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ビビを抱えたまま、岩場の奥へ奥へと進んでいく。
彼女が蹲っていた場所を過ぎ、暫く進むと行き止まりだった。そこで彼女を下ろした。
俺は着ていたローブを脱いで掛け、彼女を背に、持ってきた焚き木を組み、火をつけた。
周囲に落ちていた駱駝か何か動物の骨を拾い、それもくべる。
水分を失った木と骨はぱちぱちと音を立てながら燃え、闇を明るく照らした。
夜明けまでほんの数時間。
仮初めでもいい、彼女を普通の女の子にしてあげたい。
ガラスの靴の話と、それは丁度逆だった。
炎の中、燃えた骨がカランと音を立て、崩れた。
「……あ……ここは……何処?」
その音に、ビビが目を覚ました。
何時の間にか周囲の風景が変わっていたことに驚いているようだった。
「エースさん、……ここは……皆は?」
「ああ、起きたのか」
焚き火の加減をしながら振り返った。ビビは上半身を起こすとしきりに辺りを見渡していた。
どうやら状況が飲み込めていない様子だった。
「あの、……」
炎に照らされた顔には、不安の色が浮かんでいる。
「………なあ、ビビ」
切り出した俺の声は、明らかに上ずっていた。
彼女は何と言うだろうか。
不安にも似た疑問と共に、小さな確信が俺にはあった。
俺はビビの前にしゃがむと、灰色の瞳をじっと見た。
曇りのない、イーストにはないその珍しい色の大きな瞳に、俺が映っていた。
「……エースさん……?」
ビビは怪訝そうな顔で、俺を見返す。
「……あのさ、……ビビ」
「はい、……」
傍らには弾けながら燃える炎。
夜明けまで、時間は限られている。一分でも無駄にはしたくない。
決意して彼女を連れ出したものの、いざとなると中々言い出せないのは、男の悪い癖だ。
けれど―――……このままでいい筈がねえ。
彼女をこのまま、ユバへ行かせていい筈なんて。
息を呑み、意を決した。
「ビビ、」
彼女の名を三度呼んだ瞬間、俺は彼女を抱きしめた。
「あ、っ」
瞬間、反射的に彼女が俺を拒む。押し返そうとし、しかし俺は尚一層彼女を強く抱きしめ、それを許さなかった。
ローブの上からもビビの身体の細さが分かり、埃だらけの長い髪が頬に触れた。
さっきのキャンディーの甘いにおいがする。
「エ、エースさんッ……?」
「ビビ。一回しか言わねえから、よく聞け」
耳元で囁く俺の言葉に、ビビの抵抗がおさまった。
「……夜が明けるまで、あと5時間ちょっとある。」
「……はい、」
「その間、俺はビビを、普通の女の子にしてやりてぇんだ……」
「……………」
「嫌なら嫌でいい。ビビが嫌なら、俺は何もしない」
「エースさん……」
「見てられねぇんだ、もう……」
痛々しい姿を、見送ることはできなかった。
俺の言葉に、ぎゅ、とビビの指が俺の肩を掴む。
「……エースさん……」
ビビが俺を呼ぶ。―――嫌です、と言うだろうか。
「……気付いてらしてたんですね……?……エースさん」
「気付くって、何に?」
「私…私、エースさんに……普通の女の子にしてもらいたくて、甘えたくて、
エースさんに、そういって欲しかった……だからさっきあんなことを言ったんです……!!」
わぁっ、と声をあげ、ビビは泣き出した。
―――――ああ、……気付いてた。気付いていたさ。
ビビが俺に、生まれ変わっても海賊になりたいかなんて遠まわしな問いかけから、
自分は生まれ変わったら普通の女の子でいたいだなんて本音を吐露した、その更に奥にある本当の声に。
俺に、甘えたかったんだ。
俺に、普通の女の子にして欲しかったんだ。
仲間という美しく曖昧な言葉はこんなとき残酷だ。ルフィ達の誰かに、ビビは決して甘えられない。
だってあいつらは仲間なんだ。仲間という強固な絆で結ばれ、絶妙なバランスを保っているんだ。
ビビがあの内の誰かに甘えることによって、その仲間の輪を、バランスと絆を崩してしまうことを彼女は恐れ、
誰にも甘えられずにいたのだ。
ビビだって確かにあいつらの仲間だ。しかしだからこそ、越えてはいけない一線を肌身に感じているのだろう。
そんなときに来た、通りすがりの俺。俺なら後腐れなんか何もないのだから。
「気付いたから、連れてきたんだ……分かれよ、そんなこと」
骨の浮き出た背中を撫でながらビビを宥めた。
「エースさん……私……」
「………」
しゃくりあげるビビの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「甘えたきゃ甘えろ。幾らでも……愚痴でも何でも聞いてやる。ルフィたちには、勿論内緒だ」
「……はい…………」
ビビはゆっくりと頷き、再び俺の胸に顔を埋めた。
自分の16のときを思い出したって、碌なことを考えていた記憶がない。周りもそうだった。
海に出て海賊になる、それだけで頭の中は一杯だった。
いや、16なんてそんな年なんだ。
碌なことを考えられる年じゃないんだ。考えろというほうが無理なんだ。
国がどうなろうと、誰が悪巧みを企てていようと。
ビビは一頻り俺の胸で泣くと、大分すっきりしたようだった。
ようやく上げた顔は無残に瞼が張れ、涙の塩分で頬は赤くなっていた。
「ひでぇ顔だ……美人が台無しだな」
みんなの前であれだけ泣いていた彼女だけれど、本当はもっともっと、泣きたかったんだ。
泣き足りてなかったんだ。
頬に手を当てると、ビビがその手に自分の手を添え、小さく笑った。
ぱちぱちとはぜながら燃える炎の側。ビビは俺の胸の中にいた。
抱きしめた身体はたよりないほど細かった。
俺の胸の中、ビビは今まで決して語ることのなかった心の内を、俺にだけ明かした。
「……私、死ぬかもしれないんですよね……」
ビビはつぶやいた。
「……国を出るとき、死なない覚悟はおありですかと共に国を出た家臣に聞かれました……私は、
そのときはただもう一生懸命で無茶苦茶で…… 死なないつもりでした。死なない覚悟は、確かにあったんです……」
「……ああ」
「でも、いざクロコダイルの悪事を知り、それを暴くときが来、目の前に現実……死なない覚悟ではなく、
死ぬ覚悟をもって望まなければ切り抜けることの出来ない現実が迫ると、……弱いんですよね、私……」
「………」
「死ぬかもしれないって思うと、怖い、死にたくない、って思って……死ぬのは嫌だ、
もう逃げ出したいって……思うんです」
ビビは俺にしがみついた。細い体が小さく震えていた。
「怖いんです。ユバへ行くのが。アルバーナへ行くのが。クロコダイルに立ち向かうのが……反乱を止めるのが。
反乱を止める前に、私クロコダイルに殺されるかもしれない……。
いいえ、そもそも反乱そのものが止まらないかも知れないんですもの……」
政治のことは俺にはよくわからねえ。
ただ、アラバスタが今おかれている状況がとんでもない事なんだってことくらいは分かっている。
ビビが幾ら王女でも、彼女一人が一体どれほどの力になるというのだろう。
「その上ルフィさんたちも巻き込んでしまって、……ルフィさんたちの中の誰かがもしも、
この戦いで……と思ったら、……私……」
「……それが普通の感覚だぜ、ビビ」
「エース……」
「普通の女の子は、怖いものは怖いって言うもんだぜ……嫌なことは、嫌だって言うもんだぜ」
「………」
「怖い、嫌だ、っていって逃げ出しちまうのが普通の感覚だ。
それをあんたは必死にこらえて隠して、耐えている。逃げ出さないでいるあんたは、それだけで十分偉いよ……」
嫌だとも、怖いともいえない彼女。ただ歯を食いしばり、進むしかないのだ。
何故天は、この少女にこんなにも酷な事を課すのだろうか。
「……ねえ、エースさん」
「ん?」
「一つ、お願いを聞いてくださいますか……」
ビビが顔を上げた。
潤んだ、けれど何か決意を秘めた強いまなざしで、俺を見る。
「……何だ?」
「……私を、抱いてください……」
ビビはゆっくりと目を閉じ、そのまま俺に口付けた。
そのキスは甘く、キャンディーの味がした。
薄く開いたビビの唇が、俺の唇に押し当てられたのはほんの一瞬。
仄かに熱く、何より柔らかいその感触は、俺が今まで経験したことがないほど初心なものだった。
「……ビビ、」
唇を離したビビは、ためらいがちに潤んだ瞳で驚く俺を見上げている。
「……抱いてください。私を……」
「ビビ、」
「セックス、して下さい。私と……」
震える唇が、つむぎだした言葉。
驕りだといわれるかもしれないが、俺は予想していた……この言葉を。
「ああ……いいぜ。それが、あんたの願いなら……」
彼女の柔らかで、かさついた頬に手を触れた。くるみこむように。
「―――抱いてやるよ。」
ぎゅ、っと、再び抱きしめた。
「けどなぁ、ビビ。これだけは言わせてくれねえか」
「……はい」
「柄にもねえって思われるかも知れねえけど、……俺、愛した女しか抱かない主義なんだ。たとえ、一晩だけの商売女であったとしても」
「……そうなんですか?」
「何だよ、そんなに意外か?」
「……ん、ちょっとだけ……」
俺の肩口で、ビビがくすくす、と喉で笑う。
「だから、ビビのこと、愛しても……いいか?」
ビビが俺にしがみ付くその指先に力が篭り、イエスの合図をする。
「いいんだな?……ビビ」
「…………はい、エースさん。……愛してください。私を、一人の女の子として」
「ああ」
「私もエースさんを、愛してもいいですか?」
ビビの言葉に、俺は頷いた。
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