三、

「お帰りなさいませ、陸さま。水浴びにしては長うござりましたね」
 ふふ、と笑うの表情はからかいが載せられていて、陸遜は小さく笑った。
「つい、泳いでしまいました。着替えるので少し、亭宇の外でいますね。こちらを向かないでくださいよ」
「あら、お恥ずかしゅうございまするのですか?」
「当然でしょう、男の着替えを女官ではない女が見るなど、礼節を知りなさい。は盲目だというのによく『見えている』のですから」
 見えている。陸遜がさらりと口にしたその意味を、は勘違いした。これまでと同じく、失った以外の感覚で人や物を認識していること、と考えた。

 ふふ、と石榻の背に体を預け、吹く風に載せて謡を吟じる。楽器がなくても音に狂いはなく、謡う為の伸びやかな声は夏の湖水の美しさをうたう辞賦にぴたりと嵌っていた。誰もが口をきかずに、そのうたに聞き入っている。さあと流れる風は水の匂いをはらみ、日陰の亭子に熱を運んでいく。まるでの賦を現実とするかのように。
 ついで、時代に翻弄されて峻烈な生を過ごした男についての、少々悲しめの詩。節も変わって、厳しさよりも涼しさを感じさせるようだった。古歌なのか、形式が一定せずに一句の長短がまちまちだった。男の名は決して出てこない、が、終わりに虞美人の名だけが謡われて、改めてそれが項羽の物語だと知れた。巷間に広まるのとは異なった、が師から引き継いだ謡詠。誰が作ったのかも、伝えたのかも知れない、無名の詩。
 長い古詩が終わる頃には、陸遜も着替え終え、の向かいに座っているようだった。変わらず誰も声を発しない。はすう、と息を呑んで次を謡い始めた。
 それから、十は謡っただろうか。最後にがうたったのは、秋を待つ俗謡。夏の終わりと共に穀物の刈り取りに冬への備えと忙しくなる、それでも秋を待ちわびる民のうた。苦しくも生きていられる事を喜び、一年かけて育ててきた作物の豊歳を願う、切なるうた。呉は大きな河川と整備されつつある水路の為に水稲栽培が盛んになりつつある。その事に感謝をうたい、平安に農事ができることに孫呉を称え、俗謡はそこで終わった。  だが、は一度、呼吸する。
「――農は天下の大本也」
 または、農は国の本為り、とも言うのでしたか、と微笑んだ。

「ありがとうございます。やはりの吟謡はこれまでのどの者よりもすばらしい。謡う時には何にするか、決めてから?」
 陸遜の賞賛に、ありがたきお言葉、と頭を垂れ、それからは問に答える。
「いいえ、感じるままに謡っておりまする。ただ、流れがございますので、謡う間にどうやって纏めるかは考えながらでございます」
 つまり、膨大な量の詩歌から、その場に応じたものを探し出して一言も違えずに謡うという。陸遜は驚きに軽く吐息をもらした。
「『詩経』に六義、というものがあります。内容の体裁に風・雅・頌。表現の作法に賦・比・興。――風は地方の民謡。雅は厳正な詩たる意。天下の政をうたい、天子・諸侯の宴会に用いられたと。頌は宗廟における楽歌であり、神徳を形容・賞賛したもの。これらは内容の違いですね。ははっきりと学んだわけではないのでしょうが、きちんと理解をしているようですね」
 驚いたのはだった。そのような事を考えながら謡うわけではない、と思うのだが、陸遜の言うように確かに詩歌の内容には気をつけていた。 「では、表現の方はどうなのでございましょう?」
「賦は心に感じたままに歌うもの。初めにが謡ったものですね。比は類似のものを取り出し、譬えて述べます。興は自然の事物を譬えに歌い、その後に自分の心を歌うものです。の謡詠は、こういった時には表現に縛られない風、俗謡が多いのですが、表現の理解もあるようですね」
 陸遜の言葉に改めて、身に叩き込まれた詩歌には身震いをした。おそらく師はさらに前代の師から同様に学んだのだろう、と変わらないほどに厳格な遣り方で。もちろん、詩歌だけではなく、学問に関する読んだ事もない難しい書籍や歴史書も諳誦できるまで数え切れぬほどに語らされた。他にも多くの、音の知識だけで生きていく為の業を身に染み込まされて、そして今のがある。

「わたくしは何も知らずにおりました。陸さまのおっしゃったことが真実なれば、わたくしは陸さまに招致されました事、これ以上なく喜んでもよろしいのでしょうか」
 おそるおそる、と口を開いたに、陸遜の苦笑が返ってくる。
「だから言ったではありませんか。これまでのどの者よりもすばらしい、と。貴方の業を認めたからこそ、私はを傍に置いているのです。私の優秀な瞽女」
 陸遜の言葉に蔑みは全く感じられず、は深く頭を下げた。腕を差し上げ、拝手の形を取る。
 が拱手や拝手をすることはほとんどない。教わってはいるのだが、盲目でございますゆえ、と平伏すれば許されたものだった。
「わたくしは、幸せにござります。陸伯言さま、この、誠に感謝申し上げまする」
 本心からの礼を述べる為に、初めて陸遜の前で拝手の礼を取った。くすり、と陸遜が笑って面を上げなさい、と柔らかに言う。ぱし、と両手を合わせるような音がして、陸遜が拱手を返したのだと判る。
「この陸伯言、しかとその心受け取りました」

 さて、と陸遜は空を仰ぐようにしたようだった。
「雲が近づいてきていますね。そろそろ帰りましょうか」
「はい。午前よりも蒸すようになってまいりました、夕には雨が降りそうでございまする」
がそう言うのならば降るでしょうね。では、帰りましょう。まだ暑いですから、無理はしないよう」
 陸遜の差し出した手を取って、は立ち上がる。おや、と呟いた陸遜。
「どうかなされました?」
「いいえ。その衣裳、に合わせたつもりでしたが、こうして陽光の下、木々に囲まれた水面の輝くのを背景にするのも美しくて。またここを訪れる時はその衣裳を着てくださいね」
 恥ずかしげもなく告げた陸遜に、が慌てる。
「陸さま! 恥ずかしゅうございます! その、そういった事はあまり……!」
「私も顔が少し赤くなっていますから」
「なれば、おっしゃらないでくださいまし」
「見たままを口にしただけです。私はあまり詩才がなく、賦を詠む事ができませんから」
 明るく笑った陸遜に眉根を寄せる。来た時よりも穏やかに、二人は帰る。つかず離れずの距離を保った護衛を従えて城下へと、城門をくぐり官舎へと。


 暮鐘が鳴り、郭門が閉じられる。
 日中の暑さは去り、涼やかな風が吹くかと思っていたのだが、あいにくとそうはいかなかったらしい。おそらくこちらへ向かってくるであろう雷鳴が微かに響いている。風も生ぬるい。
 ほう、と息を吐いてはかなり遠くのそれに耳を傾ける。それよりも大きな官舎の音もするのだが、必要な音の切り替えは身についていた。にとってそれらの生活音は無音にすることもできる。
 開け放った扉から入ってきた家女が、一声掛けてきて、ようやくは遠い空から意識を引き戻した。
さま、湯をお使いになられては。昼は暑くて汗もかかれたでしょう」
「よろしいのであれば、ぜひにも。――陸さまは?」
 家長よりも先に湯を使うことは雇われた身として許されることではない。ふっと女官が微笑んで、もう済ませておいでです、と答えた。
「それならば、参ります。道行も着替えも独りでできます故」
「存じておりますよ。それと、伝言がございます。陸伯言さまが、夕食後にさまを堂室に、とおっしゃっておられました」
「かしこまりまして。それでは失礼申し上げまする」
「下女にそのようにしていただかなくとも、と何度言ってもさまはお聞き入れ下さらないのですね」
「わたくしは、確かに陸さまのご厚意でこちらに住まわせていただいておりますが、何もしておりませぬ。できぬことはないと思うのですが、やはり皆様には敵わぬ身。娯楽の為だけに雇われております妓女でござりますから」
 ふふ、と笑ってはそのまま湯を使いに出て行った。後に残った下女は、難しい色の溜息を一つこぼしていた。


 が湯から上がった頃には、ばらばらと大粒の雨の音が鳴り、湿った土や草の音が濃く漂っていた。雷震も近づいてきている。どん、と遠くに落ちる音がの鼓膜を震わせていた。
「これは一晩降りそうな雨だこと」
 ひとりごちて、ひとまず自室へと足早に帰る。濡れた髪から水滴が滴らないようにしっかりと拭くと、緩く編んで垂らした。湯冷ましの薄い衣服から着替えて、一枚上掛けを肩から引っ掛ける。
 陸遜はもう夕食をとったのだろうか。はそれを考えながら官舎の家人たちが食事をする所へ向かっていた。召されて遅れる事は許されない。もし陸遜が既に食事を終えているのなら、その足で彼の私室へと向かえばいい。
「失礼いたします。陸さまのご夕食は」
 廚房に近い家人の食堂では、数名が談笑や飯食を取っていた。
「今召し上がっておいでです。さま、軽食でよければご用意しますが」
 答えは廚房から返ってきた。そちらに向き直っては微笑む。
「それでは、お願い申し上げまする。空腹も然程感じておりませぬので」
「いつも少量しかお食べにならないのですな。作りがいのないことです」
「申し訳ございませぬ。幼き頃より長く旅人でした者です故、体がそうなってしまったのでござりましょう」
 食堂の隅で、には聞こえないと思ってか、女官らがこそこそと話をしているのを耳に挟みながらも、そうは答えていた。――盲目だっていうのに陸伯言さまに引き立てられて、矇瞽暮らしが長かったから泥水でも飲まなければ生きられなかったせいでしょう、目が見えないのならば花子(ものごい)に雑じっているものじゃないの、親に瞽女へ売られたそうよ。
 全て聞こえていた。どこにおいてものような芸を以って生きる盲人や聾唖の者を、悪く言う者たちは存在している。それは仕方のないことだとはあきらめていた。五感、五体が満足であれば欠如のある者は己より下位に位置すると思うことができる。
 人は気付かぬうちに他人に上下をつける、とが気付いたのは視力を失ってすぐだった。特にこうした家人のような雇用される者は家族の為、生活の為に仕えている。だからだろうか、らを悪しく言って己の優位を心に保つのだ。
 けれど、陸遜はそうではない。人は皆どこかしら欠けた所があると言い、自らも欠けた所があると認めた。加えて言ったのだ、その欠けた所を埋めるのがだと。どういう思いで口にしたのか、未だには訊いた事が無い。――問い掛けてしまえば、この安寧の時が失われる気がする、と微かに怖れていた。

さま、どうぞ」
 廚人の声に座っていたがはたと顔を上げる。麦飯と野菜が入った汁、だろう。ふわりと香る暖かな食事の匂いに微笑んで、は声の主へと簡略な礼を取った。
「ありがとうございます。運んで頂かなくとも、取りに参りましたのに」
「……いえ、目が見えないのにそんな事はさせられませんよ。全くそれを感じさせない人であってもやはり気にしてしまいます」
「申し訳ございませぬ、煩わせいたしました。この身が少々疎ましゅうござります」
「そう言わず、どうぞ食してください」
「では、ありがたく頂きまする」
 ふふ、と柔らかく笑う。盲目のがこうして笑えば、相手はどこかほっとしたようにして去っていく。気を遣っているのか興味を抱いているのか、それとも蔑みを思っているのか恐怖を覚えているのか。には判ってしまうのだ。廚人は不安を顕わにしていた。
 頭を振って、食事に集中する。考えればいずれ突き当たるのは幼き頃の大病とそれによる失明にしか行き着かない。変える事のできない過去を悔やんでどうしようというのか。は水を飲みながら、今の事だけを考えようと努めていた。
 陸遜に呼ばれた事だけを。


 軽い食事を終えたは陸遜の堂室へと向かう。先よりも激しく雨が屋上の瓦を打ち付けている。ばりばりと、まるで屋舎を破壊しようとするかの如きは、水の尽きない大甕を傾けているようだ。廊宇から垂れる雨水も勢いがあり、飛沫が土を叩いている。絶え間ない轟音。完全に雷雨の下に入ってしまっているのだろう。ぱり、と夜気が震えてすぐに耳を劈くほどの天声が鳴り響く。
「迅雷目を瞑するに及ばず、のままですこと」
 いつか教わった『六韜』の『竜韜』が一節、軍の勢いを例えたものだった。陸遜にも諳誦を求められた事があった。矇者はその身に芸を叩き込んで覚える。だから、も一度聞き知った事は全て記憶していた。ただ生きる為、それがら全盲の謡詠芸を行う生業であるからには、理由は必要とならなかった。求められるままに差し出す。それができなければ生きられない、いとも単純な事。


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