二、

、朝です」
 陸遜の声が聞こえて、は起き上がる。彼の声は扉の外から聞こえた。かなり深く眠っていたようだった、いつもは起こされることなどない。慌てて返事をした。
「おはようございます、陸さま。今、参ります」
 牀頭の櫛を迷わず手にして髪を梳いて結い上げ、盥の水で顔を洗う。上衣と下裳に着替えて、木屐を履くと扉を開ける。そこに立っている陸遜に向かって微笑みながら頭を下げた。
「おはようございます」
「ええ。今日も暑くなりそうですよ」
 陸遜が言って空を見上げた。夏の朝は早いため、もう太陽は昇っていた。風が熱を帯びて流れていく。
「そのようですね。本日はいかがいたしました」
 肌で大気を感じながら、は陸遜に問いかけた。今日は休暇だと言っていたはずだ、と疑問を呈したその声に、陸遜が笑いながら答える。
「暑くなってきましたからね、涼意を感じに行こうかと。どうしますか」
「どちらへ?」
「建業近郊の池苑です。午前はともかく、午後となれば蒸し暑さは増しますし、私にとっては久しぶりに頂いた休日です。涼しんで過ごしたいんですよ。それに、の謡詠もゆっくりと楽しみたいので」
「ありがたきお言葉。それでは、お供いたします」
「では、朝食を取りましょうか。その後、衣服を女官に着替えさせてもらいなさい。貴方も外出は久しぶりでしょう? 私の目も楽しませてください」
「まあ、衣裳を用意していただいたのですか?」
「もちろん。――に合うものを」
 楽しげに笑った陸遜はに手を差し出して、彼女を気遣いながら引いて歩く。すっかり慣れている陸遜の官舎であるからそうしてもらわずとも迷うことなく歩けるのだが、は彼の厚意を受け取った。

 食堂で軽く腹を満たすと、陸遜はを女官たちへと預けた。なされるがままのは自分がどうなっているのか解らない。けれど、こうしてああして、と着飾らせることの好きな女官と一緒に笑いながら、その身を平服から着替えていった。
「お待たせいたしました」
 陸遜が待っている堂室に杖を片手に現れた。くすり、と陸遜の笑うのに、何かおかしなところでも、と言ったの空いている方の手を取って、彼は柔らかな声を出した。
「いいえ、思っていたとおりになった、と」
「ありがとうございます。陸さまが喜ばれるのでしたら美しい衣裳なのでしょう。うれしゅうございます」
「貴方の為の衣裳、どうしてそれだけが美しくあるでしょう? 貴方に似合っている、ということですよ」
 さらりと言いのけた陸遜。頬に赤みを乗せたを、ゆっくりと外へと導いて行った。


 数人の護衛を従わせながら、二人は城下を歩く。郭門を出るまで人通りの多い逵路を行くのだが、陸遜のしっかりとした先導のおかげで、はほとんど杖に頼らずに、人にぶつからずに歩くことができた。さりげなくも優しい陸遜に感謝しつつ、とりとめのない会話をしていれば、門を抜け、ざあと吹き抜けた熱気をもった風が濃く緑の匂いをさせていた。
 城外に出たのだ、とそれだけで解る。が風の匂いを感じている横で、強い日差しに陸遜はまいったな、と呟いていた。
「むっとするような暑さですね」
 同意を求めるように握り直された陸遜の掌は汗ばんでいる。着飾って化粧も施したも少し汗をかいていた。
「そうでございますね。照りつける陽光が厳しゅうてなりません」
「……瞼の裏に?」
「いえ、光は全く。髪が焼けるように暑いので解ります」
 少し意外そうに訊いた陸遜に、は微かに瞼を震わせた。――いたずらっぽく。
 独りの時以外には決して目を開かない。時として、瞳は口よりも雄弁である。しかし、それがなくてもの表情は細やかに豊かであるため、陸遜も彼女の思いを読み取ることができた。
「それは失礼をしました。では、急ぎましょうか。池まで行けば木陰もありますし、亭台もあります。風も違うでしょう」
「ふふ、けれど走らないでいただきとうございます。陸さまの俊足にわたくしはとてもついてまいれません」
「貴方がいるのに走るはずがありませんよ。ああ、それとも抱えて走ればいいですか?」
 さも名案、というふうにの手を引いた陸遜に驚いて、彼女は腕を突っ張った。
「恥ずかしゅうございますよ!」
「私だってさすがに恥ずかしいと思いますね」
「ならば口にしないでくださいまし」
 のあまりの驚きぶりに苦笑する陸遜を、してやられた、としか返せない。すみません、と笑いを収めた陸遜が言う。
「さあ、では少し急ぎ足で行きますよ」
「はい」
 陸遜が手を取ってくれるからは安心してついていける。が手を握っているから陸遜は導きに迷いがない。
 二人は、護衛の心配も気にせずに駆け出した。


「風が、変わりました。水が匂います」
 ほう、と深い呼吸をして言ったを振り返って、同じように息を吸った陸遜は、――溜息を吐いた。
「違うのですか?」
「もちろんでございます。もう池は見えましょうか」
「まだですよ。後少し、歩かねば木々に遮られていて。の方が私よりも先に着いたようですね」
 さくさくと二人分の土を踏む音、それに遅れて数名の護衛の同じく歩く音。水の音は耳に届かない。陸遜はくすりと笑ってそう言った。
「細い木々が繁っていて、目には見えません。……ああでも、もう見えてきました。日光に碧緑の水面が輝いて、日中ならではの美しさですね」
 さあ、と風が吹いた。陸遜の少し後ろに立った、視界の閉ざされたも疲労がどこかへいったかのように明るい声を上げる。
「そのお言葉で、わたくしにも陸さまの見ている情景が見えるようでございます。風がここちようございますこと」
 本当に、と陸遜も言いながら、を導いていく。

「池を渡った風はどうしてこうも涼しく思えるのでしょうね。ほら、陰へ入りましょう。水に足を浸すも、謡詠を聞くのも、一度体を休めてからです」
 池亭に設えられた石造りの椅子はひやりとしていた。危険はないと示すように先に陸遜が腰掛け、をそっと座らせた。
「畏れ入りまする。季夏の日中、暑さはさすがのものですこと」
「それでも、陰があり、風もあれば涼めます。日中の太陽は南中。つまりこの亭台はずっと陰に入っていますからね。――けれど、私も久々に歩きました。少しこうしていましょうか」
 陸遜の肩や首を解す音に、かなり凝りが溜まっているようだ、とは彼の方を見た。
「どうしました?」
「お疲れのようでいらっしゃいますね、按摩をいたしましょうか」
 按摩も、盲人が生きる業にするものの一つである。も簡単にではあるが教わっていた。肩や首などはよく凝るから、覚えておいて損はないと。
「できるのですか? が按摩をも身に付けていたとは驚きです。一度もそのような話はしませんでしたから」
「簡単なものにございます、本業の者にはとても劣ってしまいましょう。それに、陸さまがわたくしに求められるは盲者の誦読の業のみでありました」
 ふふ、と笑うに少しだけ苦笑して、陸遜は彼女の手に委ねることにした。
「どうすればいいですか」
「少し狭うございまするが、うつ伏せになっていただけましょうか」
 榻牀の形になっているのを指で確かめて、は申し訳なさそうに告げた。構いません、と陸遜は気にするでもなく石榻からはみ出した両足を組んで、頭も腕に埋める。くぐもった声で陸遜が楽しそうに言う。
「これでいいですか」
「はい。では、やらせていただきます」
 は陸遜の首から肩、背を数箇所、強めに押していき、痛む所はございませんか、と問うた。苦しげに、それでも笑いながら陸遜が答える。
「今押された所は全部ですね」
「やはり、陸さまはかなりお疲れでいらっしゃいます。文武の官としてお忙しいことはどうしようもならぬでしょうが……。少しはゆっくりと体を休ませくださいませ」
 ごり、と親指で首の筋を押され、陸遜はぐう、と呻きを上げそうになってこらえていた。がばりと伏せていた顔を上げたのか、はっきりとした声で訴えた。
「痛いのですが」
「痛くなくては効きませぬ。少々耐えられませ」
 再び頭を落され、ごりごりと音を立てる首から背への筋を解されていく陸遜。人の体を頭から腰まで一本に繋いでいる骨、そのすぐ隣にある筋は武人にとっては断たれてはならない急所。だが、が陸遜を殺す意志を抱いているわけでもない、と陸遜はされるがままになっていた。時々情けない声を上げながら。
 指だけでなく、掌の下部、力の入る所を使い分けて、の按摩はなされていく。ごりごりと音を立てていた筋は、半刻も解せばずいぶんと力が抜けて楽になっていた。首、肩、背だけでなく、上腕の辺りまですっかり解し終えたは、ふう、と溜息を吐いた。
「終わりましてございます。肩や首、そこから繋がる腕に背も楽になったのではないでしょうか。あまりしたことがないものですし、女の腕ですので効果はさほどないかもしれませぬ」
 陸遜が起き上がり、首や肩を回して、その軽さに驚きの声を上げた。
「すごいですよ、! すっかり楽になりました。こんなことならもっと早くからしてもらえばよかったですね。これから偶に頼んでも?」
「ええ、もちろんお引き受けいたします。陸さまが為とあらば」
「ありがとうございます、。痛かったのは本当ですけどね」
 根に持っているかのような陸遜の声に、は慌てて首を横に振る。
「ですから、痛くなくては効きませぬ、と申しました。現に楽になられましたようではありませぬか」
「あまりに痛いものですから。だからといって陸伯言がこれしきの痛みに声を上げるわけにも、と思って何とか耐えましたが。おかげで、暑さからとは違う汗をかいてしまいましたよ」
 ぐったりとした声の陸遜。が謝ろうとするまえに、彼はくすくすと笑った。
「ですから、私は池で水を浴びてきますね。護衛に持たせた軽食でも取っていてください」
「申し訳ございません……」
「謝らなくてもいいんですよ。の按摩で体が楽になれたのですから」


 陸遜は護衛を呼び寄せてを頼む、と言うと、池へと向かったようだった。呉の要人、陸伯言の護衛はしっかりとした者ばかりだろう。陸遜とに護衛の対象が離れた為か、二手に別れる話をしていた。
 声の発される高さ、武人独得の気の張り方、軽装の甲冑に触れてか鞘が鳴り、帯剣していることが判る。おそらくは陸遜よりも年長の者が、の座した石机の前にかたん、と何かを置いた。ふわりと漂う菓子の香り。
殿、桃果です。腐らぬうちにお食べください」
「まあ、ありがとうございまする。よい香りがしていると思っておりましたら」
 桃果を持ち上げて、さらり、と撫でたは、嬉しそうに頬を緩めた。ちくちくと手に触る毫毛が新鮮な事を示している。
「将軍に頼まれまして、先程買ってきました。白桃だそうで」
「ありがとうございまする。洗わねば手も口も痒くなってしまいましょうね。申し訳ございませぬが、露井はありましょうか」
 ふふ、と笑って両手に抱えた桃果のひとつ、毛を払うように手を動かした。
「それならば、こちらに。水は汲んだ方がよいですか」
「このままでは桃を落しかねませぬ。お願いしてもよろしゅうございますか?」
「なに、楽な事です」
 幾度か官舎でも聞いた事のある声の護衛だった。の事情も知っているのか、手巾もお使いください、と水の入った桶と共に座っている横へと置いていた。盲人に対してのさりげない気遣いが陸遜に似ている、とは自然と微笑んでいた。
 冷たい水の入った桶で、桃果を丁寧に洗う。つるりと洗えたところで水を拭き取り、皮を剥いてそのまま齧り付いた。は垂れ落ちる果汁で衣裳を汚さぬよう、口の周りにも汁を付けぬよう気をつけて、ほう、と感嘆した。
「なんと美味な事。まだ熟しておらぬのでしょうか、しっかりとした固さですのにさっぱりと甘き味。これほどの果実は初めていただきました。ふふ、後で陸さまにお礼申し上げねばなりませぬ。――それにそちらの護衛のお人、いつもありがとうござりまする」
 はよくしてくれた護衛へ、静かに頭を下げた。驚いたような、声ともつかぬ音を発して、彼はうろたえていた。
「礼など構いません。陸将軍の私人をお任せされているのですから。……俺も、戦場で左の眼を失いまして。その、他人事とは思えぬ事情もあります」
「まあ、それは……」
 言葉を失ったに彼は、はっは、と笑い、桃の色が変わってしまいます、と食べる事を優先させた。美味と感じた桃果は、多くの人の手によってが食する事ができている。陸遜、護衛兵、賈人、収穫した農民。
 ふふ、と眉尻を下げて、がもう一口、齧る。香りよく、歯ごたえもよい果実を味わっていく。ゆっくりと、種だけを残して白桃を食し終えたは、誰にともなく言う。
「……ほんに美味にござりました」

 が桃果を食べ終えて、手と口許を拭った後、護衛の一人が交代なのか出て行き、戻ってきた護衛が日陰であろう池亭の外に座り込んだ。
「陸将軍はお若くていらっしゃる。水を浴びると言いながら泳いでいらっしゃりますよ。しかし、日差しが暑い。池に足を浸しているくらいならば、将軍のように泳いでしまいたくなる」
 暑い、と笑いながらそう語った男に、隻眼の護衛が気を抜くな、と軽く諌めていた。彼はどうやら護衛兵長らしい。
殿もおいでになっている。何かあってはお前の首が飛ぶのだぞ。それほど暑いなら水を被って来い」
「は。夏の陽気に当てられていたようで。任務である事を忘れておりました。……ですが、水を被りでもしたら皮が臭う上に、手入れに時間を取られるじゃないですか」
「今でも充分汗で臭っている」
「そうでしょうか。自分じゃ判らないものです」
 護衛の言い争いがおかしくて、はつい、ふふ、と笑ってしまう。
殿に笑われて、護衛が務まるか」
「って! 笑わないでください、殿。こちらも好きで臭くなっているわけではないのです」
 ごん、と硬い音がした。隻眼の兵長に殴られでもしたのだろうか。それがまたおかしくて、が声をこらえて笑う。
「いえ、護衛兵という将軍を守る重要な軍職にある人であっても、人に変わりなき事を知りました。ふふ、楽しゅうございますね」
「戦地にあらずば、任務につかずば我等とて只の人です、殿。楽しみもなければ、日中の護衛をしませんよ。と、将軍には黙っておいてください」
 陸遜と、二人の護衛が戻ってこようとしていた。兵長の楽しげな声に小さく肯いて、は陸遜がいるだろう方向へと顔を向けて微笑んだ。


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