作戦決行


 保健室の前に立ち、大きく深呼吸をした。
 ここ一ヶ月、三日とあけず通って来ているというのに、このクセだけはなくならない。
 緊張しているというわけじゃない。高鳴る鼓動を落ちつかせるための、儀式みたいなものだ。
 息を吐ききってから、二度のノック。
 中から耳慣れた声がするのを待って、戸をスライドさせた。
「失礼しまーす」
 そこらの高校生より少しばかり小柄な白衣姿の保健医が、デスクから顔を上げて俺を見る。
「新(あらた)か」
 意志の強そうな少しだけ厚めの唇から、ほんの少しハスキーな声がこぼれた。
 この声に名前を呼ばれるたびに、口許が緩みそうになる。
「どうしたんだ、その傷は!?」
 先生は、俺の左腕の傷に気づくと、切れ長の目を驚きに見開いた。
 俺の左腕に、五センチほどの斜めに走った赤い線がくっきりと刻まれていた。傷口から流れる血が、実際よりも
ひどい状態に見せているらしい。
 眉をひそめ、俺の腕を取って傷口をよく見ようとする彼に腕をあずけたまま、
「別に、どうでもいいだろ」
ごまかし下手な俺は、多くを語らないことにする。
 この傷の理由は、話せない。
「どうでも良くなんかないだろう!」
 先生は心配してくれているのか、俺の返答に少し声を荒げる。
「…たいしたこと、ないって」
 血を水道の水で洗って、傷口をよく確かめた先生は、ホッと安堵の息を吐いた。
「傷は深くないようだけど………一体どうしてこんな傷…」
 先生が問いつめたくなるのもしようがない。
 いつもの傷と、今日の傷は、明らかに種類の違うものだったからだ。
「理由なんかいいから。…早く消毒してくれよ、先生」
 どうしても口を割らない俺に、先生は追求することを諦めたらしく、
「わかったよ」
と傷口の消毒をはじめた。
 
 どう違うのか。
 いつもは売られたケンカで擦り傷や青アザをわざと負ってくるのだが、最近では、ケンカを売られることもなく
なってしまった。
 先生には、よっぽど運が良くなければ、この保健室以外では話すどころか、会う機会さえほとんどない。
 サボリや仮病で保健室に行けばいいじゃないかと言われそうだが、生真面目な先生は、そういう連中には厳し
かった。
 といって、保健室登校という手も、俺には不似合いすぎる。
 どうしても、ここに来る理由が欲しかった。
『またケンカしてきたんだな』
 心配そうな、呆れたような表情で、そう口にする先生が見たかった。
 だから。
 制服のシャツの袖をまくり、左腕の皮膚に、手近にあったカッターナイフの刃を押し当て、引いた…。
 
 目の前の柔らかそうな髪が、窓から差す光に透けて金色に輝く。
 髪が揺れるたびに清潔な香りが漂ってきて、彼を独り占めしたい気持ちが強くなる。
 この髪を、黒目がちな瞳を、細い指を、声を、先生の何もかもを、全て、俺だけのものにしたい。
 
「先生」
 包帯を丁寧に巻いている指の動きを目で追いながら、思いきって口を開く。
「なんだ、他にもどこか痛むのか?」
 先生がいつもと変わらない優しい口調で問うのに、
「先生、恋人いる?」
俺は作戦決行のための布石を打った。
「な、なんだよ、いきなり?」
 突然の問いだったからだろう、やけに動揺した様子で先生は包帯を巻く手を止めた。
 驚くのもしようがない。
 先生と恋愛話なんて、今まで一度だってしたことがないんだから。
 ここで、俺の気持ちを覚られてはいけない。
 ごく自然に、あくまでも好奇心で聞いてるんだというふうに言葉を重ねるんだ。
 そう。
 少しだけ身を乗り出して、無邪気に見える笑みを浮かべて。
「いいじゃん、答えてよ。いる、いない、どっち?」
 先生は包帯を巻き終えると、苦笑して、ため息と一緒に返事をくれた。
「いないよ、恋人なんて」
 
 答えは、聞かなくても知っていた。
 何よりも重要だったのは、プライベートな質問に答えてくれるかどうかだった。
 ここで曖昧な答えが返ってきたら、作戦はそこで決行不可能となってしまう。
 これで、問題をひとつクリア、だ。
 
「だったら、今度の日曜、先生んとこに遊びに行ってもいいか?」
「今の質問と、どう関係があるんだ?」
 首を傾げながら、そう口にする彼に、
「普通、恋人がいたら日曜はデートだろ?」
俺はあっけらかんとした表情で言ってやった。
「そうとは限らないだろう」
 先生は、単純なヤツだなと言いたげに頬を緩ませる。
「…まあ、空いてるけどな」
「やった! ついでに、先週、見逃したって言ってた、王子がどうとかって番組あったろ? 録画してたからテープ持
ってくよ」
 嘘だ。
 録画していたヤツを探し出して、頼み込んで録画テープを借りただけだ。
 俺が録画していたわけじゃない。
「先週の『いたいけな王子と鬼畜な奴隷』、録ってたのか!?」
 ドラマ自体は見たことはないが、聞いたところによると、王子と奴隷と、彼らを取り巻く使用人たちのドタバタコメ
ディらしい。
 先生は一瞬驚きに目をみはると、目を細めて口許をほころばせた。
「ありがとう、すごく観たかったんだ!」
 綺麗というより、暖かさが滲みでている微笑み。
 つられて笑みを浮かべてしまいそうになるくらい、自然で、見るものをホッとさせる笑みだ。
 この笑顔を初めて見た瞬間から、俺は彼の虜になった。
「じゃ、先生ん家までの地図書いて」
 内ポケットから生徒手帳を取り出すと、後ろの空白ページを開き、先生に差し出す。
 言われるままに、先生はそこに丁寧に地図を書きはじめる。
 これで作戦の半分は成功したようなものだった。


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