先の戦争が終わって、呉軍は建業に凱旋した。喜びもつかの間、陸遜は事後処理の書籍を山積させ、さらに武勲によって官位が上がったことで仕事は増える一方。頭が痛いと零しながらも、彼の顔は疲れてはいるが不満は浮かべていなかった。
「どうだ、陸遜。仕事は順調か?」
朝見の後、周瑜に呼び止められて陸遜は彼に一礼する。
「はい。大変ではありますが、期待に応えられるよう私なりの最大の努力をしています」
畏まった陸遜に、必要ない、と示して周瑜は続ける。
「ああ。だが、無理はせぬようにな。君にはいずれ私や呂蒙の後を任せることになるだろうから、体は大事にしておけよ。私のような病を患わぬことだ」
「ありがたきお言葉。ですが、周都督もご自愛ください。私はまだまだ学ばなければならない事が多すぎます。その前に都督に倒れられては困りますから」
自嘲気味に笑う周瑜を本心から心配して、できるだけ軽く言ってみせる。陸遜の心遣いに彼は目を細めて傍にいた呂蒙を引き合いに出した。
「そうだな、呂蒙も優秀だが私ほどではない。この私の策、全て授けて君が彼を追い抜くところを見なければ。しかし、全てとなれば時間がかかるな」
「都督。陸遜ほど若くはありませんが、俺とて智勇を磨くことは怠りませんぞ? こやつが追い抜けるのはいつになることか」
「呂蒙殿からももちろん学ばせてもらいます。お二人の智略の全てを受け継いで必ずや追い抜いてみせましょう。私は孫呉一番の有望株だと自負していますから、周瑜殿もうかうかしていると危険ですよ」
微かに笑みを浮かべ、からかうような声色で言う陸遜を、周瑜と呂蒙の二人は顔を見合せて満足げに見遣った。
「ほう? 言うな、陸遜」
「言っておくが、俺はお前には負けんぞ?」
「はい、望むところです。この陸伯言、相手が呂蒙殿であろうと手加減はしません」
三人で笑っていると、楽しげだな、と声を掛けられる。周瑜がああ、と笑って二人を指差した。
「黄蓋。君はどちらに賭ける?」
「何の賭ですかな?」
「呂蒙と陸遜、どちらが先に私の智謀と武勇を負かせると思う?」
「む、おもしろい話ですな。ですが、わしは周瑜殿に賭けますぞ」
「それはありがたい。では三人での勝負になるな」
話がずれてきている、と呂蒙が苦笑し、陸遜は予想外の展開に少々慌てている。人が人を呼び、太史慈、凌統、甘寧も話に顔を突っ込んできた。
「俺は呂蒙殿だな」
「そんなら俺もおっさんにすっか」
「お前が呂蒙殿なら俺は誰も賭けてない陸遜にしとこうか。こういうのが以外とやるんですよね。お二人に賭けた皆さんは見る目がないと、俺は思いますぜ?」
凌統が陸遜の肩に手を置いて五人――主に甘寧、を含み笑いに見る。また口論を始めそうになる甘寧を呂蒙が抑え、黄蓋が凌統をたしなめる。周瑜は本気で困惑してきた陸遜の様子に苦笑している。呂蒙の歯止めも効かず吠え始めた甘寧を太史慈が呆れ顔で封じ込めようとする。
そんなよく言えば談笑している、わるく言えば混戦一歩手前、といった状況を打破したのは、明るく無邪気な一声だった。
「周瑜さま!」
「ああ小喬。君は私が一番だろう?」
彼女の声にさっとその一団から抜け出した周瑜がさらりと言えば、小喬は大きな瞳をぱちぱちと瞬いて破顔一笑、彼に飛びついた。
「もちろんだよ!」
「はは、君の言葉だけで私は誰にも負けられなくなったな」
「周瑜さまは誰にも負けないもん! あたしがついてるからね!」
「ありがとう小喬。そういうわけで、この賭は私の一人勝ちだ」
二人の世界に入って行けず、固まって言葉も発せなかった男たちに向って、周瑜は朗笑した。
「あ、はあ……。俺は負けました」
「私も、勝てる気がしません……」
何が何だか全く理解できないまま、呂蒙と陸遜は肯いた。では、と周瑜は小喬の手を取ってその場から去っていく。
「皆、今日も頑張ってくれ。行こうか、小喬」
「周瑜さま、何に勝ったの?」
「何だと思う?」
「えー、わかんない! 教えて、周瑜さま!」
幸せそうに会話しながら遠ざかっていく周瑜と小喬の夫婦を茫然と見送ってようやく、全員は呆れた、と声をそろえて盛大な溜息を落としたのだった。
いつもより広堂から出てくるのが遅かった上に至極疲れた表情をしていた陸遜を不思議そうに眺めて、は首を傾げた。
「どうした? なにやら中が騒がしかったそうだが」
「何でもありませんよ……」
「倦んでいるな、当ててみせようか。……先に出てきた周大都督と夫人の様子からみて、あれに中てられたとみた」
「大正解です。全く、幸せな事でなによりです」
げっそりと未だ溜息の止まらない陸遜にからからと笑い、そういえば、とが話を切り出した。
「その大都督自ら私のはたらきをお褒めくださった。夫人も一緒になって喜んでくだされて、私も幸せだよ」
彼女からそういった言葉を聞くのは珍しい。驚いて陸遜が振り返ると、面食らったようなが一拍置いて苦笑した。
「莫迦みたいな顔をしているよ、美顔の軍師さんが」
「まだ軍師の駆け出しです。それに、なにが美顔ですか」
呆れた、と溜息を落としながら半眼で彼女を見る。
「広堂の扉前で待つのは退屈だからね。最近は知り合いになった同じ護衛の者や女官と話をするんだ。そうしたら、君のことがよく話題に上がってね。自分のことではないが嬉しいよ」
また、驚く。他の者と会話をしていることにではなく、陸遜の事を自分の事のように喜ぶに。
――さっきのせいで、少し、嬉しい。
陸遜が微かに照れているのにも気付かず、は笑いながら話している。しかし、明らかに様子がおかしかった。いつもより饒舌で、なにより、毎日陸遜の後ろについていたはずが彼の先を歩いている。早く官房に辿り着こうとするかのように。
「紅雪?」
不審に思って、陸遜は用心しながら呼び掛けた。はい、と振り向いた彼女は、うっすらと笑っていた。
「不調を抱えているでしょう」
きつく睨みつければ、負けた、と言ってが崩れ落ちた。
「!」
うつ伏せに倒れた彼女を慌てて抱き起そうとして、その体がひどく熱を持っていることに驚愕した。
「どうしたのですか! 誰か! 誰か、医人を!」
陸遜の悲痛な叫びに、辺りにいた官吏が駆け寄ってくる。彼女を助け起こして休める堂室へと運ぼうとする者、医人を呼びに行く者。
騒然とする中、は熱に浮かされて消えそうになる意識を首筋に当てられた陸遜の冷たい指でなんとか保っていた。だが、陸遜から他の者に身を預けられたと同時に、小さく呟いて意識を手放した。
「人妖が、聞いて呆れる……」
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2008/06/14
よしわたり