チュン……チチチッ……
山鳥の小さな囀りが、遠くから微かに聞こえてくる。
「……う……」
意識が覚醒していくにつれ、顔に光が当たる眩しさを感じ、烈火は重たい瞼を引き上げた。
「……」
何度も目を瞬き、輪郭のぼやけた視界をはっきりさせる。
最初に目を覚ました時のような薄暗さはあまりなく、今度は屋根の仕組みがはっきりと見て取れた。
眩しさの元に視線を巡らせると、格子のついた窓から陽の光が差し込んでいるのがわかる。
「……朝……?」
しばし朝陽に目を細めた後、ふと自分の手に触れる温かい感触に気づいた烈火は、視線を天井から下へと落とした。
「………」
──そこには、沙弥香が少し疲れた顔で横になっていた。
右手はしっかりと烈火の手を握ったまま、静かな寝息を立てている。
その横顔を見つめ、烈火の表情から緊張の色が緩む。
「…、つっ…!」
起き上がろうとすると、依然体には痛みが走ったが、昨夜ほどひどくはない。
顔をしかめながら何とか上半身を起こし、自分の体の状態を確認する。
あちこちに作られた打ち身や擦り傷は、崖から落ちた衝撃でできたものだろう。
鬼との戦いの際に負った右肩から胸にかけての傷には、手拭いや襟巻きを包帯代わりにしっかりと巻きつけてある。思いの外深かったようで、こうしていても鈍い痛みが響いた。
出血が多かったせいか、頭を振ると時折目が暗む。
とはいえ、傷の応急手当と止血は済んでいるようで、沙弥香が必死になって自分を介抱してくれただろうことがうかがえた。
重ねられた沙弥香の手を握り返し、伏せた睫の覗く額にそっと触れる。
いつもは額に巻かれている飾り紐がないせいか、前髪が額にかかり、少し幼げな印象をもたらしていた。
──その時、前髪に隠れて一筋の紅い線が走っているのが目に留まる。
「!」
見ると、額から左のこめかみにかけて、古い傷跡が残っているのがわかった。
「………」
それが何を意味するのかはわからない。けれど、何か心にずきりと響くものを感じ、烈火は目を細めた。
普段、常に飾り紐を身に付けていたのはこの傷を隠すためだったのか───そう思うと、見てはいけないものを見てしまった気がして、急に心苦しく感じた烈火は、前髪でその傷跡をそっと隠した。
「……ん……」
そこで、沙弥香が微かに呻きを洩らし、目を覚ました。慌てて手を引っ込める烈火。
何度か睫を上下させた後、彼女はあっと小さく声を上げて起き上がった。
「いけない、寝ちゃった……」
「…大丈夫か? 沙弥香」
「!」
半開きの瞼を擦ってかぶりを振った沙弥香は、そこで初めて烈火が身を起こしていることに気づいて目を見開いた。
「烈火さん!? もう起きて大丈夫なんですか!?」
慌てて居住まいを正し、彼の体を気遣うように背中に手を寄せる。
「ああ…、何とか…。まだ痛みはあるが、昨夜ほどじゃない」
「無理しちゃ駄目です、まだ充分な手当てもできてないんですから…!」
「…ああ、わかってる」
彼自身、まだ無理のきかない状態であることは充分承知していた。が、それ以上に気になることがあった。
「それより、君は……大丈夫なのか? …その…」
自分を見つめ返して、少し言いづらそうに言葉を継ぐ彼の問いが、暗に昨夜のことを指しているとわかり、沙弥香は静かに微笑んだ。
「大丈夫です。……この力を使った後は、少し……疲れるだけですから」
徐にそう呟くと、彼女は烈火の手を取り、彼の右腕に残っていた掠り傷の上へ片手をかざした。
すると、彼女の掌から淡い、金色の光が──昨夜、見た時と同じあの光が──ふわふわと漂い始めた。
「……!」
驚きに目を見張る烈火の眼下で、光は温かく彼の腕を包み込み──しばらくして、ふっと消えた。
見ると、ついさっきまでそこにあったはずの真新しい傷は、跡形もなく消えていた。
「…これは…」
言葉もなく目を見開いて自分を見返す烈火に、沙弥香は黙って頷いた。
「…驚くのも無理はないですよね。…私、こうして人の傷を治すことができるんです。…なぜ、自分にそんな力があるのかは……私にもわからないんですけど」
そう言って少し寂しげな笑みを見せる沙弥香に、烈火はようやく状況を飲み込めたように目を瞬いた。
彼女が重傷を負った自分を、おそらく一晩中──その力を使って手当てしてくれていたのだということを。
だから昨夜は体を動かすことすらできなかった自分が、今、これだけ回復しているのだ。
「…そうか…、君がずっと、この力で俺を……」
「……知られたくはなかったけど……でも、この力を使わなければ、助けられないと思ったから……」
目を伏せてうつむく沙弥香の手を、不意に烈火の手が強く握り返した。
「ありがとう、沙弥香」
弾かれたように顔を上げた沙弥香の瞳には、優しげに微笑む烈火の面差しが映った。
「……烈火さん……」
うまく言葉が出て来ず、揺れる眼差しで見返す沙弥香。
「……気味悪く…ないんですか? 私が……」
「気味が悪い? どうして?」
「どうしてって…、その……、普通の人にはない力を持ってる私を前にして……」
「何言ってるんだ。沙弥香はその力で、俺を助けてくれたんじゃないか。それが気味悪いわけないよ」
「烈火さん……」
余程彼の言葉が思いがけなかったのか、沙弥香はしばし声を詰まらせ、うっすらと潤んだ目を慌てて擦って誤魔化した。
「あ…、すみません。今までそんな風に言ってくれた人って、両親以外いなかったから……」
こみ上げそうになる声を唇を噛んで飲み込む彼女の手を、烈火はもう一度握り返して穏やかに笑いかけると、徐に小屋の窓を見上げた。
「…もう、夜が明けて少し時間が経ってるみたいだな。…俺の刀、取ってくれるか?」
鞘に収めて傍らに寝かせてあった自分の刀を示し、烈火は手をついて膝を立てた。が、
「うっ…!」
上半身の傷が疼き、顔をしかめて前かがみになる。
「烈火さん!? 駄目です、まだ無理しちゃ…!」
慌てて静止しようとする沙弥香の手を押さえ、烈火は小さく首を振った。
「いや、ここにいても、また危険がないとは限らない。…それに、みんなもきっと心配してるはずだ。できるだけ、早く町の近くまで戻った方がいい」
「でも……」
「俺は大丈夫だ。…今なら、何とか動ける」
「……」
不安げな表情を隠せない沙弥香の肩に手を置き、烈火は苦しげながらも笑みを見せた。
彼の体が心配ではあったが、確かにこれ以上ここにいても、満足な処置はできない。烈火の言う通り、ここはひとまず町へ戻ることを先にした方が得策だった。
「…わかりました」
沙弥香は意を決したように頷き、刀を取って差し出すと、背中に手を添えて彼が立ち上がるのをゆっくりと支えた。
「大丈夫ですか?」
「…ああ。ありがとう…大丈夫だ。……行こう」
「──はい」
───その頃。
「烈火──っ!」
「沙弥香さーん!」
町外れの谷川の下流では、必死に烈火たちの名を呼ぶ遥たちの声が響いていた。
応援の手を借りての捜索は夜を徹して行われたが、一向に見つからない手がかりに皆の焦りも強くなっていく。
段々と疲労も溜まり、声も枯れかけていたが、それでも彼女たちは休まず二人を捜し続けた。
あまり手入れのされていない川沿いの道は、上るのも下るのもそうそう容易ではない。傾斜を滑り、岩の段差を越えるたび、苦しそうに顔をしかめる烈火を、沙弥香は不安そうに見守った。
「大丈夫ですか?」
「──ああ」
正直、体力の落ちた状態での負担は大きく、傷口に響く痛みも増してきていたが、それでも足を留めるわけにはいかなかった。自分だけではなく、彼女のためにも。烈火の経験からくる勘が、そう言っていた。
雑木林を抜け、斜面も緩くなった平地へ出てくると、今まで見えにくかった視界が開けてきた。
その時、
「……さーん!……」
遠くから聞こえてきた声に、二人は顔を上げた。
「この声は……」
「……多分、遥だ。…きっと、俺たちを捜してるんだ」
顔を見合わせて頷き、沙弥香は声の聞こえてきた方向へ向かって精一杯呼び返した。
「遥さーん!」
「……さーん……」
「!」
遥は微かに耳に届いた声に、はっと目を見張った。
「今のは……」
空耳ではない。確かに誰かが、自分の呼びかける声に応えたのだ。
「烈火さん! 沙弥香さん! いるんですか!?」
今までの疲れも吹っ飛んだかのようにぱっと顔を輝かせ、遥はもう一度二人を呼んだ。
「…遥さーん!……ここに……」
間違いない、と確信を得ると共に、遥は夢中で声のした方へ走り出した。
川を越えて雑木林の中へ入り、繁みをかきわけて進んでいくと、木々の影が立ち並ぶ中から、人影が現れるのが目に留まった。
「烈火さん! 沙弥香さん!」
それが二人だとはっきりわかると、まっすぐに二人に向かって駆け寄る遥。
「遥……」
「遥さん!」
烈火と沙弥香も、ようやく見知った相手を確認して表情が緩んだ。
「よかった……二人とも、無事で…っ」
やっと二人を見つけて安堵したのも束の間、遥の言葉が途切れる。
「烈火さん! どうしたんですか、その怪我! 何があったんですか!?」
傍目からも軽くはない怪我を負っているのが一目でわかる烈火を見て、遥はうろたえた。
「…大丈夫だ。…後で、話すよ……それより、遥……彼女を、頼む……」
弱々しく笑みを見せ、苦しげな息の下からそれだけ声を絞り出すと、そこで彼の体からふっと力が抜けた。
「! 烈火さん!?」
「烈火さん!」
遥に会えたことで気が緩んだのか、烈火はそのまま気を失っていた。
「烈火さん、どうしたんですか!? しっかりして下さい!」
動揺して懸命に彼の体を揺すって叫ぶ遥。
「沙弥香さん、一体何があったんですか? どうして、こんな…」
「ごめんなさい、訳は後で説明します。それより、今は早く烈火さんを安全な場所まで…! 遥さん、手を貸して下さい!」
「あ…、は、はい!」
遥も慌てて我に返り、烈火の体を傍らから手を添えて支える。
「綾乃さんたちもすぐ近くにいるはずですから、皆さんにも伝えなきゃ…」
「ええ。とにかく、町の近くまで戻りましょう」
二人は頷き合い、少しでも烈火の体に負担がかからないように注意を払いながら、町を目指して歩き出した。 |