『闇の雨』 



2





"何処でこうなってしまったんだろうか。
―――マキさん、貴女なら分かるだろうか?"






その日の夜遅く、祖父母が寝静まったのを見計らい、伸之助は外出した。
夜の空気は澄み、程よく冷え心地よかった。
伸之助は夕食の時のことを思い出した。
伸之助と祖父母の間に、会話らしい会話はなかった。
祖父母は伸之介の変化に気づいていた。祖父母は肉親である以前に宗教家だ。
長い間、人間の心の淵に立ち、澱んだその中を見つめ続けてきた二人だからこそ、 孫の変化を、ただ変化というだけではなく……他人なら「大人になった、冷静になった」程度にしか感じられないであろう伸之助、 実のところどのように変わったのか……そしてそれが何であり、これからどのように作用していくのかを…… 他の人間よりも鋭く察したのだ。
人として、あるべき部分。必要な部分。
人が人たる所以である、心の中のその大切な部分までもを伸之助はインドで捨ててきた。
祖父母は、それを理解したのだ。
かけるべき言葉がなかったのは、その為だ。




夕食の後、台所で祖母が声も上げずに泣いているのを伸之助は見た。
祖母の涙を見たのは、伸之助は後にも先にもあれが初めてだった。





「……痛、」
100メートルほど歩いたところで、左腕の傷が痛んだ。まだ癒えない肉食獣の付けた傷。
その痛みは、体調に全く支配された。疼くような痛みに、眠りから醒める事もしばしばある。
肩から手首に掛けて走る、虎と闘い負った傷はまだ生々しい。
無理もない。碌な消毒など何もなしだったのだ。
『繋がって動いているのはまさに幸運だ。もう少し深く抉られれば、 切断していたか動かなかったか、若しくは壊疽を起こしていたかもしれない。』
ニューデリーの空港で出合った異国の若い医師は伸之助の腕を見て驚き、今すぐにでも 設備の整った専門の医者に見せなさいとしつこく念を押した。
それでも、腕一本を惜しんでいては、到底前には進めないと伸之助は確信していた。
自分が目指している場所と目的には、到達し得ないのだと。




エアマスターを、……マキを、壊すという目的。マキより上の場所。





"目的が果たされるのなら、この腕など"






―――マキさんより強くなりたい。

最初は、それが目的だった。純粋に。
けれど、今の目的はそれだけに留まらなくなっていた。

―――ボクはマキさんを、この手で壊さなければいけない……






「例えこの腕を、失うことになったとしても……」
疼くような痛みを堪え、伸之助は歩き続けた。






伸之助が向かったのは、以前よくストリートで戦っていた場所。
とある大手建設会社の本社ビル裏だった。
ここには街の喧嘩自慢が沢山集まり、夜な夜な戦いを繰り広げていた。
伸之助がストリートファイターとしてデビューしたのも、この場所だった。
顔ぶれは全く変わっていたが、戦いを繰り広げる輩とそれを見物に来るギャラリーの数は相変わらずだ。
「何だァ、お前。新顔かぁ?」
「お坊ちゃんが喧嘩しに来るところじゃねえぞォ、コラ」
現れた伸之助に対し、一座から馬鹿にしたような声が上がる。
「………」
伸之助は一座を見渡した。大方が俗に言うヤンキーやチーマーといった連中だ。
少しでも挑発すれば今にも挑みかかってきそうな雰囲気で……最も、束になってかかってきたところで負ける気など全くしないが。
「おい、待てよ」後方からリーゼント頭の男が割り込んできた。
見知った顔だった。何度かここで顔をあわせ、闘った。
無論、勝ったのは伸之助だったが。
「……あなたは、」
「暫く見ねぇと思ってたが、元気か?」
「ええ、……」
男はヤニで黄色くなった歯を見せて笑った。
「……知り合い?」
最前列に陣取っていた別の男が尋ねる。
「まぁな。おいお前ら、コイツ死ぬほど強いぜ……下手に舐めて掛かると怪我するぞ」
俺もやられたんだぜ、と男が言うと、他の連中がざわめきだった。
どうやら、今ここにいるメンバーの中ではあの男はかなり強いほうらしい。
「三下は下がってろ」
男の言葉に、今まで挑発的な態度を取っていた連中が慌ててその場から遠ざかり、二人きりになった。
「……派手にやったなぁ、ソレ」
男は伸之助の腕の傷を指差した。
「ええ、……まぁ……」
「ナニやった?」
「………あの、お聞きしたいんですが」
「何だよ」
「……"エアマスター"を、知りませんか」
エアマスター。その名を口にすると、男は顔をしかめた。
「知りませんかって、お前エアマスターとつるんでたんじゃないのか?」
「……………」
黙り込んだ伸之助に、男はそれ以上突っ込んだ話を聞いてはいけないと悟ったらしい。
「……エアマスターは今、深道ランキングってのに参加してるからもうここには来ねぇよ」
「フカミチランキング?」
「そうだ、深道ランキング……」
「フカミチランキングって、何ですか?」
「……知りたきゃ自分で調べてみろよ。ネットで簡単に引っかかるみたいだぜ。」
「ネット、ですか」
「深道ランキングってのは、……俺も聞いただけだからよくわかんねえけど……何せこことは別世界らしい。 ……だからランカーになったヤツは、普通のこんなストリートにゃあ出てこねぇんだよ……」










それから30分後、24時間営業のインターネットカフェに伸之介はいた。
伸之助が見つめる液晶画面は、深道ランキングのホームページだった。
液晶画面の中で繰り広げられているのは、昨夜行われたマキの戦い。
「……凄い………」
傍らに置いた烏龍茶が冷めるのはおろか、瞬きさえも忘れ、伸之助はその動画にじっと見入っていた。
深道ランキングは基本的に有料会員制で、伸之助が見ているのは非会員向けのサンプル動画。
……伸之助がインドに発つ前よりも、マキは遥かに強くなっていた。相手は中位ランカー数人。
皆それぞれに、その道では第一人者であり、一寸は名の知れたストリートファイターだったはずだ。
マキはそれらを次々と倒していくのだ。赤子の腕を捻るとはこのことだった。
常人なら目で追えない程のスピードで技を繰り出し、一回りも二周りも大きな男達は、 中空を華麗に舞うマキにあっさりと倒されていった。
「マキさん、………」
何度も何度も、その動画を繰り返し再生する。
つばを飲み込むと、喉がからからに渇いていた。
「マキさんはやはり凄い……でも、……僕も、負けません……」
彼の決意は、更に強固なものとなった。






店を出ると、いつの間にか雨が降っていた。
暗闇の中、音もなく細かな雨はしとしとと闇を濡らし、傘を持たない伸之助の身体を濡らした。
「雨、か………」
何故か、胸騒ぎがした。
立ち並ぶ高層ビル群は、伸之助の身に来るべき何かを知っているのか、彼を冷たく見下ろしていた。






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