一、
びょう、と遠くで狗が吠えた。
真夏の夜、窓を開け放った寝室は風がよく通り、昼の暑さを取り去っていく。季夏の暑さはどうにかならぬものか、とはこぼして寝台の上に体を仰臥させた。しばし、ぼうっと体の力を抜いて瞼を閉じた。
――衾褥は陽の、昼の匂い。通る風は夏の夜の音。……あら、陸さまの足音。
近付いてきた靴音は開け放たれた戸口で止まり、盛大な溜息と疲れ果てた陸遜の声がした。
「。また私の官舎で、私の寝室にいるのですか。貴方には堂室を与えたでしょう。そちらで休みなさい」
「わたくしの寝室は風通りが悪うございます。風を追って参りましたところ、こちらに寝台がございましたので休ませていただいております」
「毎日厭きもせず、よくも同じ事を。まあ、いいでしょう。ここは官舎ですから窓を開け放っていても警衛がいますしね」
寝台に半身を起したを追い出しもせず、夜着の陸遜はそこに腰かけた。彼の邪魔にならぬように動くも慣れたもの。ふふ、と笑うと彼女は切り出した。
「陸さまの許可を得られると思うておりました。さて、当夜はどのような話をいたしましょう」
「そうですね……。夢についての話を」
言うと、陸遜はの傍で横になり、目を瞑る。
「承りまして。――夢の中に夢を占う話を」
すう、と静かに息を吸って、が詠うように語り始める。その声は夜気に消えていくほどの大きさで、しかし、語りはしっかりとしていた。
「ある者が夢を見ました。夢の中で己が姿はさまざまに変じ、それは楽しい時を過ごすのでありました。ある時は農夫として汗を流して作物を育て、ある時は野鳥としてあちこちを飛び回り、ある時は老婆として孫の遊ぶを見、ある時は大樹と為りて果実を実らせました。その者は多くの事物と変じ、そうして時を忘れて夢に遊んでおりました。そうして、人の形になったときに、ふと考えたのでありました。『わたしはなにものなのだろう、これはまことのゆめであろうか』。ああ、そう思った時にはその者は目を覚まし。いつもと変わらぬ朝、自らの体と暮らしに、それはそれは小さな、けれど確かな不可解さを思ったのでありました。『わたしというものは、そも、なにであるか』。その者は、夢の中で夢を考えてしまったために、人の生を疑うことになっていくのでありました。一日が終わり、歳月が廻り、その者も老いていきました。そうしてある時、目を覚ましたのでありました。夢の中ではなく、生きている中にございます。『ああ、ねむっているあいだにみるゆめのようにいきてきえていくのがひとなのだ』。――そして、その者は生を終えたのでありました」
の話が終った頃には、陸遜は既に夢中にあった。ふう、と笑んでは跣で寝台から降りる。
「おやすみなさいませ」
扉の前でささやいて、音を立てないように閉じると陸遜の寝室を後にした。
慣れた足取りでが自室に帰り、寝台に横臥する。陸遜に与えられた官舎、そこには堂室をもらっていた。だが、宮城や陸遜に仕える文武の官でもなければ、女官でもない。陸遜が私的に抱えた盲目の、謡詠芸をおこなう者であった。
は幼い時に大病を患い、両目が全く見えなくなってしまった。盲目の小子を育てても役には立たないと、親は彼女を全盲の吟誦者に売った。の師となったその矇瞽は生来、光を知らずにいたため、目が見えなくなったことを恐怖し嘆くの心を知ることなく厳しく当った。
杖をついてもまっすぐ歩けない、音を聞こうにも方向が分からない、ものを触ってもそれが何か解らない。いつからか、食事の匂いも味もしなくなった。師はそれを理解してくれず、何を言っても話を聞きはしなかった。孤独と闇黒に泣けば叩かれて、盲目で生きるための芸を教え込まれた。師が教えたものは多岐に亘り、論語から俗謡、歴史に神話、詩歌や長歌。泣き喚きながらも死に物狂いでそれを覚えていった。そうしなければ生きられないとなれば、必死にならざるを得なかった。
土地を移りながら語り歩くことで生きていくしかないのだと、が知った時には、失くした視覚以外の感覚は驚くほどに発達していた。盲人と知れるように杖はつくが、足はしっかりと地を踏める。遠近も左右も確実に、小さな音も拾える聴覚。指で触れただけで材質や形が解る触覚。嗅覚も、味覚も取り戻した食事は幼い時よりも美味に感じられた。
そして、姿を見ることができない代わりだろうか、何故か人を知覚できるようになっていた。息か温度か、他の何かかもしれない。にとっては何でも構わなかった。孤独ではない、他人を感じることができる、それだけで失明したことを悲観しなくなった。
だがそれは、同時に師との決別だった。独りで生きていけるのであればこれ以上教えることはない、そう言っての師は彼女の前から去って行った。
単身、教わった芸で身を立てながら旅を続けていた。二年前、の年は数えて二十になっていただろうか、その時に陸遜と出会った。貴人の私邸で行われた宴席で妓女として呼ばれて、古歌を数篇ばかり詠吟した。それなりの報酬を得て次の地へ移ろうとしたを、陸遜は自ら招いて呉は建業、その宮城にある官舎に住まわせて、今に至る。
陸遜がを抱える理由は解らない。だが、衣食住に困らないのであれば追い出されない限り、陸遜の招致に甘えさせてもらうことにした。初めは学問の書籍の諳誦を求められた。はそれらを読んだ事はない。師から聞いたままに話をすれば、驚いたことに陸遜はそれを褒めたのだった。書に記されたそのままである、更には幾つかの違いがみられるため比較をして学識を深めることができる、と。
それからは、暇日の園亭で詩歌を吟じたり、眠る前に話を乞うたりと、陸遜はを重用した。
けれど、決して女として求めることはなかった。から言い出したこともなければ、陸遜が迫ることもなかった。
陸遜と。二人の関係は、浅いながらも、深く。いつだったか、彼の知人が瞽女のを何故置いているのだ、と言った時、陸遜はこう答えたのだった。
「人というものは皆、どこかしら欠けた所を持つものでしょう。は視力が欠けている。それだけです。私だって欠けている所を持っています、それを補っているのがなのですよ」
と。
次へ
戻る