三日目 2010/02/04(木)
7時くらいに一眠りしようと慌てて横になりましたが、予想通り大寝坊をしてしまいました。チェックアウトの時間にフロントから電話があって「ぎゃー!」と飛び起きました。スイマセンスイマセンと謝ってシャワーを浴びると荷造りをしてメイクも適当に部屋を飛び出しました。情けない……。これ以降、外泊する時は絶対に夜のうちにお風呂に入っておこうと固く心に誓ったのでした。
寝坊のせいで予定は大幅に狂いました。虚子住居跡、子規庵は行こうと思っていたのに行けず。松山城、博物館、歴史資料館はできれば行きたかったのに断念。結局お昼を食べてから合流した母と行動することになりました。
萬翠荘(ばんすいそう)→愚陀仏庵(ぐだぶつあん)→坂の上の雲ミュージアム→秋山兄弟生誕地と見て回りました。
ホテルを出て松山駅の方へ。前日の夜からほとんど何も食べていないせいでぐるぐる鳴っているお腹を抱えて、ノートPCの入ったバッグを背負ってフラフラします。母に寝坊したことをメールすると思い切りバカにされ、でも自業自得なので何も言い返せない。ひとまず目についたカフェでお昼を食べることに。お腹が満たされたらなんとかなる、と考えている辺りどうしようもない。
『坂の上の雲 一』を読みながら待つことしばし。フランスのそば粉のクレープ、ガレットです。デザートにショートケーキ付。
満足したら、まあなんとかなるよ! と楽観的になりました。その目の前を坊ちゃん電車が走っていくー!
30分ほどして母と合流。大きい荷物は車に置いて、坂の上の雲ミュージアムの方へ。松山城のある勝山の裾野部分にあります。そこから少し登っていくと萬翠荘、愚陀仏庵が建っています。萬翠荘は建築当初からここにあったそうですが、愚陀仏庵は最近復元されたものです。今年の大雨でその愚陀仏庵が全壊したというニュースでご存知の方もいらっしゃるかもしれませんね。
夏目漱石がまず下宿した愛松亭の跡地に立つ石碑。『坊ちゃん』は松山にいた頃の漱石の経験を元に書かれているので、この今はなき建物も出てくるのでしょうか。実は読んだことがありません。
洋風建築の美しい萬翠荘。瀟洒な造りが随所に見てとれます。大正期に旧松山藩主久松家の別荘として建てられたそうです。中も見てみましょう。
踊り場のステンドグラスから明るい光が差し込んでいます。青色の繊細な表現が見事です。
入口ホールはこんな感じで軍人さんの人形がお出迎えしてくれます。二階は改修中とのことで上がれませんでした。残念。
ちょっとぶれています。すいません。右手に二部屋あるうちの手前の部屋ではミニコンサートが開かれ、奥の一室が展示室として開放されていました。
日露戦争か第一次大戦中に外国人捕虜を収容した施設が松山にはあったそうで、そのことに関して写真をメインに説明がありました。捕虜といってもとても良い待遇をしてもらえたそうで、何回か監視付きで道後温泉に入りに行ったり市内を見学したりしたそうです。もうほとんど忘れてしまっているのですが、一つだけよく覚えているのが、「捕虜の人たちの楽しみのために市内で自転車レースを開催しよう!」とコースを設置してレースを行い、沿道には市民が詰めかけたという話です。すごくのどかな風景が写真の中にはありました。
お庭も洋風です。
庭の隅には井戸が。説明書きが立っていて、それによると松山城築城当時に掘られ、今も水は沸いているとか。漱石のエピソードも。茶飲みだったんですね。
さて、萬翠荘の裏手に回っていくと復元された愚陀仏庵が待っていました。愚陀仏とは漱石の号です。元は市内にありましたが戦災で焼失したとのこと。
二階には丸障子や嵌めガラスがあったりして、なにげに凝った造りをしていますよ。
漱石が松山中学に英語教師として赴任している間の下宿として借りていました。そこに子規が転がり込んできたこともあり、一階に子規、二階に漱石と二人で過ごしたこともあったそうです。子規の回りには俳句仲間がすぐに集まってきて賑やかにするので漱石はうるさがったそうですが、結局はそこに交じって一緒に俳句を読んだとか。
坂の上の雲ミュージアムまで戻ってきました。残念なことに中は撮影不可でした。外からお楽しみください。
『坂の上の雲』は司馬遼太郎が松山出身の正岡子規、秋山好古、真之兄弟を中心にして日露戦争を迎える明治の激動の時代を描く小説です。ひたすら登場人物が多い。むだに横道にそれてまめ知識が増える。しかしめちゃくちゃおもしろい。私的な感想ですが。
この坂の上の雲ミュージアムは安藤忠雄が設計した三角形の中央吹き抜け構造の地下一階、地上四階建ての建物です。二階からスロープ状に展示された資料を見て四階まで上がっていきます。
毎年テーマを決めて企画展をしているらしく、この時は「秋山好古」がテーマでした。馬はなかったのですが日本馬の高さに設置された当時の騎兵の鞍があったので乗ってみました。高いです。痛いです。こんなんで戦うなんてすごいなあ。他に大正時代に好古が招かれた宮中晩餐会の料理の再現もありました。ニコニコしながら説明をしてくれたおじいさんも別世界の料理ですなーとあっけらかんに笑っていました。チラシはタダなので。
なんだこのパネルかわいいな……と思ったら顔が抜けるだと!? お越しの際はぜひ、秋山兄弟や子規になってみてください。
その後、近くの秋山兄弟生誕地に向かいました。江戸末期からこの地に秋山家は住んでいたそうで、今は戦災で失われた生家に近い形で建物が復元されています。なぜか外観を撮るのを忘れてしまいました。造りはパンフレットでお確かめください。
他にお客さんがいなかったからか、やたらと張り切って解説ビデオをつけてくれたりストーブを用意してくれたりする係のおばちゃん。この日、二月四日は偶然にも真之の命日でした。それもあってかおばちゃんの説明は止まるところを知りません。秋山家は伊予水軍の末裔で一時は讃岐の方に移り住んでいたこともあるとか、表にある真之の銅像はイタリア滞在中に彼の死を知らされた知人だか部下だかが彫刻家の所へ写真を持って行って「この姿の銅像を作ってくれ」と頼んだもののレプリカだとか……。
饒舌なおばちゃんからさらにさらにと聞き込みをする天王屋、寒さに辟易してストーブの前でげんなりしている母。……いつもの光景です。
ビデオは主に生家復元にあたっての秋山兄弟の子孫の方へのインタビューでした。好古のお孫さんにあたるおじいさんは、彼がよく黙って酒を飲んでいたとか、酒の飲み過ぎで足を悪くしていたとか、そういうことを語っていました。そういう話を聞くと、歴史上の偉人ではなくて身近なすごい人に思えました。一気に親近感がわく不思議。
ここにも井戸があります。兄弟が生まれた当時のままの位置だとか。今も湧いています……ってどこかで同じことを。
表の庭に好古、真之の銅像が。
騎乗した好古の像の元は道後公園にあったそうですが、太平洋戦争中に回収されてしまったとのこと。これらはどちらもレプリカです。サインは真之像のもの。
午後四時半近くなって、母に帰宅を命じられました。不平不満を噴き出すものの、寝坊したのは私であるので大人しく言うことを聞きます。
高速を走りながら見えた石鎚山は冠雪していました。
二泊三日松山散策は以上をもって終了です。おつかれさまでした!
まとめるのが遅くなってしまって、メモを取らずにいたことのほとんどを忘れてしまっていたり、建物が倒壊していたり、まあいろいろありましたが、近々また松山へ行く予定なのでその時に今回行けなかったところ、不十分なところを補えたらと思います。
近くにあるからこそ目を向けられなかったのかなあ、と地元のことを深く知ろうと思うきっかけになった、とてもよい旅行でした。
おまけ
坂の上の雲ミュージアムのパンフと入場券。バラバラーっと縦に広がります。
秋山兄弟生誕地、上に同じく。こちらは横開き。
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2010/12/11
天王屋よしわたり