二月も後半に入ったある日。
 今日の放課後も往人は屋上に来ていた。
 空は抜けるような晴天。だが、得てして冬の晴天の日は寒いものだ。この日も往人達の身体をつ包む空気は、身が締まるほどまで冷え切っている。そんな凍えるような寒さの屋上に、ふたり。
 
「…、この寒いのによくやるな」

 出来るだけフェンスに近寄らない様にして(風が吹き付けて寒いからだ)、屋上の貯水棟の壁にもたれかかっていた往人が、同じように壁を背にしてハーモニカを吹いていたみなもを見て、そう呟いた。
 その声が聞こえたのか、みなもがハーモニカを吹くのを止めて往人の方を振り返る。みなもが何か言おうとして、
「いや、なんでもない」
 往人が苦笑しながらそれを制した。やや不思議そうな表情のみなも。だが、往人がそれ以上何も言わないのを見て、みなもはまたハーモニカを吹き始める。

 いったい、この少女はいつまでハーモニカを吹き続けるのだろう。三学期に入ってみなもと出会ったあの日から、放課後に往人が屋上に来ると、必ず彼女がハーモニカを演奏していた。往人はあまり屋上には来ないが、それでも毎回会うということから、みなもはほぼ毎日、ここに来てハーモニカを吹いているのだろう。
 ちなみになんで往人が屋上に来るようになったかというと、みなもと出会った次の日もハーモニカの音が聞えてきたので、不思議に思って往人が屋上に行ってみると、またみなもがハーモニカを吹いていたからだ。それ以来、往人は放課後に気が向くと屋上にくるようになった。要するに、みなものハーモニカを聞きに屋上に来ているのである。

 ――しかし、なんでわざわざ屋上でハーモニカを吹いているんだろうか。
 
 往人はこれまで、直接その事をみなもに聞いたことはなかった。
 そもそもなぜみなもはハーモニカを吹いているのだろう。普段は滅多に人の来ることのない放課後の屋上で吹いていることから、はじめは練習の為にやっているのかと思っていた。また、本人もそう言っていた。だが、あまり人に見られたくないなら、屋上でなくても他に良い場所がいくらでもある。それならば、屋上でなければならない理由があるのかもしれない。
 屋上でなければならない理由。それはいったいなんなのだろう。いや、その前になんでハーモニカなのか…。往人の思考は堂々巡りにはまっていた。

「どうしたんですか?」
「へっ?」
 往人が自分の中から外へ思考を返すと、いつの間にかみなもが心配そうに前に立っていた。というか、顔を覗き込まれている。
 慌てて往人は自分の身体を後に引いた。
「い、いや、どうもしてないよ」
「そうですか?」
 落ち着きのない往人の様子に、はてなな顔のみなも。
「ああ」
 なんとか落ち着きを取り戻して、往人は答える。
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「いえ、さっきからなにか考え込んでいるようでしたので」
 にっこりと笑いながら言うみなも。
 その笑顔を見て、「かなわないな」と思いながら往人は心の中で苦笑する。と同時に、みなもに「なぜハーモニカを吹いているのか」と言うことを聞いてみようと思った。
「まあ、考え込んでいたって訳じゃないんだけど」
 みなもはさっきと同じく、笑顔のまま往人の次の言葉を待ってくれている。

「なんで吹いているのかな、と思って。ハーモニカ」
 
 そんなことを聞かれると思っていなかったのか、みなもはちょっとびっくりしたような表情をする。
「まあ、嫌なら答えなくてもいいよ。ただ、ちょっと気になってさ」
「えと、ハーモニカの練習をしているんですけど…」
 ちょっと慌てた声でみなもが答えた。なるほど、確かにみなもはハーモニカの練習をしている。が、微妙に質問の答えからははずれていた。
 往人は質問の仕方を間違えたと思いながら、尚も慌てている様子のみなもに言う。

「まあ、それはそうなんだが…。でも練習を人に聞かれたくないなら、なにもこんな寒い屋上じゃなくても他に場所はあるだろ?なら何か理由があるんじゃないかと思ってさ」
 言いながら、往人は寒さに身体を震わせた。先程からやや風が出てきて、さすがに屋上は寒い。コートを着てくれば良かったなと思いながら、往人は言葉を続ける。ちなみに、さっきと質問の内容がずれていることには気が付いていない。
「ま、無理には聞かないよ」
 往人は「はぁっ」と息を吐いた。目の前が一瞬白く染まる。
 ――今日は寒くなるって分かってたのに、なんでコートを着てこなかったんだろうな。
 自分の馬鹿さ加減に往人が鬱になっていると、しばらく黙っていたみなもが口を開いた。
 
「あの…。聞いても、笑いませんか?」
「うん?なにがだ?」
 鬱に入っていた往人は、みなもの言葉の意味がとっさには分からなかった。
「わたしが、ハーモニカを吹いている理由です」
 みなもがちょっと硬い表情で言った。それを聞いて往人が真面目な声で答える。
「ああ、聞いても笑わないよ。俺が聞いたことだしな。それに」

 そこで一呼吸を置く。
「それに?」
「笑うなら、この寒い中に屋上でハーモニカを吹いてる時点で笑ってるよ」
 往人は笑顔で、極めて気楽に言ってやった。それを聞いたみなもは驚いた表情をして、
「ふふっ。それもそうですね」
 硬かった表情を崩して笑った。そして、言葉を紡ぎはじめる。
「わたしがここでハーモニカを吹いているのは、練習を人に聞かれるのが恥ずかしかったっていうのと、あと、本当はもう一つ理由があるんです」
 往人は黙ってみなもの言葉を聞き続ける。
 
「わたしがここでハーモニカを吹いているのは、音色をある人の耳に届けたいからなんです」

 目の前の少女が、懐かしげに、そして少し寂しげに言った。
「ある人っていうのは?」
「ある人っていうのは、わたしが子供だったころに、引っ越しで離ればなれになってしまった人のことです」
 やや顔を赤らめて言うみなも。だが、往人ははてなな顔をしていた。
「それが、なんでハーモニカを吹き続けていることに繋がるんだ?」
 話がうまく繋がってこない。なんで引っ越しで離ればなれになった人と、みなもがハーモニカを吹いていることが繋がるのだろう。
 
「約束、なんです」
 みなもは、それがとても大切なもののように、言った。
「その人と、引っ越しする時に約束したんです。わたしが、ハーモニカを吹き続けるって。そして必ずその人の耳に届けるって。そうすれば、その人がわたしを見付けられるからって」

「なるほど。でもなんでハーモニカなんだ?」
 なんとなく納得はできた。いかにも子供が考えそうな約束だ。だが、なんでハーモニカでなければならないのだろう。
「あ、それはその人が引っ越しするときに「この俺のハーモニカをお前にやる」って言って、その人のハーモニカをわたしにくれたからなんです。だから、それを吹いていれば、どこかで会った時にわたしのことが分かるって」
 懐かしげに話すみなもは、まるで小さな少女のようにも見えた。
「なるほどな…」
 往人はもう一度納得して、空を見上げる。そんな往人の様子を見て、みなもがポツリと言った。
「やっぱり、変ですよね…。この年になって、そんな昔の約束を守ってるなんて」
 そう言うみなもの表情は、どこか寂しげだった。そして、そんなみなもを見て、往人も何も言えなくなってしまう。
 気まずい、沈黙。
 しばらくふたりとも黙っていたが、おもむろに往人が口を開いた。
 
「そういえば、俺が今日ここに来たのにも、実は特別な理由があるんだ」

 屋上の建物の壁に背を預けて、空を見上げる。
「特別な理由、ですか?」
「ああ」
 往人は空を見上げたまま答える。
「待ってるんだよ」
「待ってる、って?」
 往人はそれに答えず、ただ空を見つめている。その様子を見て、みなもも同じようにそらを見上げた。
 みなもがここに来た時に晴れていた空は、いつの間にか、どこからか流れてきた分厚い雲に覆われ始めている。
 しばらくの間、そのまま二人は空を見続けた。
 もう空は半分ほどが雲に覆われていた。そして、空を見ている二人の目に、白いものが飛び込んでくる。
 
「雪…?」

 空から降って来ていたもの。
 それは白い雪の結晶だった。
 降り出した雪が、だんだんと街を白く染めていく。
 雪化粧をされていく街を眺めながら、みなもが往人の言葉の意味に気付いて言った。
「待っていたのって、雪だったんですね…」
「ああ」
 往人が手の平を広げて、雪の結晶を受け止める。
「でも、なんで雪が降るってわかったんですか?」
 みなもも同じように手を広げながら、不思議そうに尋ねる。
「ん。なんとなくそういうのが分かるんだよ、今日は天気が良くなるとか悪くなるとか。なんとなく空が重い感じがするような感覚で。それが俺の『力』らしい」
 往人は目線を空からみなもに移しながら言った。
 雪の降る中、白く染まる街を眺めているみなも。その姿を、真剣に見つめる。
「そういえば、さっきの話だけど」
「えっ?」
 みなもが往人の方を振り向き、きょとんとした表情をした。
 
「引っ越しで離ればなれになったって言う奴。「俺のハーモニカをやるよ」って言ったってことは男なのか?」

 真剣な表情を崩して、ニヤリと笑いながら往人は言った。その言葉を聞いて、みなもの顔が赤く染まる。
 どうやら図星らしい。
 そんな様子のみなもを見て、往人が顔を真剣な表情に戻して言った。
「さっき「やっぱり、変ですよね…。この年になって、そんな昔の約束を守ってるなんて」って言ったよな」
「え…」
 顔を赤くしていたみなもが、その表情をやや硬くする。
「本当に、それは馬鹿げた事だと思うか?」
 答えられないみなも。
「引っ越しで離ればなれになったそいつのこと、好きだったのか?」
 その往人の言葉に、再びみなもは顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。そんなみなもに、往人が空を見上げて言った。
「俺の待ち人は来たぞ」
 往人は両手を上に向けて、落ちてくる雪のかけらを受け止める。みなもも、空を見上げた。目の前には、優しく降りてくる雪達。その雪を見つめながら往人が言葉を紡ぐ。
「確かに、古い思い出に縋って生きていくのは、俺は馬鹿げたことだと想う。だけど、思い出に縋るんじゃなくて、想う事。それを信じられること。そして、想うことが「力」になるなら」
 真剣な表情で自分の方を見ているみなもを見つめながら、言葉を続ける。
「それは肯定してもいいんじゃないかな?それが、信じる力になるんなら、それでいいんじゃないかな?ハーモニカを吹き続けることで、その「想い」を信じ続けられるんなら、さ」
 往人はみなもを見つめて、笑った。
「そいつのこと、今でも好きなんだろ?」
 みなもは往人を見ながら、そして顔を赤らめながら、強く、頷く。
 
「はい。今でも、その人のことが大好きです」

 みなもは半分涙声になりながらそう言った。
「そうか。きっと会えることもあるさ。それに、あんたハーモニカ上手いしな」
「そんなこと、ないですよ」
 みなもがまだ涙目で、でも照れ笑いをしながら答える。
「いや、俺が聴いた中じゃ一番上手いよ。もし、こんなに想っている奴がいるのに約束を忘れるような馬鹿が居たら、俺がそいつを捕まえて思い出させてやる」
 そんなことを言う往人に、びっくりした表情のみなも。
「そういえば、その今でも好きな人の名前はなんて言うんだ?」
「え?」
「いや、引っ越し先にそいつがいたら、お前がここにいるってことを伝えられるからさ」
「え?引っ越し…、するんですか?」
 驚いたようにみなもが言った。
「ああ。まあ、変に気を使われるのも嫌なんで、まだ誰にも言ってなかったんだけどな。今月中に」
「今月中、ですか?」
「そうだ。だから、そいつの名前を教えてくれ」
 みなもは軽く目を閉じたあと、目を開いてその人物の名前を言う。
 
「まこちゃん…。丘野真です。わたしは、まこちゃんって呼んでましたけど」

「まこちゃんか。分かった。もし向こうで会ったら、お前のことを伝えておくよ」
 その言葉に、みなもが「お願いします」と言って微笑んだ。そして、往人がちょっと真剣な口調で言った。
「そういえば、俺からも一つ頼みがあるんだけど、いいかな?」
「なんですか?」
 みなもが笑顔で聞き返してくる。
「ハーモニカ、聴かせてもらえないかな?引っ越す前にもう一度聴いておきたいんだ。…、ダメ、かな?」
 その言葉に、一瞬きょとんとするみなも。そして、照れ笑いをしながら、一本のハーモニカを取り出した。それに、そっと唇をつける。
 先程まで空を舞っていた雪は消えて、綺麗な夕焼けが顔を覗かせていた。
 その鮮やかな夕焼けの中でハーモニカを吹く少女。
 懐かしい音が空気中を伝わり、往人の耳に届く。
 ――そうか。こんなに強い想いを持っていたから。
「こんなにも心に響くんだな…」
 風が、吹いた。
 往人はその風に載って、ハーモニカの音色がどこまでも伝わっていくような気がした。





 
 数日後

 校門には往人のクラスメイト達が集まっていた。
 往人の手には花束。周りには一年間共に過ごしてきた生徒達。
 中には、往人が転校すると聞いて泣いてくれた生徒もいた。
 そんな仲間達に手を振りながら、往人は振り返って校門の方へ歩き出す。
 往人が校門を出て坂に差し掛かった頃。
 どこからともなくハーモニカの音が流れていた。
 今日もその音が、夕暮れの校舎を郷愁の色に染め上げていく。
 だけど、それは寂しさだけではなくて。
 「想い、伝わるといいな…」
 往人は、思わずそう呟いて苦笑していた。
 
 
 End
 
 
 
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