「紅蓮」 第1・1/2幕 “蛍”

<其之弐>


 川岸での一件以来、烈火たちは沙弥香と顔を合わせる機会も何度か持つようになった。
 彼女の仕事場である広場が「雪月花」の近くということもあり、折を見ては広場に立ち寄り、彼女の舞を見物していた。
 特に遥がいたく熱心で、時間があると簡単な舞の動作を沙弥香に習いに行っていたほどである。
 そして案の定、彼女の天然の鈍さのせいか、時々珍妙な動きを披露しては皆に笑われていたのだが。


 親しくなっていくにつれ、沙弥香も次第に打ち解けて色々なことを烈火たちに話すようになった。
 旅の中で見聞きしてきた、様々な土地や人々の暮らし。
 旅巡業に出るようになる前のこと、そして───今の両親とは本当は血は繋がっていないということ。
 いつも携えている、本当の母の形見という竹笛の音色も、時々烈火たちに聴かせてみせた。
 多くは語ろうとしなかったが、話の端々からうかがえる、彼女のあまり平穏ではなかったであろう生い立ちを察し、烈火たちもそれ以上深く立ち入ろうとはしなかった。
 それでも、彼女の芯の強さや素直な明るさは、不思議と彼らを惹きつけ、心和ませるものだった。


 そんな付き合いが何日か続いたある日、事件は急に起こった。


 その日、烈火たちは美咲からの連絡を受け、「雪月花」に出向いていた。
 用を済ませた後、まだ日の高い昼間だったので、まだ準備中であろう広場には寄らず、そのまま一旦里へ戻ろうとした、その帰り道。
 町の少し外れ、雑木林と畦道を隔てる川のほとりに差し掛かった、その時だった。
「ぎゃああああ!!」
 突然、男の絶叫が響き渡り、それを追って女の金切り声が上がった。
「!!?」
 烈火たち四人は即座に足を止め、辺りに素早く警戒の視線を張り巡らせた。
「今のは──!?」
「あっち! あの川向こうの林の中からよ!」
 茜が声のした方向を指差して叫ぶ。
「行くぞ!!」
 烈火が言下に先頭を切って猛然と走り出し、遥たちも無言でその後に続いた。


「あ……」
 沙弥香は目の前に迫った異形の影に声も出せず、短刀を握った手をカタカタと震わせた。
《グルルル……》
 地の底から響くような唸り声を上げ、その口元を残忍な笑みの形に剥き、三匹の鬼はじりじりと獲物を追い詰めていった。
 鬼の後ろには、無残に食い殺された二人の年老いた男女の遺体が倒れている。
 たまたま近くを通りかかった時、ただならぬ悲鳴を耳にして、林の中へ入り込んでしまったのが迂闊だった。
 ──まさか、こんなところに鬼が現れるなど、誰が予測できるだろう。
 竦みそうになる足を叱咤して、一歩、また一歩と後ずさるが、相手は巨体の鬼だ。それも三匹。
 多少腕に覚えがあるとはいっても、それはあくまで人間相手のこと。特別な修行を積んだことがある訳ではない彼女に、どうにかできる相手ではなかった。
 しかも、逃げ道は既に塞がれている。
 そして、先頭の、一番体躯の大きい鬼が、ニタリと動けぬ獲物を見据え、今にもその毒牙の餌食にせんと彼女に襲いかかった!
「───!!」
 観念してぎゅっと目を瞑り、歯を食いしばったその瞬間、
《グガァア!!》
 突如として、鬼が凄まじい呻き声を上げて仰け反った。
「!!?」
「沙弥香───っ!!」
 沙弥香は自分に狙いを定めていた鬼が、急に三匹とも唸り声を押し出しながら身悶えたのを見て呆然としたが、自分の名を呼ぶ聞き覚えのある声を耳にし、視線を向けると、数名の人影がまっすぐこっちへ走ってくる。
「烈火さん!」
 見知った人物の姿を認め、彼女も声高に呼び返した。
《グルァァァ!!》
 背中に数本の苦無(くない)が刺さった鬼が狂ったように咆哮を上げ、烈火たちに襲いかかる。
「はぁっ!!」
 鬼が振り回す腕を左右に跳んで避け、隙ができた瞬間を突いて烈火の抜き放った刃が鬼の胴体を一閃する。
《ガォオオッ!!》
 地に響くような呻きが上がるが、鬼の強靭な皮膚を貫き通すには至らず、二・三歩後ろに引いて刀を構え直す。
「くそっ、浅いか!」
「こいつら、こんな町のすぐ近くまで!」
 綾乃、茜、遥もそれぞれの得物を手にして鬼を見据える。が、
「きゃああ!」
「!!」
 不意に沙弥香の悲鳴が響き、はっと振り返る四人。
 鬼の中で最も巨躯の一匹が、面倒事は御免だとでも思ったのか、彼女を掴み上げて逃走を図ったのだ。
「いやーっ、離して!!」
「沙弥香さん!!」
 遥が血相を変えて叫ぶ。沙弥香の声と姿は、たちまち鬼の足音と共に遠ざかっていく。
「烈火、早く追って!」
「ここは私たちが引き受けます!」
「わかった、頼む!」
 茜たちに残りの二匹の相手を任せ、烈火は沙弥香を連れ去った鬼を追いかけた。
 生い茂った雑木林の中を疾風の如く駆け抜け、見失うまいと必死になる。
 巨体の鬼の足跡を追っていくうちに、視界の先が開けていく。と同時に、水が流れる音が耳を掠めた。
「滝の音……この先は、崖か!」
 烈火の面持ちが更に険しくなる。とにかく足を止めるため、二本の苦無を鬼目がけて投げつける。
《ガァァ!!》
 二本のうち一本に右脚を貫かれ、鬼が走る足を止めて呻いた。
 そこで急に、鬼の背中の皮膚が奇妙な形に歪み始めたのを見咎め、はっと烈火の表情が変わる。
 瞬間、遥をさらわれた時の記憶が脳裏をよぎったのだ。
「させるかぁっ!!」
 ここで空を飛ばれては手の打ちようがなくなる。一瞬早く鬼の行動を察知した烈火は、渾身の力で跳躍すると、鬼の背中に斬りかかった。
《グァァァァ!!》
 今にも翼の形を成そうとしていた外皮を斬り裂かれ、鬼が絶叫を上げる。
 だが、片腕は依然沙弥香を捕らえたまま離そうとしない。
「は、離してっ!!」
 沙弥香は金切り声を上げて必死に鬼の腕から逃れようともがき続けるが、彼女の力で抵抗できるわけがなかった。
「その子を離せっ!!」
 次の瞬間、腹の底から叫びを上げて鬼に斬りかかった烈火の怒りの太刀が一閃し、沙弥香を捕らえていた鬼の片腕を斬り落とした。
《グガァァァァ!!》
「きゃあっ!」
 胴体から離れた腕が丸太のような音を立てて転がり、束縛から急に解放された沙弥香が宙に放り出され、地面に落下する。
「沙弥香!」
 烈火が着地して急いで駆け寄り、彼女を助け起こす。
「大丈夫か、沙弥香!?」
「いたた……、は、はい……」
 投げ出された衝撃の鈍い痛みに顔をしかめながらも、何とか体を起こす沙弥香。ひとまず怪我がないことを確認し、烈火がホッと安堵の表情になる。
 カララ……
「!?」
 微かに耳をかすめた落石音にはっと振り返ると、既に数歩先が切り立った崖口になっていることに気づく。
 辺り一帯を覆った繁みに隠されてわからなかったのだ。
「危なかった……間一髪だな」
「! 烈火さん!!」
 猛烈な勢いで迫ってくる鬼を見て沙弥香が叫ぶ。
《グルル、ガァァァ!!》
「!!」
 片腕を斬り落とされて怒り狂った鬼が残った腕を振り回し、まばらに生えていた細い木を何本か薙ぎ倒す。
 その時、鬼が暴れ回る衝撃で、彼等がいるその場所の地面の奥が、みしりと鈍い音を立てたことには、誰も気づかなかった。
 沙弥香を抱えて跳躍しながら攻撃をかわし、一定の距離を取ると烈火は繁みの陰に彼女を降ろして囁いた。
「ここを動くな」
「は、はいっ…」
 烈火は刀を構え直すと一呼吸置き、再び遅い来る鬼に猛然と向かっていった。
「はああああ──っ!!」
 執拗に腕を振り回す鬼の猛攻をかいくぐり、地を蹴って跳び上がった烈火の太刀筋が閃き、渾身の一撃が鬼を袈裟がけに斬り裂いた。
《グ…ギャアアアア!!!》
 耳を覆いたくなるような断末魔の叫びを上げ、鬼の体がゆっくりと傾き、轟音を立てて倒れた。
「っ……」
 咄嗟に目を瞑っていた沙弥香は、衝撃と咆哮の余韻が尾を曳いて消えた後、恐る恐る目を開けた。
「沙弥香!」
 鬼が動かなくなったのを確認し、大きく息を吐くと、烈火は抜き身を下ろして走り寄った。
「大丈夫か?」
「は、はい……私は大丈夫です。烈火さんこそ……」
 鬼の返り血が顔や服に飛んでいることに気づいた烈火は、ああ、と呟いて手の甲で汚れを拭う。
「俺は何ともない。……よかった、無事で……」
 緊張が緩み、安堵の溜め息を吐き出した烈火の肩の力が抜ける。
「ご…ごめんなさい、私が安易に林の中なんかに入っちゃったせいで…」
「何言ってるんだ、君が悪いわけじゃないさ」
「でも……」
 命懸けで自分を助けてくれた烈火に対し、申し訳なさと嬉しさとが入り混じって次の言葉に詰まった沙弥香の表情が、顔を上げた途端、再び強張った。
「沙弥香?」
「烈火さん、後ろ!!」
「!!」
 だが、沙弥香が叫んだ直後、ゆらりと地面に差した影に気づいてはっと後ろを振り向いた時は遅かった。
《ガァァァァァ!!!》
 まだ力尽きていなかった鬼が、最期の足掻きとばかりにその毒牙を剥き出し、一瞬無防備状態だった烈火の肩口に牙を突き立てた!
「ぐあっ!!」
 鮮血が飛び散り、無数の鋭い牙が鈍い音を立てて烈火の体にめり込む。
「烈火さん!!」
 沙弥香の顔が衝撃に凍りつく。
「が…はっ、ぐぅ…ぁあ…!!」
 全身を焼けるような激痛が襲い、のしかかる凄まじい重圧感に体中の筋肉がみしみしと軋んだ。
「いやぁぁ! 烈火さん!!」
 だが、自分を呼ぶ沙弥香の声に、崩れかけた体を歯を食いしばって持ちこたえる。
 流れる血が右腕を伝い、地面に落ちて次々と赤い染みを作っていく。
 右腕は無理だ。が、
(左なら、まだ…!)
 動かぬ右手から刀の柄を左手でもぎ取り、逆手に持ち替える。
「ぐぅ…、っ、うああああ!!!」
 そしてありったけの力を振り絞り、未だしつこく食らいつく鬼の首目がけて、刃を振り上げた!
 鬼の硬い皮膚が裂ける音と同時に大量の血が噴き出し、体を蝕む凶刃の力が緩んだ瞬間、渾身の力で刃を押し上げた。
 ゆっくりと肩に食らいついていた首が離れ、力を失った鬼の胴体が傾き、崩れていく。
 そして…、その衝撃が、戦いの振動で動き始めていた地面を押し崩す最後の一手となった。
 ピシ……
「!」
 ひび割れた地面が乾いた音を立てたその刹那、烈火と沙弥香がその身を置いた場所がふっと堅さを失い、落石音と共に崩れ落ちた!
「!! きゃぁぁぁ!!」
「うぁ…ああああっ!!」
 成す術もなく崖の上から宙に放り出された二人の悲鳴が辺りに谺し、その姿と声は瞬く間に流れ落ちる滝と立ちこめる水煙の中へ呑み込まれ…、そして、見えなくなった。


<其之参>





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