次第に大きくなる刃のかち合う音、怒鳴るような人の声、地に響く大勢の足音、漂う血の匂い。将軍として戦場に立つのは何度目かしれない。だが、いつも戦線に出ると嘔吐感を――胃の中身を吐き出したくなるほどの嫌悪感を、催してしまうのだ。それを堪えて、陸遜は堅く唇を噛み締める。遠く見えていた自軍の前線拠点が、すぐそこになっていた。


「状況は」
「援軍のおかげでなんとか建てなおしているようです。ただ、敵戦力が多く我が軍が数の上でかなり不利であるとのことです」
 補給拠点で伝令から現状を聞き、陸遜は計を案ずる。
 ――友軍は無事。ならばこちらから一気に叩き込んで数の多寡を覆し、敵の士気を落とすが良策か。
「この先、敵拠点があったはずですね?」
 火計によってそこを攻め、占拠すれば敵は後退を余儀なくされるはずだ。陸遜の問いへ伝令は悔しそうな声を返す。
「交戦区域の先になります」
「では、私が先陣を務めます」
 背後で、が鋭気を纏わせる。ようやく護衛らしくなった、と心裡で苦笑して陸遜は双剣を抜く。手綱をしっかりと握ると馬の腹を蹴って走らせる。右手の剣を高々と掲げながら、自軍の兵に向かって叫ぶ。
「さあ、攻め立てるのです!」
 いよいよ剣を振るう、となればそれまでの嫌悪感はすっかり消えて、燃え上がるような闘志だけが心を支配する。火炎を思わせるそれに任せて、陸遜は激戦の中に身を投じた。

 馬上から敵を切りながら、先へ先へと進む。将軍が前線へ出てきたことで自軍の士気は上がり、逆に敵は士気を落とす。途中で健闘していた味方の将を鼓舞しつつ、馬脚は緩めずに敵拠点へとまっすぐ向かう。
 人が走ればついてこれるだけの速さにしていたつもりが、護衛兵を振り切ってしまっていた。敵軍に孤立していてもなお武勇を振るって切り込んでいく陸遜に、敵兵は抜かれていく。優先すべきは拠点の制圧であって、敵の殲滅ではない。そこまでの道を開けばいい、と無駄な時間を取らずに進んでいたのがまずかったのかもしれない。
「いけませんね、突出しすぎましたか。ですが」
 小さく舌打ちしつつ、兵伍を切り抜いて前を見た。走ってくるのは敵拠点の門兵。ここまできてしまえばあと一息、引き返す気はなかった。馬首を彼らへと向けて駆け出した。
 順調に事が進み、護衛なしでも傷を負わずにいたことが、……慢心を招いていた。
 向けられている弓弩が目に入っていなかった。

 ――しまった!
 気付いた時には大きく馬が嘶いて棹立ちになり、陸遜は振り落とされそうになっていた。地に落とされる前に体をひねって着地し、とっさに双剣を構えて防御の体勢をとった。しかし、怖れていた攻撃は自分の前に立っていたによって全て防がれていた。あ、と陸遜の声が出るより先に彼女が声を発した。
「護衛のしがいがある!」
 はっ、と彼女は振り向きもせずに笑うと、そのまま弓兵の方へと走って行く。こちらに向かって来ている門衛には目もくれず。彼女に何も言うことができないまま、陸遜は双剣を打ち鳴らして彼らに対峙する。
 まず一人に狙いを決めて連続攻撃を入れれば、兵卒はあっけなく地に沈んだ。二人、三人、と警戒を怠ることなく倒していく。四人を切り捨て、残るは門兵長だけ。少し距離を置いて敵の槍鋒を誘う。あっさりと陸遜の思惑どおりに槍を突き出してきた兵をかわし、何度か攻撃を叩きこめば門衛は全員消え去った。守り手を失った拠点の扉に目を遣れば、弓弩兵を全て薙ぎ払ったによってそれは開けられようとしていた。
!」
 先に拠点に入って敵を掃滅にかかっていた彼女に声を掛ける。陸遜の呼び掛けにも答えることなく、向かってくる敵を率先して倒している。そのため、彼には火計の用意をする余裕が生じていた。
「助かりました!」
 それだけを伝えて、陸遜は火を放つべく拠点の中心へと走った。


「この拠点は私が占拠しました!」
 赤々と燃え上がる中で、陸遜が叫び声を上げる。追いついてきた護衛兵や部下が手分けして、ここを自軍の拠点とする準備にかかる。ここまで戦線を伸ばしたことで交戦していた敵兵は潮が引くように後退していったようだった。ぞくぞくと増えてくる自軍の兵に適当な指示を振り当てながら陸遜は戦局を知るために伝令を飛ばして報告を待つ。その間に、すっかり敵のものだった防御拠点は自軍のものへと変じていた。
 ふと、の姿がないことに気付いて辺りを見回した。見当たらずに他の護衛兵に訊いても皆首を横にするばかり。どこへ、と思っていたところに馬鳴が聞こえた。そちらを見れば、が身軽な動きで下馬して陸遜に歩み寄ると一礼した。
「前方に布陣していた敵将は後退、友軍が追撃に向かったとのこと。陸遜軍はしばらくこの拠点にて待機任務につくようにと」
 伝令が携えてくるべき情報を持って帰って来た彼女に、陸遜はただ頷くだけだった。拠点制圧時のこと、今の馬術のこと、情報収集のこと、訊くべきことは多いはずなのに、何も言えなかった。――そして、情報が正しいかどうか、は愚問でしかなかった。
 なぜなら、がそれを言ってからしばらくして、数名の兵が彼女と同じ事を個々に伝えに来たからだった。

 本陣からの次の指示を待ちながら隊列を整えさせるよう命じれば、軍馬は少しの休息をとれる。将軍も例外なく、陸遜は拠点内にあった木箱に腰掛けて息を吐いた。まだ焦げくさく、煙燼は消え切っていない。火計は得意とするところだが、燃やした後の灰心は出陣時の嘔吐感と共に未だ拭い去れないものだった。
「どうした、失意のどん底のような顔をして」

 苦笑しながら近づいて来た彼女は、鎧冑を血に汚していた。露出している腕や足にも血が付着しており、怪我によるのか敵の血によるのか判断しかねるものもある。盾にも瑕があり、鞘に納まっている細剣はおそらく刃毀れしているだろう。
「傷はないか?」
「ええ、貴方のおかげで。感謝します」
「護衛の務めをしただけさ。いいはたらきをしただろう?」
 陸遜が彼女の力量を知ったのはつい先程であるから、当然のように自慢げに笑っているが可笑しくて、つい笑みを零してしまった。
「確かに、武衛ですね。いつか呂蒙殿が貴方の渾名を言っていたことがありましたが」
「孤剣の人妖、か? 人を妖怪呼ばわりして、ひどいと思わないのかね?」
 呆れるよ、とはその渾名に顔を顰めるが、嫌がっている様子はない。
「いえ、素晴らしい渾名だと思います。貴方の活躍で私には傷一つありませんし、火計も成功、情報もいち早く得られました。――見事でした」
 思っていたことを口にすれば、彼女の表情が見る間に悪化した。何故、と陸遜は眉宇を寄せる。
「もう戦闘が終わったような言い方だね。まだ終わっていないよ」
「そうですか? あれだけ早く戦争の匂いを感じた貴方が気付かないとは」

 首を傾げたに微笑して陸遜は立ち上がり、彼女を置いて敵本陣側の扉へ歩いていく。ちょうどよく、自軍の騎兵が一人乗りこんできた。
「伝令! 敵総大将撤退! 呉軍勝利!」
 ほらね、と陸遜はを振り返って小さく笑うと、将軍として兵馬をまとめに向かった。


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2008/06/09
よしわたり



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