目には見えぬものを
 



『仏に逢えば仏を殺せ 祖に逢えば祖を殺せ』
・・・・わっかんねえよ。

繰り返しますが相手は禅語。
知ることと分かることの断絶が深い深い世界。
知ることは分かることの妨げにすらなりうる。

さらにいうなら禅語がわかることと最遊記がわかることもまた別物。

けれどまあ結局は、亭主はこういう楽しみ方が好きなのです。
同好の方、以下お付き合いくださいませ。



「逢仏殺仏」この言葉は『臨済録』の一節です。 (なおこの一節の教えを「殺仏殺祖」とも呼ぶようです)
『臨済録』はいくとおりか出版されているようですが、岩波文庫がいちばんお手に取りやすいかと思います。
以下の亭主の文章も岩波文庫によっています。
『臨済録』入矢義高訳注 岩波文庫ワイド版 p.96〜
ワイド版は見やすくていいですよv
ふつうの岩波文庫なら青。

さて、まずは引用といきたいのですが・・。
漢字が出ませんので、白文はやめておきます。(ニィ博士のニィがでません。なんじ、ですね。)
読み下し文も一部私が勝手に漢字をかなに開いております。
正確さを求められる方はぜひ文庫にあたってください。

ではでは。

 道流、なんじ如法(にょほう)に見解せんと欲すれば、ただ人惑を受くることなかれ。
 裏に向かい外に向かって、逢著(ほうじゃく)すればすなわち殺せ。
 仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、 父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺して、 始めて解脱を得、物と拘(かかわ)らず、透脱(とうだつ)自在なり。


訳は入矢先生の文章をそのまま引用させていただきます。(改行は別)

 諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。
 内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。
 仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。


予想どおり?拍子抜け?それとも思ったより過激?
私の感想は「思ったよりきれいな言葉なんだ」でした。
救いのないような言葉かもしれないと恐れていたのですが、「透脱自在」という漢字の並びに希望が光っているようできれいだなあと思ったのでした。

ええと、もう少しまともに解説を。

『臨済録』と申しますのは読んで字の如し臨済さんの語録でございます。
臨済義玄 (?‐866) は中国の臨済禅の開祖。
(ご本人に「臨済宗」という宗派を新たに立てようという気があったかどうかは疑わしいですが、宗派の初めはどれもそんなものかな)
前回の慧能さんより150年ほど後の人ですね。

臨済録「示衆」の項、臨済さんは手を変え品を変え同じ話を繰り返します。
いわく、仏を外に求めるな。法を外に求めるな。
いま私の目の前にいる君がすなわち祖仏である、と。
話している、というよりはたぶん叱咤している、のですが。
逢仏殺仏はそんなあたりに出てくる一節です。

仏、祖師、羅漢、父母、親類。 (羅漢は悟りを完成した修行者のこと)
理想、権威、正しいと思われるもの、悟りの助けになりそうなもの、頼りたくなるもの、情のうつったもの(?)。 そういうモノ一切合切を否定しないと悟れない。

逢ったもの、触れたもの、とにかく自分でないそとのもの。
どんなに大切とされているものにも縋るな。
人=他者=外に惑わされるな。

ついでにわしの言うことにも惑わされるでないぞ、という意味もきっとあるあたり、 たちが悪い理解に難しい。

少し後ではこうも言うのですよね。
仏を中に求めるな。
わしが外には法はないと言うと、今度は内に求めようとする。大間違いだ。
・・・なんなんだよ、いったい。
祖師とか父母とかって「外」だろ?求めるな、否定しろって言ったじゃないか。

そしてもういちどよく読めば、「裏に向かい外に向かって、逢著すればすなわち殺せ。」
裏、は内。ああ、確かに中に求めるなとも仰っているわね。

外にも中にも求めるな。
しかもその「求めるな」の程度を「殺せ」と表現するほどに。
徹底した否定。
厳しい。それにもまして、分からない。

けれど。
そともうちも一切合切を否定して始めて悟れる。
あるいは、否定することそのものが悟りなのか。
殺して、始めて悟り、束縛されず、自在に生きられる。
これはあくまで肯定形の文章なんですよね。

君は悟れる。私は悟れる。私は自在に生きられる。

かあん、と抜けた青空のように高くて捉えどころがなくて広すぎて、 でも底抜けに明るい言葉。そう感じた。

・・・ほんとかな?
なんだか私すごく勘違いをしているような気もするし、
言葉にすればするほど臨済さんの教えはもとより
自分の中にある解釈からも遠ざかっていくのに。
しかもわしの言うことに惑わされるなと、釘まで刺されているというのに。

でも解釈を試みることは止められなくて。

外にも求めるな。内にも求めるな。
いま私の目の前にいる君がすなわち祖仏である。
あるがまま、求めない。求める必要がない。求めるものはそもそもない。
外にも内にも何もない。
あるがままの自分がすなわち仏、すなわち悟り。

ああそうか、無一物ということなんだ、と思考は結論付ける。
一切は無、一切は空。
そしてその結論は間違っていないはずですが、私は決してわかってはいないのでした。

ただそれでも。
外へも内へもなにもかも、真実すべてが否定されるべきであっても。
難しさと厳しさの横に、明るさがきっとある。
否定することに押しつぶされる必要だけはないのだと、腑に落ちた。

否定の苦しさに悩むことは、内にとらわれていることに違いないから。
この言葉を契機に悩むことは当然あり得る。けれど臨済さんは悩め苦しめと言ってはいない。
文の結びは「透脱自在」。

そしてもうひとつ、
    目には見えぬ物を悟ることのできる者、とは。

すさまじい願いなのだと思った。


.


論、ではなくひたすら感想ですね。感情の赴くまま。
今度は参考に出来るサイトをうまく見つけられませんでした。
三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫)でも「逢仏殺仏」は繰り返されるとか。
私は覚えていないのですが。(読み直さなくては)

ところで臨済録にはこんな一節もございます(p.199)。
「弟子の見識が師と同等では、師の徳を半減することとなる。
見識が師以上であってこそ、法を伝授される資格がある。」
玄奘三蔵、大変です。
禅宗では「師の法を全て肯うことは、師を裏切ることにほかならぬ」とさえ言うそうです。

さらに補足。書ききれなかったので。そしてひそかに趙州和尚のファンなので宣伝(苦笑)。
「逢仏殺仏 逢祖殺祖」の一節を『無門関』(西村恵信訳注 岩波文庫)でご覧になった方もおられるかも。
第1則 趙州の狗子仏性 (の無門和尚の解説)に出てきます。
第1則の詳細はこちら 保寿院 > 法  > 趙州の狗子仏性
無門関の詳細と第1則のわかりやすい解説はこちら  仏道 >  無門関・草枕 >  プロローグ第1則
400年の後にも教えは継がれているのですな(無門さんは1183-1260)。

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