『闇の雨』 



1



日本は醤油の匂いがする国だ。
ずっと以前、そんな話を何処かで聞いたような気がする。
インドでの修行を終え、帰国した伸之助は冗談のようなその言葉を理解できた。
飛行機を降り立った瞬間、真新しい醤油の瓶を開封したような匂いが伸之助の嗅覚をほのかに刺激し、ああ、なるほどと思った。
インドはインドで、やはり同じようにスパイスの匂いがした。
住み慣れたところを離れて初めて分かることは沢山あり、これもそのひとつなのだろうと伸之助は考えた。





日本を離れていたのはほんの数ヶ月だが、街並みはところどころ変わっている。
日本で最も人口の多い東京の、それも繁華街の賑わいは相変わらずだ。
「……ハンバーガー……」
赤地に黄色でエムのマークのハンバーガーショップが目に付き、思わず足を止めた。
インドへ渡る前、相川摩季と、そしてその友人達とともにこの店をよく訪れていた。
週のうち半分は来ていた様な気がする。
他にもハンバーガーショップの類は沢山あったが、一番安いからという至極簡単な理由でいつもここか、もう少し先のショッピングセンターの中にある、同じ系列の店のどちらかだった。



―――美味しそうに、食べてたな。



記憶の中、摩季はいつもフィレオフィッシュをとても美味しそうに食べていた。
伸之助は几帳面な性格そのままに、メニュー表の左上から順番に、毎回違うものを食べていた。
伸之助がフィレオフィッシュを頼んだ日、―――やはり摩季もフィレオフィッシュだった―――摩季の方から珍しく話しかけてきたのを、伸之介は覚えていた。
「時田君、今日はフィレオフィッシュなんだ。同じだね」
伸之助がフィレオフィッシュの包みを手にした時だった。余り笑わない摩季がにっこりと笑った。
実際それなりに美味しかったが、摩季の笑顔というスパイスが加味されていた事は否めなかった。
何故ならその日の昼食、伸之助が学食で食べた日替わり定食のメインは白身魚のフライだったからだ。
オーダーして代金を払った後で、しまった、と思った。




―――もう、ここへ摩季さん達と一緒に来ることは二度とない。
    あんな風に、仲良くすることも。




それは予感などという甘いものではなく、決意だった。
ハンバーガーショップの前もまた、仄かに醤油の匂いがした。肉の焼ける匂いと、揚げ油の匂いと混じっていて、伸之助は逃げるようにそこを離れた。





伸之助は祖父母と住んでいた。実家は祖父が住職を務める某寺だ。2年前までは両親も一緒に住んでいた。
彼の両親は、今東京にはいない。商社勤務の父親の転勤で2年前から北海道に住んでいる。
あと少なくとも2,3年は帰れないらしい。伸之助は両親にインド行きのことを知らせなかった。
自分が居ない間に電話があっただろうが、祖父母が上手く言い包めてくれた筈だ。
昔から、両親は伸之助を規矩規範に嵌めたがり、祖父母は逆に伸之介の好きなようにさせたがり、そのことで両親と祖父母はよく対立していた。
どちらの言い分も理路整然としてい、冒頭には必ず「伸之助は一人息子だから」という一言があった。
伸之助の気持ちは当たり前のように祖父母に向き、父の転勤の際、両親と共に北海道に行くという選択をせず、東京に残った。
閑静な住宅街の中心にあるその寺に着く頃には、醤油の匂いはすっかり気にならなくなっていた。
境内へ足を踏み入れると、そこは外界とは一線を画した空気が漂っている。
そこは寺社仏閣の持つ独特の雰囲気とは別に、ある種の力のようなものが、確かに存在していた。
人の心を落ち着け、鎮めてくれる力。インドでの修行後、第六感をも凌駕するといってもいいほどに精神が研ぎ澄まされた伸之助には、 それははっきりと感じ取れた。
久々に会う祖父母は老いという言葉そのままに、一回り小さくなったような気がした。
祖父母は伸之助の無事を喜んでくれ、インドで何をしたのかなどということには殆ど触れなかった。
土産らしい土産も買わずに戻ってきた不躾を詫びる孫に、
「お前の無事が何よりの土産だ」
と、祖父母は皴だらけの顔をなおくしゃくしゃにした。
案の定、伸之助のいない間に両親から電話が何度かあったらしいが、ただ伸之助は元気かと尋ねただけで、電話に出た祖母が元気だと答えるとそれだけだったそうだ。
父は札幌支社の重役として、母はカルチャークラブとボランティアにそれぞれ忙しいらしい。
伸之助は学校の成績が優秀だから、心配もあまりしていないのかもしれない。
一寸拍子抜けしたが、それならそれに越したことはない。
そういえば、戸的高校に転入したことも両親には言ってなかったなと思い出したのは、インドへ向かう飛行機の中だった。
一通りの挨拶の後伸之助は祖父母に醤油の匂いのことを話し、祖父母はそれを面白がった。
その後は四方山話で、寺という家柄仕方がないのかもしれないが、檀家の誰某が亡くなったという話が主だった。
「伸之介は随分と、」
部屋に戻ろうと席を立ちかけた伸之助を、祖母が見上げ、ふと呟いた。
「……はい?」
伸之助は中腰のまま、祖母を見た。
随分と、の後の言葉が中々でない。的確な言葉が見つからないらしい。
「……どうかしましたか、ばあちゃん」
「……伸之助、あなた随分と身体が逞しくなって、本当に見違えるようで……インドへ行く前はひょろひょろと背ばかりが高くて……今は まるで別人で……でもねぇ、」
上から下まで、じっくりと伸之助を観察するような眼差しで見ていた。
何往復もそれを繰り返した後、ようやく祖母は言葉を見つけたようだった。
「伸之助、あなたの心は、……」
そう言うと、俯き悲しそうに瞼を伏せた。
祖父を見ると、祖父もまた同じく瞼を伏せていた。
二人とも感じていたのだ。伸之助の明らかな「変化」を。






「……無駄なものは、すべてガンジス川に捨ててきましたから……」





伸之助は一礼し、部屋を出た。
長い廊下の突き当たりにある自分の部屋は、旅に出る前そのままだった。
読みかけの雑誌が、ガラステーブルの上に置かれていたのさえそのままだ。
伸之助がいつ帰ってきてもいいようにとの、祖父母の気持ちが現れていた。
布団も天候の許す限り日に当てていたのだろう、 寝転がってもちっとも埃臭くなく、寧ろ太陽の匂いがしてふかふかだった。
腰の曲がった老いた祖母が、重たい綿布団、それも伸之助は背も高いから、別誂えで一回り大きいそれを高い物干しに干すのは 難儀だっただろうことは、想像に難くない。
「……じいちゃん、ばあちゃん、すみません。こうするしかもう、無かったんです」
天井の羽目板をぼんやりと眺めながら、伸之助は呟く。
申し訳ないと思う反面、心は余り痛まない。
「僕には、こうするしかなかったんです……」






「摩季さんを、僕の手で壊す為には………」






伸之助は、その"心"の中にある多くの"感情"を、ガンジス川に捨ててきた。
その理由はただひとつ。
強くなり、摩季を……エアマスターを、自らの手で壊す為だった。






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