が熱に倒れて、彼女は陸遜から離されて運ばれて行った。護衛についてからこちら、彼女は終日陸遜に附き従っていたので不在になることなどなく、そのせいで彼の周囲はぽっかりと穴が開いたようだった。
官房で書籍を相手に仕事をしている時、練兵場で自分の鍛練や将兵の練士を行っている時。姿は見えなくても必ず扉の前で控えていたし、修練に加わっていたこともあった。いつの間にか、の存在が陸遜の中で大きな比重を占めていたのだ。――いなくなって、これほどのものだったのか、と恐ろしくなってしまうほどに。
高熱を出していたことで、感染症の疑いもあるといわれては府第から隔離された属舎に連れて行かれた。陸遜までも熱を出してはならないと医人に診察されたが、何の問題もないと判断された。当然だろう、食事も睡眠も不足なく、傷病もないのだから健康でなくてはおかしい。
の熱には心当たりがあった。先の戦闘の後、彼女は傷の処置を自分で行っていたのだ。軍医に見てもらった方がいい、と勧めた陸遜に、かすった傷はいくらでもある、これまでもこうしてきた、と言って傷を水で流して膏薬を塗っていただけだった。
――おそらく、水か傷か。どちらかははっきり判らないが、瘴疫にかかったならそれが病原だ。
仕事に戻ってもいいと言われても、碌に書簡の内容が頭に入ってこない。のことばかりを心配してしまう。どうしようもなくなって、とうとう陸遜は頭を抱えて机に突っ伏した。
――ああ、私はとは別の病疾で、しかも末期だ。助からない。
山積している仕事を放り出して、陸遜は医室へ足を向けた。の症状を知るためと、彼女に会わせてもらうために。
薬の匂いに満ちている医室へ入れば、不可解な表情を浮かべた医人が出てきて会釈した。
「陸将軍、いかがなさいました。貴方は健康であると言ったばかりではありませんか。それともやはり熱が?」
「いえ、私はいたって健康です。に会わせてください。人に感染する病ではなかったのでしょう?」
「いつお聞きになったのですか?」
医人が眉を寄せる。どうやら彼女の診断は終わっていたらしく、陸遜の読みも当たっていた。
「何も聞いていません。私はの熱病の原因を、おそらく知っています。塞がっていない傷がいくつかあったはずです。その傷を負った時か、それを戦地で水洗いした時。そのどちらかで瘴疫になったのでは」
「……おっしゃるとおり、処置の甘い刀瘡が数箇所ありました。完治しておらず、膿血のでるようなものも。ですが、高熱になったのは今朝になってからだということ、戦争から帰ってきてから十日ほどだということで、瘴気によるもので間違いないでしょう。今、他に同じ症状を起こした者が出ていないか戦場へ向かった兵全員を調べているところです。彼女が発症して、申し訳ないのですが、助かった部分もあります。……この病は一度熱が収まるのです。その後数日は何の症状も出なくなり、また熱が出る。ですから、早急な発見が彼女始め、感染したかもしれない他の者をも救うことになりました」
が倒れて、一帯はしばらく騒ぎが治まらなかった。近辺にいた者は将も吏卒も皆診察を受けさせられた。そして、に対して迅速な処置がとられたのだ。医人は難しい顔で、これは関係のないことですが、と断ってから話を続けた。
「傷痍の手当がどれもこれもひどすぎます。体中傷痕だらけで、瘡瘢によって皮膚が引き攣れてしまっているところも、打撲傷が消えていないところも。女の身でしょうに、嘆かわしい……」
医人の言葉に、陸遜は耳を疑った。
「どういうことです?」
「将軍も、少しは兵を労わってやってくださいと申し上げているのです。たとえ兵士といっても女です、あんな体では婚姻も難しくなってしまいます」
さも陸遜のせいだ、と言わんばかりの目で見られても、彼も預かり知らないことである。この医人は、が流れて来て陸遜の護衛に任じられたことを知らないのだろう。
「私は、何も知らない。――に会わせてください、今すぐに。どこにいるのですか」
一度頭を振って、陸遜は医人を睨む。武将の気魄に彼は身を竦ませながらも、それはできません、と言いきった。さらに鋭く彼を見据えて陸遜が怒鳴る。
「なぜです! は感染症ではなかった。私は彼女の上官です。会って話を聞かなければなりません!」
「できませんと申し上げております!」
「だから、なぜ!」
厳しい追及に医人も声を荒げて答える。
「患者が、そう望んでいるからです!」
「……が?」
途端に陸遜の意気が殺がれ、ぼんやりと呟いた。それを落ち着いたようだと判断してか、医人が頷いた。
「そうです。意識は戻っていますが、まだ高熱もあるということで、面会は全て断るようにと、」
意識が戻っている、そう聞いた陸遜は再び取り乱す。
「どこですか! ここにはいないのでしょう!? 彼女よりも私の方が官位は高い、優先されるべきはこちらです! 熱がなんですか、弱っているのがなんですか、私はに会わないといけないのです!」
ばたばたと医室を奥まで見て回り、普段の彼なら絶対に口にしない理に適っていない事を言いながら、医人を引きずって表へ出る。騒ぎに衆目が集まり始めるが、それも意に介せずに陸遜はに会わせろ、とひたすら繰り返す。耐えられなくなった医人は、わかりました、と震える声で答え、陸遜が彼から手を離せば廊下にどさりと座り込んだ。
「この建物の裏にある薬草園の先に、重症患者のための屋舎があります……。そこにいます」
力なく指差された方を見て、陸遜は彼に礼も述べず走り出した。
――会わなければ! に!
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2008/06/01
よしわたり