しい。
 くすくすくすと遠くに嘲笑うのが聞こえてきた。
「アンタの顔と声、もらっていくわね」
 焼け爛れている己が顔を掻き毟り、声の出なくなった喉で叫び、身を焼く火を地面に叩き付けて消そうとはもがく。それをまるで愉しむかのように笑う声は他人の口から出ている、のもの。怖気がした。
「あまり長居はしていられないの。恨むなら敵の多い魔王の妹の側に仕えながら碌に警戒もしていなかった己を恨みなさいな」
 「さよなら」と女はの声で告げる。がむしゃらにもがき、最期の抵抗を試みようとした。

「……あなた、誰? 何をしているの……?」
 荒れていた水面が一瞬にして凍るようなお市の声。は目を剥く。「この場にいてはなりません、に身を変えた何者かに御身を狙われているのです」と、出ない言葉がもどかしい。のた打ち回るだったものを余所に、である者は殊更に明るい声を上げる。
「姫さま! 何者かが城に侵入しようとしてたので取り押さえていたところでございます。姫さまに危険があるやもしれません、お下がりになってくださいませ」
……?」
「見てはなりません。術に失敗した忍か何かでございましょう。今、兵を呼ばせます」
「あなた、……ひどいことするのね」
「姫さま!?」
 目は見えない。耳も確かではない。ただ、誰かがの傍に腰を下ろし、酷く焼かれ爛れてしまった顔を嫌がるふうでもなく撫ぜてきたのが判った。――そして、取り乱す女の声。お市はこの、醜く死そうとしているものを死へと導くために現れたのだろうか。
 その黒く美しい眼には長政や近江の地を映し、その白い手は血濡れることなく、ぬばたまの黒髪は戦場に舞わず、細い体を包むのは鎧ではなく。そして兄や亡者に自責の念にかられて謝らずに。少しでもそうであって欲しいと願い仕えてきたにとって、お市が闇に呑まれていくのを、目にすることはないとはいえ――感じるのは、悲しさよりも絶望に近かった。こうしてまた、お市は一つ罪を背負う。名もなき罪を。
「かわいそう……。顔を焼かれたのね……喉も潰されて……。ごめんなさい、市のせいで……」
 絶えず痛みに引きつる皮膚の表面に、チリリと走る鋭い痛み。「ごめんなさい、……」。それが何かを理解する前にお市が囁いた。
「全部市のせい……ね。……側にいてくれて、ありがとう。市、あなたのおかげで幸せだった……。長政さまも、きっとそうだったと思うわ……」
 体がずぶりと何かに沈み込むような感覚。じわじわと侵食されて意識は急激に黒くなっていく。
 ――だから、市が楽にしてあげる……。
 それが、最期にへ届いた言葉だった。




 お市の周りを取り囲んでいた黒い手が引いていくと、そこにの姿はなかった。
「……あなたがを苦しめた、人……?」
「ひい、っ……!」
 ゆらりと白い顔がに成り変わった女に向けられる。逃げ出そうとする足がその場に縫い付けられたように動かない。お市が腕を大儀げに持ち上げるのに従うように、ずずず、とお市の影からゆっくり伸びてくる黒い何か。もはや、女に逃げ道はなかった。
「甘い香り……梔子ね……。はきっと、市のためにこれを持ってきていたんだわ……」
 地に散らばり、鮮血の飛んだ梔子の一枝をそっと取り上げたお市はうっとりと瞼を伏せる。長い睫毛が上げられた時、その瞳には漆黒の闇が渦巻いていた。
「さよなら」
 黒い手に捕らわれた女に花の綻ぶような微笑を浮かべて、お市は仰向けた掌をゆっくりと握り潰した。


 長政がお市を見つけた時、既に日暮れに近かった。搦め手門に近い座敷の隅でぼんやりと物思いに耽っている。それは比較的常のことなのだが、いつもは側にいるはずの女が見当たらない。役に立たぬ女め、悪だ。内心で舌打ちをした長政はお市に声を掛けた。
「市、いつまでもそのような場所で座っているな。部屋に戻れ」
「ごめんなさい、長政さま……」
「わ、判ればいい」
 ぎくしゃくと答える長政に、最近はかすかながら微笑むこともあったお市。ふらりふらりと足許覚束無く去って行こうとする姿に長政が違和を感じないはずはなかった。肩を掴み、顔を上げさせる。その、ぞっとするほど白い顔は、青褪めてさえいた。
「どうした、市! なにがあった!」
 一度長政を見、すぐに伏せられた瞳。そこに湛えられていた深い悲しみを見抜けぬほど、長政も愚かではない。だが、お市は小さく首を横にする。
「なんでもない……」
「何もなくてそのような病人のような顔にはならん! この長政にも言えぬことか……?」
「これは市のせいだから……」
 頑なに拒むお市に悔しげに眉を寄せると、長政は先に立って歩き出す。無言で従うお市を窺いながら聞えよがしに独り言を口にする。
「私に言えぬことならば、あの女に言うのだ。あれは貴様のことを親身に思っている。それがこういう時にいなくてどうする……、悪だな!」
「……はきっともう、休んでいるから……。誰か他の、……市を嫌いな人に変えて」
「な、どういうことだ!」
 お市の言葉に長政が振り向く。俯いたままのお市は、ふふふ、と静かに笑う。
「次は、いなくならない人がいいわ……」
 ゆっくりと長政を見上げて微笑んだお市の頬は、濡れていた。









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2010/07/10
2011/04/12 訂正
お市のキャラがあれなので、とことん救いのない話にしたかったんですが巧くいかないものです。浅井備前守(ryの出番が少ないのはキャラを掴み切れていないせい。
補足は別項にて。
よしわたり


補足



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