「夢のまえに 1」

 

星奏学院学内音楽コンクールが終了して数ヶ月。ひょんなことからヴァイオリンでコンクールに参加することになった日野香穂子にとって、放課後の音楽準備室に行くことが、もはや日常化したこの頃。
いつもは放課後になれば、すぐに音楽科の方に駆け出し、大好きな教師・金澤紘人に会いに行くのだが、今日はそのような気分になれなかった。なぜかと言えば・・・・・

「私、今までよく知らずに弾いてた・・・・『夢のあとに』が、こんなに切ない曲だったなんて・・・・」

それは香穂子にとっても、そして大好きな紘人とも関係の深い曲だ。
香穂子はコンクール中に一生懸命この曲を練習し、最終セレクションで堂々の1位に輝いた。そして紘人に練習を聴かせた時は、この曲についての思い出や、昔の恋愛話をほのめかす事もあった。
それから香穂子にとって、この曲は何にも変えがたい大切な曲の1つになったのだが・・・・今、香穂子が見ている物は、『夢のあとに』の解説が載っている楽譜だ。
それまではファータ印の楽譜を見ていた香穂子だったが、セレクション用に短くまとめられている楽譜の為、原曲そのものの楽譜を取り寄せたのだ。
きっかけは些細なことで、自分にとっても、紘人にとっても馴染みのある曲だから、本格的に練習したいと思っただけだった。しかしこの曲の背景には、過ぎ去ってしまった愛しい女性との一時をもう1度といった、やるせない思いがあふれんばかりに込められているのだ。

「先生・・・だから、この曲が、先生にとって・・・・・」

香穂子はもう何も考えたくなかった。悲しくて、机に突っ伏すことしか出来ない。
昔、紘人は大切な恋愛をなくしてしまった。それからずっと、このつらい思いに耐えてきたに違いない。
だからコンクールを終えて、自分の気持ちを『愛のあいさつ』に託して演奏したあの時、紘人が来てくれたことがとても嬉しかった。傷心しきった紘人の心を、自分が少しでも救えたのかな、と・・・・
だが、この『夢のあとに』の詞や訳詞を見た時、少し自惚れすぎていたと香穂子は実感した。紘人にとって、昔の女性はどれほどかけがえのない存在だっただろう。誰よりも強く慕っていた、愛しい女性に捨てられてしまうなんて・・・・正に、『夢のあとに』そのものではないか。
今でも紘人は、愛しい彼女を忘れることは出来ないだろう。そしてその想いは、紘人が自分に向けてくれている想い以上なのではないだろうか?
香穂子は、完全に紘人の昔の女性に嫉妬していた。それと同時に、その女性を羨ましくも思ったりした。

「きっと私とは違って、自分の気持ちを言うことも、一緒に出かけるのも、自由だったんだよね・・・・良いなぁ〜。もしも私が、先生と同い年位だったら・・・・」

悲しくて、悔しくて、羨ましくて、香穂子は目からこぼれる熱いものを止めることが出来なかった。
こんな顔では、紘人の所になんて行けやしない。しかし、このまま泣いていては埒が明かない為、香穂子は何とか涙を拭い、ヴァイオリンケースを持って立ち上がった。
行き先は、いつもの音楽準備室ではない所。香穂子は、人が来ない練習室へと向かったのだった・・・・・

 

時刻は16時を過ぎていた。紘人は音楽準備室で、自ら吸った煙草の白煙をボーッと見ながら、香穂子のことを待っていた。
しかし、誰かがこちらに来そうな気配は一切ない。いつも香穂子は、どんなに遅くても15時半過ぎには必ずここに来ていたのに・・・・

「・・煙草臭いのは、嫌いだったっけ・・・・でも、それならどうして来ない?」

既に小さな灰皿の中には、煙草の吸殻が3本ほどもみくちゃな状態になっていた。そしてたった今、それまで吸っていた煙草の灰を消した為、4本目の煙草の燃えさしが出来上がる。
紘人の周りに広がるのは、薄い白煙と煙草のにおいのみ。香穂子のいない音楽準備室は、とても静かだ。
しかし、今の紘人にとっては嫌な静かさだった。香穂子の音色は、いつも自分の為にあるものだったから。その音色を、毎日聴いていたかったから・・・・こんな静寂など、紘人は望んでいない。

「まさか、学校休んだか?コンクールの疲れでも出たかねー・・・」

コンクール期間中は、土日も休みなく練習、練習の繰り返しだった。ちょうど今頃が、ようやくコンクールの緊張も取れてホッと一息ついた時だろうとは思う。
しかし、だからと言って香穂子が学校を休んだとは考えにくい。いつでも元気で、タフで、「バカだから風邪ひかないんです〜。」なんて可愛いことを言っていた香穂子が、つい昨日まで元気だったのに、急に学校を休むとは考えにくい。
あるいは、急用でも出来たのだろうか?コンクール以来、仲良くなった報道部の天羽菜美にでもつかまっただろうか?
しかし、わざわざ香穂子のことを迎えに行くのも面倒だし、仮に迎えに行ったとして、他の生徒から一緒にいるのを見られて、誤解を生みそうなのが嫌だった。だから、紘人は香穂子のことを待つしか出来ないのだ。

「・・日野。俺は・・・」

いつもは言わないこの想い。しかし、それは香穂子といることによって、ますます膨らむばかりだ。今の紘人にとって、香穂子は絶対になければならない存在なのだから。
早く来て欲しかった。いつものように笑いながら一生懸命練習し、その音色を自分の為だけに聴かせてくれる香穂子に、一刻も早く会いたくて・・・・・
想いが募ったその時。紘人の耳に、小さなヴァイオリンの音色が聴こえてきたような気がした。しかも、その音色は紘人にとって思い入れの深い『夢のあとに』。最終セレクションで見事なまでに演奏したのは香穂子だった・・・・・
もしかしたら空耳かもしれない。だが、その音色は確実に紘人の心の中に響いていた。
紘人は、この音色の先に香穂子がいるとすぐに分かった。だからすぐに席を立ち上がり、珍しく走り出した。香穂子に会う為に・・・・

 

元々この練習室には人が滅多に来ないし、うるさく外部に音が漏れることもない。だからこそ、今の香穂子にとっては非常にありがたいことだった。
香穂子はゆっくりとケースからヴァイオリンを取り出し、構えると、ゆっくりと『夢のあとに』を弾き出した。

『想いを口にしてはいけない。音色に託して・・・』

紘人の言葉を辿るように、香穂子はゆっくりと『夢のあとに』の旋律を奏でていった。
今日は、紘人に会わなくていい。いや、むしろこんな気持ちじゃ会えない。もしかしたら紘人は自分を探してくれているかもしれないけれど・・・・今日は、無理なのだ。この曲は、失恋した男性が愛しい女性への気持ちを歌う曲だが、その男性と同じ位、香穂子は切ない気持ちになっていたから・・・・
その旋律や解釈は、いつもの香穂子の演奏以上に、愁情がたっぷり込められていた。もしもここに観客がいたら、思わず涙してしまうかもしれない位に。
むしろ、香穂子自身弾きながら、涙を止めることが出来なかった。つい涙を流して演奏していると、関係ない変な音まで出てしまう。しかし、香穂子はひたすら弾き続けた。どんなに間違えても、涙が出てきても、自分の想いを込めて・・・・・

「ウゥッ。せん、せ・・・・!」

もっと早く出会っていれば、こんなつらい想いをせずに済んだだろうか?教師と生徒でなければ、もっと分かり合えただろうか?
紘人のことを考えるだけで切なくて、悲しい想いがあふれてしまう。こんなにワガママで甘えん坊な自分にも、紘人はいつも優しくしてくれるけれど・・・いつか、捨てられてしまうのかな・・・・?
それだけは嫌だった。紘人に、嫌われたくない・・・・!!香穂子がそう思ったのと、紘人が練習室のドアを開けたのは同時のことだった。

「!先、生・・・・」
「日野・・・!お前さん、どうして・・・!?」

香穂子は腰が抜けたのか、ストンとその場に座り込むと、ヴァイオリンと弓をその場に力なく置いた後、声を上げて泣き出してしまった。それは、紘人が来てくれた嬉しさからだ。
しかし、紘人としては驚くべきことでしかない。なぜ香穂子が1人でここにいて『夢のあとに』を弾いていたのか?そして、香穂子が泣きじゃくってしまった理由は・・・・?

「ウッ・・ウワーン!ウゥッ・・・!」
「日野・・・・」

紘人は静かにドアを閉めてからしゃがみ込んで、座り込んで泣いてしまった香穂子を強く抱き締めた。香穂子の頭を自分の胸に押し付けるようにして、『この中で泣け』と言わんばかりに・・・・

「グスッ・・・!せん、せ・・・・!」
「・・もう何も言わなくていい、日野・・・・俺は、お前につらい思いばかりさせて・・・・」

紘人がそう言うと、香穂子は紘人の胸の中でしゃくり上げながらも、首を横に振った。
つらい思いをしたのは、紘人の方だ。愛しい女性に去られた後、この虚無の想いをどうすれば良いのか分からなかっただろうから。
そして、願うことしか出来なかったのだろう。叶うことはなくても、また会いたいと・・・・・

「・・日野・・・・」
「ごめんなさい、先生・・・ごめん、なさい・・・!」
「日野。ハァ〜・・・・・結局俺は、お前に何もしてやれない・・・・お前はいつも、俺の為に弾いてくれるのに・・な。」
「先生・・・・!」

香穂子が何とか涙を拭って紘人を見つめると、紘人もまた、香穂子を見つめた。
紘人の表情は、いつになく真剣だった。今まで、こんな真摯な瞳で見つめられたことがあっただろうか?
自分を見つめてくる紘人の眼差しは、大人の色気と混じり、大好きな人だから、あまりにも格好良かった。ドキドキしながら紘人を見つめていると、紘人がゆっくり顔を近付けてきた。
そのことで自然と香穂子が目を閉じた次の瞬間、香穂子と紘人の唇は重なっていた。紘人に強く抱き締められ、香穂子もまた、紘人の背中に手を回す。
紘人とのキスが初めてな訳ではなかったが、いつになく情熱的で、胸が締め付けられそうなキスだった。
そして、今日は唇に触れるだけのキスで終わらせてくれなかった。薄く開かれた香穂子の口腔に紘人の舌が入り込み、互いに舌と舌を絡め合わせたのだ。
初めてのことで香穂子はよく分からなかったが、紘人の舌が動くまま、自らの舌を絡ませた。

「・・ん・・・っ・・ん〜・・・!」
「苦しい、か?・・大丈夫か?日野・・・」

つい自分の気持ちに歯止めがきかなくて、苦しそうにしながらも、香穂子の甘い声を聞いた紘人は、急いで唇を離した。しかし、香穂子はブンブンと首を横に振った。

「私、嬉しいです・・・・!嬉しくて・・・先生が・・・私・・・・!」

香穂子の涙は大分収まったようだが、それでも泣きながら自分に笑顔を見せてくれる香穂子が、最高に愛しかった。
失ってしまった恋は、2度と戻らないと思っていた。しかし、香穂子と出会ったことで、恋は1度だけではないということを思い知ったのだ。
教師と生徒だから、この想いを口にすることは出来ないけれども・・・・日々香穂子と会い、その音色に触れることで、彼は幸せをもらっていた。だから、今度は自分から、香穂子に幸せをもたらさねばならない。

「・・日野・・・」
「はい・・・?」
「・・お前がどこに行ったのかと、俺は気が気でなかった・・・・いつもなら、もうとっくに音楽準備室に来る時間だ。怖かったよ・・・また恋を失ったのかと、な・・・・」
「先生・・・・!すみませんでした!!でも、私、悲しくなってしまったんです・・・・!『夢のあとに』が、こんなに、こんなに切ない曲だったなんて、知らなくて・・・・!」
「・・それで、メロディーが悲しげだったのか・・・・」
「はい・・・でも、それだけじゃなくて。先生のこととか、先生の昔の女の人のことなんかも、勝手に考えちゃって・・・・・あの。先生は私がこの曲を弾いて、つらくなかったですか?」
「・・そりゃあ、昔を思い出したさ。色々とな・・・・」
「先生・・・・!」

自ら聞きだしておきながら、それ以上聞きたくないとばかりに香穂子は目を閉じた。それは紘人もよく分かったようで、香穂子の頭にそっと手を乗せる。
その時の紘人の顔は、いつになく穏やかだった。まるで香穂子に『ありがとう』と言っているかのようで・・・・

「・・俺は、あの時お前が演奏してくれて、良かったと思っているよ。解釈も良かったしな・・・・だが、今日の『夢のあとに』は格別だった。聴いているだけで、切なくなって・・・・前に言ったよな?この曲、女々しいってさ。」
「はい・・・・」
「ほんと、女々しいと思うよ。いつまでも過去を偲んでいたって、何もなりゃしない・・・・俺は、今があればいい。お前がこうして俺の傍にいてくれれば、他には何もいらないさ。」
「!せ、先生・・・・!」

嬉しかった。過去のことを受け止め、それでも尚、自分のことを必要としてくれるなんて・・・・紘人は口に出さずとも、こんなに自分を大事にしてくれてたのだ。
それにも関わらず、香穂子は勝手に紘人の昔の女性に嫉妬していた。自分は何てバカなんだろう・・・・こんなにも紘人に大事にされているのに、これでは紘人に対して失礼ではないか。
香穂子は紘人の胸に顔を埋めて、小さい声で謝った。

「・・ごめんなさい、先生・・・・!ごめんなさい・・・・!」
「・・・何でお前さんが謝る必要がある。俺の方こそ、悪かった・・・・」
「ち、違います!先生は何も悪くないです!だって私、勝手に先生の昔の女の人に嫉妬して、自分のことしか考えてなくて・・・!」
「・・いいんだ、日野。気にするな。」
「!先、生・・・・」
「・・ただ、1つだけ。俺に無断で、他の所に行かないでくれ・・・心配になるから・・な?」
「先生・・・・!はい、分かりました!」
「・・お前さんは、本当に素直に返事するな。そういう所が可愛い・・なんてな。」
「!せ、先生!?やっ、そんな。『可愛い』、だなんて・・・」

もちろん、紘人としては冗談で言ったつもりは毛頭ない。だが、ごまかしておかないと恥ずかしくなるし、何より自分は教師で相手は生徒だ。だからごまかさなくてはならないのだ。
しかし、香穂子にとって今の紘人の言葉は相当クリーンヒットだったようで、顔を真っ赤にしていた。そんな香穂子を見て、紘人の心がぐらつかない訳がない。

「日野・・・」
「先、生・・・ん・・っ・・・」

抑えられない感情。言いたい気持ち。それらを全てひっくるめて、紘人は香穂子の唇に自らの唇を重ねた。強く強く、香穂子だけを感じていたくて・・・・

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