In the wind

 夕暮れに染まる屋上から、ハーモニカの音色が流れていた。
 どこか郷愁を帯びたその音が、赤い色に染め上げられた学校中に響き渡る。
 実際にはハーモニカの音量などはたかがしれているのだが、確かに空気中を伝わる、懐かしい曲。
 どこから聞こえてくるか分からないその音を聞いて、思わず耳を向ける生徒。あるいは懐かしんで、立ち止まる生徒。
 ここ最近――冬休みが開けた頃からだろうか――放課後になると、ハーモニカの音色が校舎を響き渡るようになった。最も、放課後に学校に残っている生徒というのは、部活に打ち込んでいたり、勉強に励んでいたり、雑談に興じていたりするのがほとんどなので、その「音」に気が付く生徒はあまりいないのであるが。
 それでも、音は流れ続ける。いつの間にか、一月も残り僅かになっていた。
 今日もハーモニカの音色が空を流れていく――。

 一月も終わりに近づいたある日。
 授業も終わった学校は、独特の騒がしい空気に包まれていた。
 解放感につつまれた学校。部活の練習に励む生徒。友達と雑談している生徒。それぞれの生徒が、思い思いの放課後を楽しんでいる。
 そんないつもの放課後。ここ一年二組の教室にも、掃除当番に当たっている生徒が残っていた。
 
「お前ら、もうちょっと真面目に掃除しろよ…」
 そのうちの一人の、比較的長身で細身の男子生徒がふざけあっている他の生徒に言った。ブレザーの制服を着た真面目そうな青年だが、目つきが悪いせいであまり付き合いのない生徒達からは怖がられることが多い。
 その生徒の隣で、モップで床を掃除していた生徒が彼の方を振り向いて言った。
「往人、脅して掃除をさせるのはどうかと思うぞ」
 そう言いながらも、彼の口調は往人を咎める風ではなく、極めて気楽そうである。いや、気だるそうと言った方が正しいか。どちらにしろ、往人をからかっていると言うことにかわりはないのだが。
「人聞きの悪いことを言うな、歩。誰が脅してるって言うんだ」
「往人」
 歩と呼ばれた少年は悪びれもせずに即答した。いつものこととは分かっていても、友人のその様子に往人は思わずため息をついてしまう。
「お前なぁ…」
 そんなやり取りをしていると、先ほどふざけていた女子生徒から言われた。
「ほらほらっ、あんた達も掃除しなさいよっ」
「お前に言われたくないぞ…」
 疲れた様子で往人がそうツッコミを入れる。その生徒の後の方では、うにゅうにゅ言いながら机を運んでいるクラスメイト。そのほうをチラッと見てから、
「そういうことは丘野みたいに真面目に掃除をやった奴が言うセリフだ」
「ひなたがどうかしたっ?」
「うわっ!?」
 一瞬目を離した隙に、いつの間にか目の前に現れた生徒。さっきまで確かに掃除をしていたはずなのに、いつの間にか往人の前に立っている、この不思議な生徒の名前は丘野ひなた。去年の夏に、この風音市に引っ越してきた生徒だ。その明るい性格と面白い行動、言動で、今やすっかりクラスのムードメーカーと化している。
 
 ――しかし、いつもながらコイツの行動は読めないな……。
 そう思いながら、何とか往人は落ち着きを取り戻して言った。
「いや、なんでもないぞ」
「往人くんが、ひなたに気があるって話をしてたんだよ」
「おい」
「そうそう、往人がよくお前のことを見てるって話」
「おい、歩。お前まで言うか」
「う、うにゅっ?!そうなの?」
 二人の言動を聞いて、びっくりしたような顔のひなた。その表情を見て、再びため息をつく往人。
「あいつらの言うことを真に受けるなって……。お前みたいに真面目に掃除しろって事をコイツらに言ってたんだよ」
「あ、なるほど〜」
 ひなたが頷いて答える。
「おい、丘野。なるほどってどういうことだ」
 ゴンッ!!
 歩が拳をつくってひなたの頭を小突いた。
「うにゅっ。痛い……」
 涙目になるひなた。 
「気にするな。ちょっと小突いただけだ」
「今のは「ちょっと小突いた」って音じゃなかったぞ…」
 往人があきれたように言った。
「うにゅう…。早く掃除終わらせちゃおうよ」
「そうだな。さっさと終わらせるか」
 言って、往人達はそれぞれに散って掃除を再開する。が、歩は尚もひなたに問いかける。
「おい、丘野。結局なにが「なるほど」なんだ?」
「はい、歩くんもっ」
 ひなたはそう言って、さっきまで歩が使っていたモップを目の前に突き出す。
「お、おう」
 思わずそれを受取ってしまう歩。それを見てニコニコ顔のひなた。
「早く終わらせちゃおっ」
 ニコニコ顔のひなたに言われて、歩も掃除に戻る。そんな歩の様子を見て、往人も苦笑する。
 ――あいつもひなたには弱いよな……。
 まあ、そういう往人もひなたの笑顔には弱いので、あまり人の事は言えないのだけど。
 
 その後、掃除も滞りなく終わり
「それじゃだよっ」
 ひなたがいつものように元気よく挨拶をして、真っ先に教室から出ていった。他の生徒達も、自分の担当が終わった生徒からそれぞれに教室を出ていく。
 往人も、自分が使っていたモップを、教室の隅にある清掃用具入れに片付ける。
「しかし、いつもながら丘野のあの元気はどこから出てくるんだろうな」
 往人のその言葉に、歩がゴミ袋を縛りながら答えた。
「さあな。でも、あいつの笑顔って不思議と元気になるよな」
「そうだな…」
 往人も笑いながら肯定した。その往人の表情を見て、歩がニヤニヤしながら言った。
「お前、やっぱり丘野に気があるんだろう」
「まだ言うか」
 往人が苦笑する。
「ま、面白い奴だしな。結構倍率高いかもしれないぞ?」
「だからそんなんじゃないぞ」
 往人が反論するが、歩は気にせず、縛ったゴミ袋を持って立ち上がった。
「じゃあ、ゴミは俺が捨てとくから。また明日な」
 そう言って、歩は教室を出ていく。
「ああ、また明日」
 往人はそんな歩を見送ってから、カバンを取りに自分の席に歩いていく。

「俺も帰るか」
 既に教室に残っているのは往人だけになっていた。
 静まりかえった教室。聞こえてくるのは外からの音だけだ。
「掃除当番じゃなかったら、適当に誰かとふらついて遊んで帰るんだけどな…」
 今日はこの後に取り立てて用事もなかったのだが、誰も人がいない教室に残っていてもしょうがないので、往人もおとなしく帰ることにする。机の上に置いておいたカバンを手に取り、なんともなしに教室を見まわす。
 冬の夕暮れは早く、窓からは夕日が差し込んで教室を赤く照らしていた。思わず、呟く。
 
「この学校とも、あと少しでお別れか…」

 ふと、往人は閉め忘れていた窓に気が付いた。担当の生徒が忘れていたのか、それともまだ人が残っていたのを見て閉めなかったのかは分からないが、戸締まりをきちんとしておかなかったせいで、夜のうちに猫が入って来たりしてしまうことがよくある。
 見てしまったからには締めておかないといけないと思って、往人はその開いた窓に近づいて行く。
 開いた窓からは、運動部の生徒達のかけ声が響いている。と、一瞬、その中になにか別の音が混じっているように聞こえた。
「空耳か…?」
 往人は窓から身を乗り出す様にして外を見た。夕焼けの光が眩しく目に飛び込んでくる。グラウンドには、やはり練習に励む生徒達。
 ――まさかあの中からじゃないよな。
 さっき一瞬聞こえた音は、なにか懐かしい音だった。懐かしい楽器の音。
 往人はそれが空耳だったかどうか確かめようと、耳を澄ませて辺りを見まわす。と、一瞬、風が吹いた様に感じた。そして
 
「また聞こえた」

 空耳ではなかった。
 かすかに、でも確かに聞こえる懐かしいメロディ。たしか、十数年前くらいの歌謡曲だったろうか。昔、小さい頃に聞いた事がある曲だ。そして、それを奏でている楽器は、
「ハーモニカ、か?」
 誰しもが、小学生くらいの時に吹いた事のある楽器だろう。
 懐かしい音を奏でる楽器。
 でも、この年になるとハーモニカを吹く生徒なんてそうはいない。楽器に興味を持つ生徒なら、大抵は吹奏楽部か軽音学部に入るか、自前でギターなどの楽器を買って演奏したりするだろう。
 だから、小学校ならともかく、この学園から聞こえてくると言うのはなんとなくおかしいと思った。
 ハーモニカの音色は上の方から聞こえてくる。吹奏楽部の部室は、今いる階の端の方だ。方向が違う。
 往人は何となくこのハーモニカの音が気になって、この音の流れてくる元を探してみようと思った。それに、どうせ今日ば暇だった。
「音が聞こえてきたのが上の方って事は…。こっちの校舎の屋上か、向こうの校舎の屋上か」
 だが、今いる校舎の方の屋上ならば、もう少しはっきりとした音が聞こえそうだった。ならば、向こうの屋上だろうか。
 そう思って往人は窓を閉めて、隣の校舎へと向かった。
 往人が通うこの学園は、二つの校舎が隣り合ってくっついてはいるが、それぞれが別の学園だという変な学校だ。
 その為に、校舎は双方を合わせるとかなり広い。
 その広い校舎の中、往人はあまり来ることのない隣の校舎を、カンだけを頼りに歩く。
 二つの学校の合同イベント以外ではあまり来ることがないだけあって、さすがに道がよくわからない。

 廊下に出てからは、ハーモニカの音も聞こえなくなっていた。さすがに窓を閉め切った校内までは、ハーモニカの音は届かないようだ。それとも、ハーモニカを吹いていた人物は、もう演奏を止めて帰ってしまったのだろうか。
 もとより半分は暇つぶしでやっている事だし、それでもいいと往人は思った。でも、せっかくここまで来たのだから、出来れば吹いているのがどんな人物が見てみたい。
 そんなことを思いながら、しばらく往人が歩き慣れない校舎を歩いて行くと、なんとか屋上まで行けると思われる階段に辿り付いた。おそらくこの上だろうと目星を付けて、階段を上っていく。
 目の前に、鉄性の扉が見えてきた。ハーモニカの音は聞えない。
 階段を昇りきり、その扉に手を掛けて開く。
 
 ヒュオゥゥゥゥゥゥゥゥ…。

 風が吹いた。
 思わず目を閉じて、頭を押さえてしまう。そして、その風の中に教室で聞いたメロディが聞こえている。
 しばらくして風が止んだ。
 往人は閉じていた目を開ける。そして、はっきりと聞こえてくるハーモニカの音。
 
 夕焼けが栄える屋上で、少女がハーモニカを吹いていた。

 いや、少女という表現は正しくないのかもしれない。彼女は学園の制服を着ていたし、こちらに背を向けていて顔は見えなかったが、風になびく長い髪と、女性らしく、そしてすらっとした体型は少女という容姿でもない。
 だが、往人は彼女には「少女」という形容が合っていると思った。根拠はない。
 そこまで考えて、自分が扉を開けたまま立ち止まっていたことに気が付き、往人は思い出したように扉から屋上に出た。
 
 ガシャン。

 往人は演奏の邪魔をしないようにゆっくりと扉を閉めようとしたのだが、思いがけず大きな音を立ててしまう。
 その音に驚いたのだろうか。ハーモニカの音が止まり、少女がゆっくりと振り向いた。
 ――綺麗な人だな。
 夕日を背にして髪をなびかせる少女の姿に、思わず見とれてしまう。その少女と目が合った。

「こんにちは」
 少女がにっこりと笑いながら言った。屈託のない、太陽のような笑顔。少女にとっては突然の闖入者である自分に対して向けられたその笑顔に、往人は戸惑ってしまう。
「お、おう」
 言ってから、自分でもなんて間抜けな挨拶だと思ったが、もう遅い。少女は気にしたようでもなかったが、それ以上はふたりとも言葉が続かない。沈黙。
 往人は気まずくなって、とりあえずなんでもいいから口にする。
「あ、あのさ。ハーモニカ吹いていたのって、君か?」
 一瞬きょとんとした後で、少女はちょっとはにかんで微笑みながら答えた。
「ええ、そうです。…、えっと、あなたは?」
「あ、えーと、教室に残っていたらハーモニカの音が聞えたんで、ちょっと気になったもんだから。誰が吹いてるのかなって思ってな」
 少女の質問にやや慌てながら答える往人。
 考えてみれば、放課後の屋上なんて普通は誰も来ないのだろう。往人がなんでここに来たのかというのは、至極当然の質問だった。まあ、それをいうなら、目の前にいる少女にも十分それは当てはまるのだけれど。
「君はここで、ハーモニカの練習をしてたのか?」
 往人が少女に尋ねると、少女は照れながら答えた。
「はい。あまり上手じゃないんですけど…。あ、わたしは鳴風みなもっていいます」
「長崎往人だ」
 なんとなく自己紹介をする二人。
「そういえばさっき吹いてた曲だけど、大分昔の曲だよな?」
「ええ。でも、好きなんです、この曲」
 にっこりと笑いながら答えるみなも。その表情を見て、よく笑う少女だなと思う。
「そうか。俺も嫌いじゃないぞ。もっとも聞いたのは俺がまだ小さい頃だったけどな」
 言って、往人も笑った。この少女の笑顔には、人をも笑顔にさせる力があるようだった。
 
 ――まるで丘野の笑顔みたいだな。

 なんとなくそんなことを思う。
「そういや、なんでこんなところで練習してたんだ?」
 往人がみなもに尋ねる。
「えっと、あんまり上手じゃないから…。人に聞かれるのが恥ずかしくって」
 みなもが照れ笑いをしながらそう言った。
「そんなことはないと思うぞ。結構いける」
「あ、ありがとうございます…」
 照れて顔が赤くなるみなも。その表情を見て、ダメかな、と思いながらも、往人は考えていたことを言ってみる。
「できれば、ちゃんと聞いてみたいんだが」
「え?わたしのハーモニカをですか?!」
 みなもがびっくりした表情をする。
「ああ。駄目かな?」
「えっと…」
 困った顔をしているみなも。しばらく何かを考えるように視線を巡らして、そして恥ずかしそうに言った。
「えっと、失敗しても笑わないっていうなら――」
「ああ、約束する」
 いいですよ、という前に、往人はそう言っていた。
 みなもはそんな往人の様子を見て照れ笑いを一つ浮かべ、目を閉じて、静かにハーモニカを吹き始める。
 
 空気中に広がっていくハーモニカの音。
 奏でられる懐かしいメロディ。
 それらが往人を囲み、包んでいく。
 体中に染み入ってくる、懐かしい旋律。寂しさを感じさせる音。大気を伝わり、風が運んでくるハーモニカの音が、往人の心を熱く、せつなくさせる。その音には力があった。
 それはハーモニカの音か、曲か。それともみなもの心がそうさせているのだろうか。
 
 屋上を、さわやかな風が吹いた。

 短いその曲は、既に終わろうとしていた。
 みなもがハーモニカを吹き終える。
 
 パチパチパチパチ…。
「いいもんを聞かせてもらったよ」
 往人がハーモニカを吹いていたみなもを拍手で称える。
「あ、ありがとうございます…」
 照れ笑いをし、顔を赤らめながら答えるみなも。
「上手いもんだな。それなら国際大会でも入賞をねらえるぞ」
 淡々とした調子で言う往人の言葉に、みなもはきょとんとした表情をして、そして笑って言った。
「ハーモニカに国際大会なんてありませんよ。それに、楽器の場合は演奏会です」
「そうだったな…」
 頭を掻きながら往人が言った。たまに頭の中で考えた馬鹿な事を、思わず口にしてしまうことがあるのが往人の悪い癖だ。
 そんな様子の往人を見て、クスクスと笑うみなも。
「長崎さんって、面白い人ですね」
「そうか?俺は屋上でハーモニカを吹いている奴のほうが面白いと思うぞ」
 往人の言葉に、みなもはちょっとムッとした表情をしたが、
「それもそうかもしれませんね」
 すぐに笑顔に戻り、そう言って笑った。
「しかし、いつの間にか日もほとんど沈んじまったな…」
 往人とみなもが話し込んでいる間に、日も大分暮れてしまっていた。夕焼けに染まっていた空も、今は微かに浮ぶ雲にその跡が見られるだけになっている。
「そういえば、通学は路電か?」
「ええ、そうですけど」
 質問の意味がいまいちくみ取れず、はてなな顔のみなも。
「そうか。なら俺も路電だから、駅まで一緒に帰らないか?もう大分暗くなってきて物騒だしな」
「そうですね。じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
 そう言って、みなもはハーモニカを自分のバッグにしまい、往人と共に屋上から出ていった。
 
 空にはもう星達が顔を覗かせていた。

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