熱は少し下がり、が意識を取り戻した。しかし体を動かせるほどに熱は低くなく、喉が渇いて汗も止まらない。つきっきりで看病をする女官が忙しなく動いている。額や喉に乗せてある手巾が温かくなれば水に浸けて絞って乗せ直す。汗をよくかく部分は時々拭き取り、が水を望めば体を起こし、一度沸かして冷ましたものを飲ませてやる。寒いと言えば掛け布を増やして、暑いと言えば冷えた手巾に取り換える。かいがいしく動く彼女たちには自分の症状を訊ねて、そして医人から話を聞いた。
他者への感染の恐れはないこと、熱はしばらくすれば引くが数日おきにぶり返すこと、そのため当分はここで安静にしておかなければならないことを告げられた。熱が引いても完全には治ったとはいえないので、様子見も含めて投薬をしながら一月は半病人の扱いになることも。
さらに、その間はは休暇とし、陸遜の護衛は別の者を配備することが決まったと伝えられて、彼女は驚いた。護衛しかしていない兵卒にしては破格の待遇である、と。おおよそこういう重症の場合には一度任を解き、復帰の見通しが立って本人が望めば再び職を与えられるものだ。
の処遇を取り図ったのは、初めに官に任じたのと同じく周瑜だという。大都督には本当に頭が上がらなくなってしまった、とは熱の苦しみの中で嬉しそうに笑った。
倒れてしまった時よりも随分熱が引いて、冷ました水粥を喉へ流し込んでいる時だった。急に外が騒がしくなり、にとって聞きなれた声がひどく興奮気味に何事かを叫んで、女官の止めるのも振り払って、――が聞きなれた声の主――陸遜、が飛び込んできた。
「!」
散々走って叫んだせいで、ぜいぜいと息が荒い。は片手に碗を、もう一方に匙を持ったまま、ぽかんと陸遜を見上げていた。
「よかった、いた……」
ほっと安堵の息を吐いて膝をついた陸遜に、が低く声を上げる。
「面会は断っていたはずだよ」
「なぜですか。熱は引いたのでしょう?」
「目の前で倒れた護衛の寝所へ、息せき切って走ってくるような主だとは思わなかった」
「どうしてもに会わなければいけなかったのです」
「知らないね。仕事があるはずだろう、私よりも重要な」
会話をしているのに微妙に噛み合っていない。話を切り上げようとしたの腕を掴んで、陸遜は袖を捲った。
「何をする」
の声が一層低くなる。騒いだのは女官だった。病床にある女の衣服を捲るなど、男のすることではない。だが、彼女らを一切無視して、陸遜はの肌に巻かれた白い布を見て俯き黙った。
「粥が食べられないから手を放してはくれないか」
しらを切ろうとでもしたのか、どこかずれたの問いかけに、陸遜はぱっと顔を上げて彼女を睨みつけた。
「これだけではない。満身創痍なのでしょう?」
「口の軽い医人がいるものだ」
自由な方の腕で碗と匙を女官に預けると、は陸遜を見もせずに溜息を吐いた。心配といらだちがない交ぜになって、陸遜がとうとうあらぬことを口走った。
「傷を見せなさい」
寝台に彼女を押しやると、汗を吸わせるだけの衫子を剥ぎ取りにかかる。今度こそ女官が叫び声を上げて必死で陸遜を止めに入った。
「いけません、将軍!」
「お気を確かに!」
なおも抵抗してを裸にさせようとする陸遜。薄布一枚脱がせてしまえば確かめることができる、彼女の護衛の証を知りたいだけなのだ。止められる理由がない。二人がかりで片腕を押さえられ、それでも片手でどうにか脱がせようとする。その様子に、がくつりと喉の奥で笑って彼の手を払いのけた。
「……いいさ、見せてあげよう」
だから退いてくれ、と言われてやっと陸遜は自分の行いを省み、飛びずさった。体をぶつけでもしたのか、女官が小さく悲鳴を上げる。
「すみませんでした……」
と、にも女官にも向けて呟くと、へたりこんだ。視線どころか、顔ごと逸らせて床をじっと見つめる。女官が手伝いながら掛け布を避け、体を起こし、するすると衣服を脱ぐ音がした。
「もういいよ。好きなだけ見ればいい」
迷いないの言葉に、陸遜は今更後悔を感じる。一つ喉を鳴らして、そっと寝台の方を見た。――そこにあったのは、全く傷のない背。
しばらく悩んでから、そっと声を掛けた。
「……?」
「これが、私の誇りだ。敵に背を向けたことはなく、主に叛意をもったこともない。護衛で生きてきた証跡がここにある」
衣服を胸の前で抱いているせいか、腕もほとんど見えない。さっきまで掴んでいた部分もなく、陸遜から見えるのは短く乱雑に項あたりで切られた黒髪と、白く美しい女の背。
「寒いからおしまいだ」
くすくすと笑うなかに恥じらいを匂わせたの背を、きつくきつく、かき抱いていた。まだ熱っぽい体は冷たい陸遜の指にびくりと驚いて、背骨に押し付けた頭に直接彼女の鼓動を響かせる。
――女官がいようと、声は聞こえない。私と、の、生きている音だけがする。
が頭を動かして二人の髪が触れあったところが、ざら、と音を立てた。
「こういうのは、よくない」
じかに伝わるの音、伝える陸遜の音。
「私の病は、もう助からない。貴方がいなければ」
「助かるさ。君のそれは一過性だよ。私が治癒を終えた頃には完治している」
「……貴方は命を賭けて私を護衛すると言いましたよね。私には力がなく、貴方を頼みにしないと満足に生きていけません。その礼は必ず返します。姓も名もない民がそれを持てるように、死に瀕する者が一人でも減るように、――貴方が幸せだと、嬉しいと笑う姿を見られるように」
は何も伝えてこない。静かに、心音を響かせるだけで陸遜の音を聞いている。
「孫呉が天下を統べるまで私の命は貴方に預けます。これから私がどれだけ戦場に立つかも、どこまで昇りつめられるかも判りません。必ず守ってください。そして、護衛が終わったら、」
言って、頭をずらすと陸遜は向けられていたの瞳を掬いあげ、しっかりと伝える。
「――貴方の命は私が貰う」
互いの瞳しか視界にはない。規則的に生を伝える振動、指が触れたところが熱い。くっつけた体が温かく、薬と墨の匂いが濃く鼻を衝く。
「君の……、いや、――あなたの好きにすればいい」
耳に届いたのは、初めて聞いたの、泣き笑いの声だった。
――命は天に在り。……けれど、の命は私のものだ。
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2008/06/20
よしわたり