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水の滴る音が、どこからともなく響いていた。
『……ここ……どこ……?』
フェイは四方を茫洋とした闇に覆われた空間を漂っていた。
前も後ろも、上下の感覚すらもない漆黒の世界。
静寂の中に不気味に響く水滴の音だけが聞こえ、身体の芯までも貫き通すような冷たさ
が、彼女を取り巻く。
『寒い……寒いわ……』
震える足が宙を漂い、凍える手で何かを探るように前へ進もうとする。
『暗い……冷たくて……寒い……。ここはどこ…? あたしはどこへ行けばいいの…? …
寒い…、誰か教えて……、どこへ行けばいいのか、誰か……!』
『――フェイ……――』
『え……?』
不意にどこからか聞こえた、自分を呼ぶ声に、フェイはゆっくりと引き上げられていくような
浮上感に包まれ、徐々に世界が白み、開けていった。
「……ん……」
うっすらと、フェイは目を開けた。
近くでパチパチと、火の粉が爆ぜる小さな音がする。
微かな声を洩らし、重たげに瞼を持ち上げた彼女の瞳に、見覚えのある面差しが映った。
「……スパイク……?」
ぼんやりとした顔で、フェイはスパイクを見返した。
「気がついたか」
フェイの声に、スパイクは彼女を見返して言った。間近で自分を見つめる視線に、今の状
況を訊ねる。
「…ここ、どこ…? …寒い…」
「まだクロス・タウンの中だ。日が暮れちまったせいで気温がかなり下がってる」
スパイクの声が、どこか遠くで聞こえるような気がする。霞がかかったように、頭がぼうっと
していた。
「寒いのはまだ身体が冷えてるせいだ。温まるまでもう少しかかるだろうな」
「そ……。…何で、こんなに冷えてんのかな、あたし……」
身に凍みるような震えがきて、思わず両手で自分の胸を抱え込む。
(……?)
その時、素肌の感触が手に触れたのを感じ、怪訝な顔になるフェイ。
「……!!」
そこでようやく、フェイは自分が何も身に付けていないことと、更にスパイクが自分の上に
覆い被さるような体勢でいるのに気付いて、目を見開いた。
「っ………ちょ、ちょっとっ…!!」
フェイは思わずスパイクを突き放そうとしたが、それより早く、彼はフェイの身体を強く抱き
しめるようにして抱え込み、彼女の動きを封じてしまった。
「じっとしてろ」
低く耳元で呟く声に、ますます頭に血が昇ってしまう。
「ちょ、ちょっと待ってよ…、な、何でこんな状況になってんの…!?」
気が動転して余計にパニックになった思考で、しどろもどろに問い掛ける。
「仕方ねえだろ、お互いずぶ濡れで体温も下がってんだ。凍え死ぬよりマシだと思え」
腕の力を緩めず、むすっとした声で続けるスパイク。上半身は何も着ていない彼の身体か
らじかに温もりが伝わってきて、フェイは更にうろたえた。だが、彼女の力だけでスパイクの
腕を振り解けるはずもなく、身体を硬くして黙り込んでしまう。
顔を真っ赤にしながら、必死に記憶の糸を辿り始めたフェイの脳裏に、次第に先刻の出
来事が浮かんできた。
賞金首の男たちに捕まってしまったこと、彼等を追って隠れ家にスパイクが現れたこと、連
中が逃げようとした時に、自分が川に突き落とされたこと。
凍るような冷たさの底で、途切れた意識。それからは、殆ど何も覚えていない。
(スパイクが……あたしを……?)
気を失う寸前に微かに感じた浮揚感と、『お互いずぶ濡れ』というスパイクの言葉を思い出
し、フェイはようやくその結論に辿りついた。
両手両足を縛られていた自分が、自力で泳げるはずもない。そのままなら、間違いなく溺
れ死んでいただろうあの状況で助けてくれる人物は、スパイクしかいなかった。そして彼は、
自ら川に飛び込み、自分を助けて出してくれたのだ。
ただでさえ基本温度が低いこの星は、夜になれば零下にも下がる。既に雪も降っている
今、全身濡れ鼠で満足に身動きも取れなければ、凍死してしまう危険も十分あった。
ビバップはガス欠で動きが取れないと言っていたし、ソードフィッシュやレッドテイルが停め
てある場所まで歩いていくのは時間がかかりすぎる。だからスパイクは、ひとまずここでやり
過ごす方が無難だと判断したのだろう。
それから、彼はこうして、凍えた自分を温めていてくれたのだ。今まで、ずっと。
そこまで考え付いてようやく合点がいくと共に、ずっと裸のまま抱きしめられていたのかと
思うと、ますます頬が紅くなる。
一方で、嬉しいような、切ないような、複雑な思いがよぎり、フェイは胸のどこかがキュッと
締め付けられて目を伏せた。
フェイが静かになった後も、スパイクはしばらく彼女を抱え込んだ腕を離そうとはしなかっ
た。
胸の奥で波打つ鼓動を、フェイは何とか止めようと懸命に抑えたが、早鐘は一向に収まり
そうになかった。
触れ合ったスパイクの胸からも、脈打つ心臓の音が伝わってくる。互いの鼓動が重なり、
どちらの音かわからなくなる。
どこに向けていいかわからない視線を横にさまよわせると、自分たちがいる部屋の様子
が目に入った。
古びた煉瓦造りの、明かりは小型のランプが一つあるだけの薄暗い部屋。それでも、壁
際には簡易暖炉が備え付けてあり、そこでくべられた薪が火の粉を散らして燃えている。揺
れる火影が天井や壁に映り、時折ゆらゆらと揺れていた。
暖炉の側には自分とスパイクの濡れた服が下げられている。まだ湿った色が抜けていな
いところを見ると、乾くのは当分先のようだった。
おそらくここは、あの賞金首たちが根城にしていた廃屋だろう。だからこうして部屋を暖め
ることができるし、毛布や簡易ベッドなどの生活品も置かれていたのだ。
それにしても、逃げられた相手の残した設備に世話になるとは、皮肉な話だった。
「まだ服が乾くにも時間がかかるからな。それまでは、嫌でも我慢してろ」
「………」
フェイの沈黙をどう受け取ったのかはわからないが、スパイクは言い聞かせるような声で
呟いた。
彼の言葉には答えず、フェイは黙ってうつむいていた。
……嫌? 何が?
心の中で、自問自答する。
けれど、その問いに対する答えは、いくら考えても出てこなかった。
直接触れる素肌の感触、じかに伝わる彼の体温。そのどれもが、今の彼女にとってはむ
しろ心地いいものに感じられていたからだ。
スパイクが僅かに腕を緩めた後も、彼を押しのけようとしない自分が、それを肯定してい
た。
そう思うと、再度かぁっと頬が熱くなる。
赤くなった顔を見られまいと、余計に顔を下に向け、スパイクの肩に頭を押し付ける。
そんなフェイの様子に、スパイクは少し困ったような声色で言った。
「おい、あまり動くなよ」
言いながらフェイの身体を、毛布で包みこむようにして軽く押さえる。
「……何よ。…ちょっと、そんなに強く掴まないでよ」
妙に力の入ったスパイクの腕に、フェイは余計強く意識してしまって、思わず抗議の声を
上げた。だが、スパイクは聞き入れようとしない。
「ちょっと…、苦しいじゃない。離してよ、少しくらい」
「駄目だ」
「何でよ!」
不満げな声を上げるフェイに、スパイクは溜め息をついて眉を寄せた。
「……俺だって健全な男なんだよ。いいから、じっとしてろ」
顔を横に向け、ぶっきらぼうな声でスパイクは言った。
一瞬きょとんとし、目を瞬いたフェイは、ふと自分の太股のあたりに固く触れるものがある
ような感覚に気づいた。
(…!)
思わず息を飲み、再び大きく波打ち始めた胸の動悸を抑えながら、フェイはスパイクの横
顔をじっと見つめた。
「……何だよ」
彼女の目線を感じたスパイクは、ちらりと彼女を見返して言った。
「……ううん……別に。…ただ、しんどそうだな、って思っただけ」
「…ほっとけ」
勿論、彼の言葉の意味が、フェイにわからないはずはなかった。ただ、それでも、気付か
ないふりをしようとした。それは彼女自身、極力考えないように努めていたことでもあったか
らだ。
が、こんな状況をそうそういつまでも無視できるわけもない。そこへスパイクの押し殺した
表情に気付いてしまった時、彼女の中で、張り詰めていた何かがふっと切れてしまったよう
な気がした。
「……あたしなら、構わないわよ。あんたさえよければ」
「ああ? …何言ってんだ、お前」
スパイクがぎょっとした顔でフェイを見た。信じられない、という顔だ。
フェイも自分の口をついて出た台詞を頭の中で反芻して、思わず顔を赤くした。殆ど無意
識に出た言葉だった。言ってしまってから、その言葉の持つ意味を再認識し、息を飲んで黙
り込む。
それでも、自分からその言葉を発したことに、不思議と後悔の念は沸かなかった。
いつもの環境でなら、単なる冗談として軽く聞き流され、それで終わったことだろう。
が、今は状況が状況なだけに、彼が本気で驚くのも無理はなかった。
普段の関係からは考えられないような状況に置かれていることで、自分の思考も少しおか
しいのかもしれない。
だが、今はそんなことは、フェイにはどうでもよかった。
「悪い冗談は程々にしとけよ。度が過ぎるぜ」
微かに眉を寄せるスパイクの顔を、フェイは真剣な目で見返した。
「……冗談じゃ、ないわよ。……あたしだって、健全な女だわ」
寄り添う中で直接素肌が触れ合う感覚を、フェイとて意識せずにいられるわけがなかっ
た。
じかに感じるスパイクの、引き締まった身体の逞しさと温もりが伝わってくるたびに、身体
の芯が熱くなりかけるのを、堪えるのに必死だったのだ。
睨むようなスパイクの視線に怯むことなく、フェイは両腕を伸ばして彼の首に巻きつけ、抱
きついた。
「! お、おい! バカ、よせ!」
スパイクが慌てて彼女の手を振りほどこうとするが、フェイは離そうとはしなかった。
彼女の柔らかな胸の感触が更に強く伝わってくるのを感じ、スパイクはますます焦って言
い募った。
「おい、止めろ、フェイ! いい加減……」
「……何よ。あたし、冗談なんかじゃないわよ」
強い光を宿した目で、まっすぐに自分を見つめるフェイを見て、スパイクは一瞬言葉に詰
まった。
「……お前……熱でもあんのか?」
「ないわよ、そんなもの。あんたが健全な男であるように、あたしだってそうなの。あんたば
かりがしんどいと思ってるの?」
挑みかかるような彼女の口調に、スパイクは返す言葉が見つからずに黙ってしまった。
「あんたっていつもそう。自分のことしか考えてないわ。……他の人間のことなんかどうでも
いいんでしょ。自分さえよければいいって、そう思ってるんでしょ」
「……何でそういう話になるんだよ」
「だって、そうでしょ? あんた、いつもいつも一人で勝手なことばかりしてるじゃない。……
今だって、自分だけが我慢してれば、それで済むと思ってる。あたしがどんな気持ちでいる
かなんて、考えてもいないじゃない。……今、ここでこうしてるのだって、あたしを助けたのだ
って、自分のためでしょ? 見殺しにしたら、後味が悪いからでしょう?」
その言い草に思わずカッとなったスパイクは、彼女の腕を掴み、反対に彼女を組み敷くよ
うに上体を起こした。
「!」
咄嗟のことに、フェイは驚いた顔でスパイクを見た。彼がいきなりこんな感情的な行動に
出るとは思わなかったからだ。
「……冗談は程々にしろって言ったよな。助けてやった相手に対してその言い草は何だ?」
「……何よ、誰が助けてくれって言ったのよ。どうでもいいなら、あたしなんか放っとけばよか
ったじゃない。何でよ、何で助けたのよ? 何でこんなことまでしてくれるわけ? あんたの、
ただの気まぐれ? それとも、他に理由があるっていうの? ねえ!」
「…少し黙れ、フェイ」
「嫌よ! ねえ、何で? どうしてなの? 今、この場で答えてよ。でなきゃ、あたし、納得な
んかできな…」
その時、我を忘れて矢継ぎ早に喋り続けたフェイの両肩が、急に強く引き寄せられた。
はっとなったフェイの唇を、スパイクの唇が塞ぐ。
「んっ…!!」
いきなりキスで口を塞がれ、フェイはびくりと硬直した。
スパイクはフェイの背中に両腕を回し、きつく彼女を抱きしめる。
「ぅ…ん、…っ…」
フェイは初め両手でスパイクの身体を押しのけようとしたが、それは形だけの抵抗に終わ
り、次第に彼女の手から力が抜けていく。
スパイクはまだ彼女を抱きしめる腕を緩めず、口づけをしたまま動こうとしなかった。
「……ん……」
自分に触れる彼の唇の熱さを感じ、フェイは微かな声を洩らした。身体の芯が熱くなって
いくのが手に取るようにわかる。
触れ合わせるだけの、けれど長い長い口づけを二人は無言で交し合い、しばらくして、徐
にスパイクが唇を離した。
揺れる瞳で見つめるフェイをじっと見返し、スパイクは口を開いた。
「…余計なこと、あんまりごちゃごちゃ考えんじゃねぇよ。…あん時は、とにかくお前を助ける
ことしか浮かばなかったんだ。他に理由なんかねえよ。他のことなんかいちいち考えてられ
るか」
相変わらずぶっきらぼうな声。それでも、その答えはフェイに痛いほどに染み透った。
たとえそれが非常事態だったとしても。たとえそれが必要に迫られてのことだったとして
も。
今、この時だけは。スパイクの瞳は、確かに、自分を見ている。
フェイは思わず潤みそうになった瞳を隠すようにうつむき、喉元にこみ上げてくる熱い固ま
りを何とか飲み込もうとした。
その頬にスパイクの手が触れ、顔を上げさせる。びくりとしたフェイの目を、真面目な視線
が覗き込んだ。
粉雪の舞う窓際の下、静寂に包まれて二つの影が揺れ、オレンジ色の淡い灯を映した二
つの瞳が交じり合った。
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