西岐の夜は更けてゆく。二人は酒を飲んでいた。
注ぐ、注がれる。干す。注ぐ。
飽かず酒を酌み交わす。
大きく開いた窓の外、しん、と乾いて冷たい空に晧々と月が照っていた。
少しふっくらとし始めた月は、いま丁度南天に高い。
熱めに燗をつけた杯を手の内で揺らすと、甘い香りが天化の顔を上気させた。
黙って呑んでいるなんて、変さ。
こんなふうに杯を重ねたことはない天化はそう思ってみる。
でもだからって、何かを話したいと思うわけではなかったのだ。
味わったことのない沈黙の心地よさに、彼は戸惑っている。
酒が旨いことなんて今日はじめて知ったわけではないのだが。
月を映して呑む琥珀色の液体は、確かに旨かった。
「飲まねぇか？」
ちょいとばかり照れくさそうに親父殿が酒壷を揺らして自分の部屋の戸口に立つのを見たとき、
何か話したいことがあるのだろう、と思ったのだが。
どうやらそうでもなかったさ？
あ、と。そこで引っ掛かりを感じた天化は苦笑する。
いま俺っち、ちょっと寂しいとか悔しいとか思ったかも。
一瞬の感情はすぐ酒精とともに霧散して、自分が本当にそう思ったかどうかももはや定かではないのだけれど、天化の上には笑みだけが残った。
そんなことすら悪くない気分なのだから、酔いというのは度し難い。
「何だあ？」
頭上の月と手元の杯しか見ていないかのようだった飛虎が、すかさず声を掛けてくる。
こっちこそなんだ、さ。親父、俺っちをずっと見てたのさ？
先刻の感情を、追うことはない。呑みながら捕まえる言葉は、いつもいまのもの。
「へへっ、なんでもねえさ。親父、細かいこと気にしてるとさっさと禿げちまうさ？」
「何言ってやがる、俺はまだまだ現役だぜ？」
軽口を返す。やっぱり軽い言葉が返る。ついでにぱこんと背中を叩かれる。
天化は揺れる杯を舐めた。黙って飲む酒も旨いけど、やっぱり賑わしいのがいいかと思う。
「ん〜、でもやっぱフケたさ。
オヤジ、前からこんなしみじみ酒飲んでたさ？」
も一度ばしんと今度は頭をはたかれた。
「静かに呑む酒の味がわからねえのはお子様ってもんよ。
オメェもだいぶ大人になったかと思ったけどよ、まだまだだなあ」
酒が回っているから力加減が雑さね、この酔っ払い・・・・天化は頭をさすってぼそっと呟く。
どこからどー見てもオヤジじゃねえか、まったく。
そのどことなく安堵した笑いも。こちとらまだ餓鬼で悪かったさね。
そういうやっぱり軽口を、返してやるのも悪くはなかった。
でも。
ここにしんしんと年月が降り積もっているのが見えてしまって。
彼が朝歌を離れたのは、年端もゆかぬ正真正銘のお子様だった頃。
天化が酒の味を覚えたのは飛虎からではないのだ。
その頃からもう飛虎は言葉を介さずに酒を楽しんでいただろう。
けれどいま、それに相伴する大人はもういない。友も、妻も。
たぶん天化は話したかったし聞きたかった。
離れた間の自分と相手を細大漏らさずじっくりと。
黙って呑むのも旨いけど、それだけでは満たされきらない。
でも。
天化はそれ以上反論はせず、杯を干す。
「呑むさ」
父の手から酒壷を取り、二つの杯にとくとくと注ぐ。
二人はどちらからともなくそれを掲げ、杯を合わせるとかちゃんと響いた。
離れた分の年月が、それで合わさるわけではないのだけれど。
ここにあるのはいまだから。
いま二人は杯を交わせる距離に在るのだから。
それこそが何より重要なことなのだ。
親父は星霜を重ねた。多くを失い、多くを育て、変わらず酒を味わいながら、変わらず失った者を愛している。
息子は星霜を重ねた。酒を覚え、武芸を覚え、沈黙の味わいも知りながら、変わらず親の前では子供なのだ。
それが、「いま」。
波打った杯に浮かぶ二つの月を、二人はそれぞれ呑み干して。
黙って飛虎は手酌を重ね、天化は煙草に火を点けた。