出すもの出してすっきりした顔でトイレから出てみれば。
「…あ?」
ソファの上、気だるそうに体を起こし、部屋の中を見渡すヒナさんがそこにいた。
「おねーさん、起きた?」
「……ん、…あら、…いたの」
おい。いたのはねえだろ!(ビシッ!)
「…トイレお借りしました」
ちゃんと便座は下ろしてあります、と付け加えて。
「…何があったか知らないけど、前後不覚になるまで飲むのはお勧めできねえな」
「…わたくしにはわたくしの事情があるのよ…」
むっとした顔で俺をにらんできた。おお、怖え。
「…へえ、…男に振られたとか?」
床に置いたナップザックを拾いながら茶化して言うと、



「反対よ。振ったの!」



怒ったような声が返ってきた。
「…だろうね。失敬」
や、どう見たって、男に振られるって玉じゃなさそうだもんな。
むしろ振る側の人間だ。男を傅かせる、女王様タイプの女の人。
何せ送ってもらってありがとうの一言もなしなんだ。
「……あんな男、振られて当然よ!」
いうなりそばにあったクッションをいきなり窓に投げつけた。
ばん、と鈍い音を立ててクッションがサイドボードの脇に落ちる。
「…荒れてるねえ」
おお怖。やっぱり酔っ払いは海軍の次に嫌いだ。こりゃさっさと退散するに限るね。
「んじゃあ、俺はこれで失礼…」
こそこそと入り口へ。ドアノブに手をかけたら。



「待ちなさい」
いきなり命令口調。据わった声。
「…何?」
ちょっと、これ以上係わり合いになりたくないんだけど…俺。
「…あなた、暇?」
「は?」
「暇かって聞いてるの。耳付いてる?」
「…耳は付いてるし忙しくは無いけど…」
「じゃあ暇なのね、そこに座りなさい」
びし、っと自分の座ってるソファの前の床を指差して。おいおい。ちょっと待てよ。
普通はお暇?ってもっとやんわりと聞くもんだろ、その上座りなさいっておいらは犬かい?
そしてあんたは飼い主かい?…と突っ込みたい気持ちをぐっと抑えて…。
「…はい」
すごすごと彼女の前に座った。海賊の癖にちょっぴり気の弱い俺。


…何やってんだ俺。


「で、何すればいいわけ?俺」
彼女の前に胡坐かいて座って見上げれば、ヒナさんはなんとなく切なそうな顔をしていた。
「…愚痴を聞きなさい。ヒナの愚痴を」
聞きなさいときたもんだ。
フツーは「寂しいの、私の愚痴を聞いてお願い(潤んだ上目遣いで両手は胸の前)」だろう?
男見下ろして聞けは無いだろ?アぁ?



「…はい、聞かせていただきます」
…こんなんだから振られるんだろうな、俺…。



ヒナさんは胸元からタバコを取り出して咥え、火をつけた。
「10年よ…10年。10年、付き合ったの。」
「はぁ」
…主語無いぞ。いや、わかるけどさ。別れた男のことだってことくらい。
「仕事の同期だったの。最初はお互い、顔も知らなくて…なんだったかしら同期の集まりのときに、
たまたま隣に座って…ちょっと気が合って、話を色々して。そのときは特別な感情は抱かなかったの。
けど、周りに押されて、…キューピッド気取りの友達に無理やりデートさせられて…なんとなくで付き合い始めて…」
そしていきなり身の上話ですか。
「…はぁ」
「…まぁ、それなりに上手くいってたわ。遠距離恋愛だったけど…お互い出世して、今の地位まで来て…」
ヒナさん、キャリアウーマンですか。やっぱりね。そんな感じだ。
スーツの着こなしとか、隙がねえもんな。
「けど、……駄目だったの。」
ふう、と白煙を吐き出し、長いまつげを伏せた。
「…何でまた?10年も付き合って」
「―――長すぎた春、っていうのかしらね…」
「…はぁ」
長すぎた春ね…確かに10年っちゃ長いよな。
「何時までもぬるま湯のこの関係で良いわけがない、仕事をやめて彼と結婚すべきか、…断っておくけど, 家庭と両立できるような仕事じゃないのよ? 危険とは常に隣り合わせだし…それとも彼と別れて仕事一筋か、どちらか選ばなくちゃいけないって、思って…悩んでたの…わたくしももう32だし…」
「…はぁ」
「それで話し合ったの。これからの二人のこと…わたくしとどうしたいのか。
そしたら彼、このままの関係で良いじゃないか、別れなくてもいいじゃないか、結婚なんかしなくてもいいじゃないかって…信じられる?!」
「……はぁ(って俺こればっかりだな)」
いや、なんだかトレンディドラマの王道パターンだな。
「だから振ってやったのよ! …あんな男…最低だわ!」
はき捨てるように言うと、ヒナさんはガラステーブルの灰皿にタバコを力任せに押し付けた。
「それで飲んだくれて道端で寝てたってわけ?」
「……悪い?」
「いえ、別に、その、」
「あなたも気をつけなさいね、態度がはっきりしない男だとか、女を引っ張っていけない男は
女に振られるのよ?」

「…もう振られたよ」
目をそらしながらつぶやいた。ついでにその台詞、すげえ耳に痛いんですが…。
「……あら、そうだったの?…それは失礼。ヒナ失敬」
「いえ、振られたのは事実だから…」
「どうして振られたの?浮気?」
「どうしてって…自分の夢をかなえたいから恋人を解消してお友達に戻ってくれって言うから…はいそうですかって、振られたんだけど」
「……振られて当然ね、それじゃあ」
ぐさっ。
ぐさぐさぐさっ。
ついでに上から海楼石振ってきて頭に直撃食らったくらいのダメージ。
言うこと一々きついなあ…。
「ま、俺も次こそはそうならないように、気をつけるよ…」
ははは、と乾いた笑いと引きつった笑みを浮かべた。いや、寿命縮むぜこれ…。

「んじゃあ、(今度こそ)俺はこれで…」
聞くことは一通り聞いたし、ヒナさんも酒が結構抜けてきたみたいだし。
よ、っと腰を上げて、ナップザック引っ掛けて。
「ま、次こそいい恋見つかるから、ね、お互いがんばって…」
手をにぎにぎしながら作り笑いを浮かべ、今度こそ退散…
「…待ちなさい」
…しようとしたんだけど。
「………」
「待ちなさいってば」
いや、待ちなさいといわれても。
ローブの裾しっかり握られてるから待たざるを得ないんですけど…。
「なんか用?愚痴、もっと聞けって?」
ここまできたら朝まで聞いて迎え酒まで付き合えってか?
「…なさい」
「ん?」
俯いたまま小さな声で、何か言った。
けどあんまり小さい声だったから、よく聞こえなくて。
「何?なんかいった?」

「抱きなさい」

「―――――――は?」

空耳…か?耳鼻科はこの島にあったかな?いや俺保険証持ってねえしやっぱり前に行った時弟の船のあのメルヘントナカイに診て貰うべきだったんだよとかそういうことじゃなくてちょっと待て!!!

「抱きなさいと、言ってるの!」
顔を上げ、真っ赤な顔をして。ヒナさんが…叫んだ。
「……――――…は…?」
俺は力なくナップザックを取り落とした。
「あなた暇なんでしょう? 彼女もいないんでしょう? わたくしもいない、昨夜振ったの聞いたでしょう?
だったらお互い様じゃない!?」
「ちょ、ちょっ」
「だから、わたくしを抱きなさい!」
バン、とガラステーブルをヒナさんが叩く。その横柄で高圧的な態度に思わずカッとなって、頭に血が上った。
「ちょっと待て! 何じゃそのめちゃくちゃな理屈! さっきから黙って聞いてりゃ言いたい放題言いやがって! 第一送ってもらってアリガトウも無しかよ! その上ずらずら文句垂れるわ最後には一方的に抱きなさいって俺の都合は無視かよ! あァ!?」
まくし立てるように叫んじまった後ではっとして口を押さえた―――…けど後の祭り。
「あ…」
ヒナさんは唇をぎゅっとかんだまま、目を潤ませて…その俺を睨む、きれいな大きな瞳から…。
(まずい…)
涙がぼろぼろ、こぼれた。
「吹っ切れないのよ…」
しゃくり上げながら。
「あんな男最低だって、思って…るのに、…吹っ切れないのよ…いくらお酒を飲んでも、仕事に打ち込もうって思っても…」
「あ、ちょ…」

「吹っ切れないのよっ…!もやもやしたのが、晴れないのよっ……!」

かすれた声で叫び、わあっと子供みたいにヒナさんは泣き出した。
(やべえ、泣かしちまった…!)
どうしよう、やっちまった!あたふたする俺。情けない俺。
「だから、…忘れさせて、欲しいの…」
顔を覆う手の間から、雨のように涙が零れ落ちる。
(あ…)
嫌だとは言えない、人のいい性格の俺。女の涙に滅法弱い俺。
海賊の癖にちょっぴり気の弱い俺。
(……仕方ねえな……)

「…わかった…わかりました」
ナップザック床において、彼女の隣に座った。
「ヒナさんの言うとおり、抱くよ、抱きますよ、だから…」
泣きじゃくるヒナさんの小さな肩を、そっと抱いた。
「だから、泣きやんで…」
泣いてる女を抱くのは流石に趣味じゃないんだ、って付け加えたら、彼女はこくん、とうなづいた。
「…ごめんなさいね、…我侭ばかり言って…」
無茶苦茶言ってるのは自分でも分かってるの。でも、どうしようもないの。
彼女はそう言って、そのまま俺に体を預けた。
俺のローブをぎゅっとつかんだ手は、かすかに震えていた。
(……震えてらぁ……)
その手に自分の手を添え、涙でぬれた顔にキスをする。
おでこに、頬に、そして……唇に。
「ん、…」
ついばむ様なキスを繰り返し、長い髪を指で梳いた。
「あ、…」
何かを思い出したように、ヒナさんが俺から離れる。
「どうしたの?」
「わたくし…あなたの名前、知らないわ…」
「…そうだっけ?」
「あなたはわたくしの名前を知っているけど、わたくしは知らないわ?」
教えて?と小さく首をかしげる。
「…ん、そうだね…名前知らないのも不便だしね」
俺は着ているローブのボタンを外し、薄汚れたそれを床に投げ捨てた。
「……ほら、ここ」
左腕を指差す。俺の名を記した刺青。
「罰点の付いたエスは無視して。」
「エー…、ス…?」
「そう、エース…」
「エース…エース」
俺の名を繰り返し呼ぶヒナさん。
名前を呼ばれた俺は、ヒナさんのおでこにキスひとつ落とし、その細い体をゆっくりとソファに押し倒した。


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