| もしもクレオパトラの鼻がもう少し高かったら 1 |
「行くなって!」 何度目かの叫び声を俺は上げた。 あんちゃんは苦しそうな、けれど譲らないという強い眼差しで俺を見る。 それはいかにもあんちゃんらしい目だ。 そしてその痛々しさに俺は怯みそうになる。 だけどこれだけは俺も譲れねー。 俺もまっすぐにあんちゃんを見返した。睨みつけると言ってもいい。 そうじゃないとあんちゃんの意思の強さに負けてしまうから。 どうしたって、どうしたってあんちゃんを朝歌に行かせるわけにはいかねーんだ。 「けれど発、父上が囚われてからもう7年になる」 分かってる。わかってるよ。俺だって何とかしたいって。 でも。 でもあんちゃんを朝歌に行かせるわけにはいかねー。 「生きて帰って来れるとは限らねえじゃんか」 ・・こんな科白は役に立たねえ。 あんちゃんは自分の命と他の何かを秤にかけない。 まして何か、は親父の命だ。 そんなこと百も承知で、それでも口から言葉は零れる。 案の定、俺の科白にあんちゃんは淡く笑った。 「長子である私自身が先祖伝来の家宝を献上にあがれば、」 ああ。確かにそうすれば、もしかして親父を帰してもらえるのかもしれない。 だけどそれはもしかして、だ。 宝を取られた挙句に親父を帰してもらえないことだって十二分に考えられる。 あんちゃんがそんなこと気づいていない筈がないのに。 そして宝なら別にいいけどさ。 あんちゃん自身が朝歌に行くことに意味がある。 そこに意味があることを俺もあんちゃんも知っている。 ってことは、そういうことだろう? ぜってーに、俺はあんちゃんを行かせたくない。 俺はあんちゃんと睨み合う。 あんちゃんも親父も亡くすかもしれない賭けなんて、誰が乗るっていうんだよ。 自慢じゃねえけど、博打は遊んでる割に弱いんだ。 けれど揺るがない兄の眼に、俺の感情は高ぶっていく。 だってこんなに伝えたいのに言葉にしても届かないから、 視線で訴えても頑固なあんちゃんは聞いてくれねえから。 遣り場を無くした感情が、高ぶり荒ぶる。 「だいたい、」 親父がまだ生きているって保証が、どこにあるんだ? 怒気のまま言い放とうとして、ぎりぎりの瞬間俺は言葉を押しとどめた。 それは・・・言えない。 言ったらほんとうになりそうで怖かった。 言ったらあんちゃんを傷つけると思った。 なにより、それは俺の本音じゃなかった。 紡がなかったその言葉は、高ぶった感情の奥底を俺に見せた。 それは俺の本音じゃない。 俺ははじめて自覚する。 親父が生きているか死んでいるかなんて、この際はどうでもいいことだ。 親父が生きていようと死んでいようと、あんちゃんには生きてて欲しいんだ。 だってあんちゃんはいま俺の目の前で生きているんだから。 そしてあんちゃんと引き換えでしかないのなら、 急に顕になった胸の奥底の感情は、 思ったけれどそれは、ものすごくしっくりと肌に馴染んだ。 あらためて俺はあんちゃんを睨んだ。 あんちゃんを引き留めるためならどれほどでも残酷になれるような気がした。 俺は静かに口を開く。 「あんちゃん、政から逃げて俺に国を押しつけるワケ?」 あんちゃんが微かに息を呑むのがわかった。 今日のところはきっと、俺の勝ちだ。 あんちゃんの目の光が複雑に屈折するのを視界の端に捉えながら、 無言で俺は踵を返した。 |