「そういえば、俺っちたち仙道はどうしてこんな高いところにいるのさ?」
道徳の弟子がそう問うたとき、雲中子は内心でくすり、と笑った。
道徳と太乙は、さて、どう答えるだろうかと。
三仙は目を見交わして、そしてそれぞれが同じ記憶を思い浮かべたことに気が付く。
道徳が問われる立場になるなんて、遥かな歳月を巡ったものだねぇと彼は声に出さずに呟いた。
はるかはるか昔。
「なあ太乙、何で崑崙ってのは浮いてるんだ?」
尋ねておきながら何を尋ねたのか判っていなかった君は、太乙との会話の噛み合わなさに閉口していたっけか。
「それはさ、道徳。崑崙山の中には重力制御宝貝が組み込まれていて・・・」
重力だの斥力だの、盤古幡との類似点と相違点がどうの、安定性がどうの落下の可能性がどうの、非常時には自力走行が可能でどうの・・・・・。嬉々として宝貝を語る太乙に、こんなはずじゃなかったのになと思いながらでも話を遮ることもできずにひたすら聞いていた君の途方に暮れた眼は、いま思い起こしても楽しい。
だから君は、私をお茶に誘ってくれたんだよね?
「あ、雲中子!ちょっと寄ってかないか?」
君が淹れてくれた緑茶は、ちょっと蒸らし時間が足りなかった。
ちょうどいま天化君が淹れてくれてるお茶みたいにさ。
君の淹れるお茶の味がいつ変わったかなんてのは、君自身は知らないのかな。
まあともかく、若い君たちは噛み合わない会話をしてたよ。
会話になってないことに太乙は気付いてさえいなかったからね。
「何で崑崙が浮いているか、って?それで太乙は嬉しそうに話し続けてるのかい」
「あ、雲中子、いらっしゃい。道徳、聞いてるの?」
私は笑った。
「言ってやれば、道徳?俺の知りたいことはそんなことじゃないんだ、って」
肩を押してやったのに、君はまだ迷ってたよね。
「だよ、なあ。俺、何か違うことを聞きたかった気がするんだが。
でも「何で浮いているか」って聞いたら答えはこうなるよなぁ・・・」
まあ、ね。元はといえば君の問い方がまずかったんだ。
この期に及んで違うことを聞きたかった「気がする」なんて言っていてはね。
でも道徳、太乙は止めないと止まらないよ?
君たちの様子に私はにやりと笑いが止まらなくって、
それだけでも立ち寄ってお茶をご馳走になった甲斐があったと思ったよ。
「あのな、太乙、そうじゃなくって。・・・いや、お前は間違ってないんだけどさ、俺が聞きたかったのは・・・」
「え、何?だって道徳、崑崙山が何で浮いているのかって言わなかった?」
「言った。言ったんだが太乙、俺が聞きたかったのはどうやって浮いているかじゃなくって」
「じゃあ何?」
太乙のご機嫌は麗しくはなかったよね。まあ、そりゃそうだ、好きな話の腰を折られたんだしさ。
「何て言ったらいいんだ?どうして、浮いているのかってことなんだが」
「??どうして、ってだからこういう仕組みで」
あはは。太乙の方がここの暮らしが少し長いから、もうすっかり馴染んでしまったかな。
まあ、でも道徳、君の問いは真っ当だけど、残念ながらそれは意味のある答えが返る問いじゃない。
だから君がもの問いたげに私を見たって、答えてあげないよ?
断言できる。
いま私が答えられる答えと、これから君が見つける答えは、絶対に違う。
「雲中子、何にやにや笑ってるの?」
おや。そんなにわかりやすい表情をしてるかい、私は。
「いやいや。若いねぇ、と思ってね」
「あ、もう!また馬鹿にして!」
いやいや。決して馬鹿にしてるわけじゃない。
答えの出てない問いがあるってことは、結構、大事なことだよ?
まさにこの、浮いて、閉じた世界では。
結局私はにやにやと笑うばかりで、まあそんな私にもいい加減慣れていた二人はそのうちに他愛のない話に移った。その後で彼らがこの話を蒸し返したことがあるかどうか、私は知らない。
けど。
見交わした視線ひとつでそれぞれが答えを見つけたと知って、やっぱり遥かな時を巡ったものだねぇ、と私は思った。
***
「あ、ナタク兄ちゃん!」
寡黙な宝貝人間に駆け寄っていき、二言三言を交わし。
そしてその背に乗せて貰って飛び立った末の弟を、天化は見るともなしに見送った。
手元の紫煙がすうっと彼方まで立ち上っていく。
「何を呆けておる、天化?」
そう長いこと弟たちを眺めていたつもりでもなかったが、
声を掛けられるまで背後に気付かなかったのは、やはりぼうっとしていたのかもしれない。
高く澄んだ青い空、その中を飛び回る鮮やかな動き。
それらを眼に映したまま天化は答えた。
「崑崙の空とは、何かが違うさ」
何だ、そんなことを考えておったのか、と笑い含みの声が返る。
「それはそうであろう。ここは仙人界ではない」
事もなげに返された響きを耳に、何故だか足元の大地をひときわ確かに感じた。
「昔もこんな空だったか、ちょっと思い出せないさ」
「ふむ」
「師叔はどうさ?師叔だって昔、こっちで空を見てたんじゃないさ?」
「見ておった」
それは揺るぎない返事だった。天化は思わず太公望の顔を見る。
「見ておった。それは広く、広い空だった。そして果てのないほどに高かった」
不意に風が地を渡った。
足元で草もさわり、と揺れた。
「そして青く、美しかった」
「スース?」
いや、さっきからそれらは変わらない。風の流れも草のざわめきも、もちろん大地の確かさも。
天化がいま意識したというただそれだけ。
空の青さも、空の高さも、はるか昔からそうだっただろう。
変わったとすればそれは空の方ではなくて。
そう思う間に、空を語る太公望の眼は空を見て、そして天化を見つめたあとで、くるっと表情を変えた。
「天化、もしやおぬしもナタクの背に・・・」
からかい混じりの眼差しに天化ははいはい、と否定を返す。
「言ってるさ。俺っちなにも人の手を借りてまで飛ぼうとは思わねぇさ」
「ほう」
太公望の目がきらりと光る。
「飛びたいとは思うのだな?」
「はぁ?・・・ああ、」
失言だった、かも知れない。けれど揚げ足を取られたとただ否定するのも少し惜しい気がふっとして、天化はその質問を少し考えた。
「飛びたいとは思うけどさ、飛んでも空はもっと高いさ?」
にや、と太公望は笑う。
天化も何となく同じく笑って、また空を眺めた。
高い空に煙草の煙が、まっすぐに白く高く立ち上っていった。