紫陽銀珠



青峯山にはその名のとおり青々と樹木が茂る。
さあさあと優しい雨が緑を濡らせば山はいっそう色濃く染まる。

瑞々しい生気に満ちたその美しさを天化だって理解しないわけではなかったのだが、
しかし雨が十日にもなれば、残念ながらもうそれを楽しむ余裕を持ち合わせてはいなかったのだ。


「いったいいつになったら雨上がるのさ?もう何日太陽見てないか忘れたさ」

雨が続けば毎日同じ洞内での筋トレと瞑想の繰り返し。
思いっきり打ち合いたい、そして走りたい。血気盛んな少年はそれが叶わない状況に苛立っている。
何せ最近ようやくにして道徳と剣での手合わせを許されるようになったところだというのに、さすがに室内ではそうはいかない。そして外に出るとすればそれは今のように無花果をもいでくるとか水を汲んでくるとかそんな生活上の必要からで、これがまた雨が降ればその手間は倍増するのだ。洗濯物だって乾かないし。

だから天化は傘の上で鳴り続ける雨音にうんざりして隣を歩く師父につい零した。

道徳にそれを言ってどうなるものでもない。
そんなことを百も承知でそれでも言ってしまうのは、決して褒められたことではないだろう。
でも、だからって。

「太陽なら、ほら、そこらにいっぱい咲いてるじゃないか!」

そんなふうに楽しげに笑って辺り一面に咲いているアジサイを示されても。

アジサイ。紫陽花。
その言葉を理解するのが一瞬遅れたのも、「何バカなことゆってるさ」とさくっと突っ込むことができなかったのも、一緒に笑うことができなかったのも、ひとえに天化に余裕がないことによるのだけれど。

「・・・・・。」

冷たい視線で師父を見遣ると、そこには悩みなんて世界にひとかけらもないかのような能天気な笑顔。
それはさらに天化の苛立ちに拍車をかけて、思わず彼は目の前の花に苛立ちをぶつける。
枝を折る気はなかったけれど、鋭い蹴りが大輪の花の表面を掠めた。

ばさっ、と。花の上に降り積もった滴が思いの外大きな水飛沫となって落ちる。
それとともにいくつかの小花が散る。青に紫。まだ若い黄緑に白。
一つ一つの花は宙を舞い水溜りに浮いてもそれぞれに完全な形を備えている。
道徳が足を止めて天化を眺めた。

師に従って天化も立ち止まる。八つ当たりだとわかっている。
わかっちゃいるけど・・・・。 怒られるかな、と思いつつも苛立ちが収まらないどころか増幅して、天化はそっぽを向いた。 やり場なく地に落とした視線の先には散った花。自分のしたことでさらに苛々してちゃ世話ないさ、内心そう呟いても道徳の顔は見られない。沈黙の中ぱらぱらと雨粒だけが傘の上で賑やかに踊っている。

ぴしゃん。

けれど雨が一粒天化の頬に飛んできて、びっくりした天化はそちらを向いてしまった。
そしてすぐに不覚を悟る。やられたさ・・・。
雨粒を弾き飛ばしたのはもちろん道徳で、天化が向き直ったのを見てまた楽しげな顔をする。
怒らないさ?と天化が思うよりも早く道徳は明るい顔のまま言った。

「天化、これ見えるか?」

そして指を繰りもう一粒雨粒を弾く。

これ、って、雨粒のことさ?道徳はただ朗らかに天化を見ている。
視線を少し上に上げると銀色の細い線が幾筋も見える。
手を傘の外に伸ばせばいくつもいくつも雫が落ちる。けれど。
掌の上では確かに水の珠なのに空の中ではその形はどこにも現れず、じっと目を凝らしてみても、見えない。 天化は素直に首を振った。
「見えねえさ」

それじゃ、と道徳は思いっ切り爽やかに笑った。

「見えるようになったら洞府に帰ってきていいからな!」

へ?
天化が言葉を挟む隙もなく道徳は手を振ってさっさと帰っていった。
天化は呆然とひとり立つ。
傘の上ではひとり分の雨音がリズムよく鳴り続ける。
足元には薄紫の花が水の上で可愛く揺れている。

えーと。

雨粒が見えるまで帰ってくるなって言われたさ?    ちょっと違う。

コーチやっぱり怒ってたさ?    違う。

そうじゃない。そうじゃないはずだ。
道徳はどこかの師匠のようににっこり穏やかで実は目が笑っていないような、 そんな怖い笑顔をつくったりはしないから。
さあさあと銀の糸が天から降りている。水の珠はやっぱり、見えない。

ふうっと息をついた天化は長期戦を覚悟し、楓の木陰にちょっとした岩場を見つけて禅を組んだ。
左右にはやはりアジサイの、これはひときわ小さな花。
天化ひとり分の空間によく茂った青楓が十分な屋根を提供し、傘を閉じたから山の静けさが広がる。
響くのは優しい雨の音だけ。

静かな山の音はこんなときでもざわめいた気持ちを落ち着けた。ごく控えめな水と緑と花の香りも。
しばらくぼうっと雨を眺める。それはやっぱり粒ではなくて、細い銀色の筋にしか見えない。
それでも眺めていると細い筋もあれば太い筋もあるのに気付く。
太い大粒の雨は何だか見えそうな気もするのに。

試しに適当に指を弾いてみたらやっぱり空振りだった。

うーん。苦笑して天化は座を崩し、背後の樹にもたれかかった。
とん、と軽い衝撃に枝先の葉が震える。
さてどうすっかな、と天化が思った丁度そのとき、震えた葉から滴が落ちた。

あ。

あらためてその葉先を見る。一粒二粒と雨が集まって、膨らんで、そして、滴る。

滴り落ちるのは一瞬で、それはまだ天化にはやはり銀の筋にしか見えないけれど。
果てしなくたくさん天から降ってくる雨そのものよりは、何か、見えるような気がした。

もう一度姿勢を正して、水に濡れた深緑を見つめて。
滴が自らの重みに耐えきれず動く瞬間をじっと待つ。
引き絞られた弓のような緊張感がこんな小さな世界にもあるのだと天化は知った。

いくつもいくつも滴は落ちる。雨はさあさあと降り続く。

真剣に見ているからといってすぐに見たいものが見えるわけではなく、ときには見えないことへの苛立ちが募る。そうなってしまえばもう見ようとしても決して見えはしないから、天化は目を閉じて深く息を吐く。
すると雨音が耳を打つ。さっきこの音に苛立っていたはずなのに却ってこれに宥められていること、実は彼は気付いていない。
ゆっくりと息を吐いてそしてゆっくりと息を吸う。瞑想のため道徳から教わったことはただこれだけ。 そのとおりに息を整え、そうしてまた滴を見つめる。



どれくらいそれを繰り返したのか。
目の前の一粒を見ることに没頭していた天化はふと視界の色の変化に気付く。
空が少しだけ明るくなって来たのだ。
ちょ、ちょっと待ってほしいさ。今雨が上がるのは困るさ。
俺っちまだ全部の滴は見えねえんだから。

そう、何となくわかってきたのだ。 滴の落ちるときを予想して、そのときその瞬間に集中して宙を見つめれば、十のうち二つ三つは見えそうだ。 それは降りしきる雨粒を見ることからは、まだ途方もなく隔たっているけれど。
う〜。まだ止んでくれちゃ困るさ〜。少年は我侭に先刻と逆を願う。

そして次の一粒が葉から離れる瞬間を滴とともにじっと待っていたとき、
不意に彼はこの小さな世界だけでなく辺り一面が張り詰めるのを感じた。
痛いほどの剣気だ。

水滴から視線を外しゆっくりと目を上げれば。
近づいてきているのはもちろん道徳で、その纏う気にとても坐っていられず天化は立ち上がり半歩進み出る。空の下、弱まった雨がぱらぱらと天化を潤す。
滑らかに歩み天化と向かい合う道徳の手には煌く剣。初めて見るが、それが紫陽洞最強の宝貝、莫邪の宝剣であることは天化にも察しがついた。

天化は息を呑んで道徳を見つめた。一瞬たりとも目が離せない。
そんなことをすれば次の瞬間には天化の首と胴は別れを告げているだろうと、そう思わせられる鋭さ。
道徳の視線が天化の視線をまっすぐ捕らえた。
そのままひととき、ふたとき。
道徳がいつ動くのか、天化はそれだけを計って道徳を見つめ続ける。


ざっと宝剣が一閃し、空気が音を立てて切れた。

宝剣は天化の首筋に、少なくとも一瞬前にはそうだった場所に誤たず切りつけ。
天化は半身を捻って躱していた。

代わりに、か。天化の隣で揺れていた小さな花が鋭い風に切れて飛び、ひらひらと宙を舞って地に落ちた。
それは天化の眼に鮮やかに映り、きれいさ、と彼は思った。


「見えたかい、天化?」
気付くともう宝剣の光は消えていた。
見えるのは雨とアジサイと変わらずに明るい道徳の顔。

「あっぶねえさ!死ぬかと思ったさ!」
とりあえず天化は喚いてみる。
「あんだけ露骨に剣呑な気で前に立たれちゃ、嫌でも見えるさ」
来るってわかってるんだから。

言うと道徳はやっぱり笑った。
「ま、そうだな」
そうして天化の肩をひとつぽーんと叩く。

「さ、帰るぞっ!」
「そうさね」

また少し雨足は強くなってきて、天化の傘を師父と弟子は分け合って洞府に向かう。 降りしきる雨はやはりまだ天化にとって銀の糸、 来るとわかれば必ず見えるなんてほどに「見る」ことは容易くはない。 そんなことはお互い承知で、それでも二人は笑って帰る。 今見えたのは、数刻前には見えなかったものだから。

「青峯山の雨はいいだろう?」

「雨はどこでも雨さ。・・・・・まぁ、悪くないさ」

今雨が止まなきゃいいさと願う天化は、先刻の苛立ちを思い出してきまり悪げに頭を掻いた。
そういうときには見えないものが確かにある。師父の剣も、銀の水珠も、紫陽花のきれいさも。
明日も雨が降るだろう。天化は息を整えて、それらを見ることを願うだろう。

確かに道徳が言うように、何も空に太陽を求めることだけが修行ではないのだ。


受けたご恩ばかりが降り積もってゆきますTENさまに、
幾分かでもお返しできるようなものが書きたかったのですが。
頂きましたリクエストは「紫陽花に寄せて、師弟物」。
何せ紫陽洞、紫陽花で書きたいことはもうぎっしり。それをどう書けるのか、これが亭主の精一杯。
実体験と愛情だけはぎっしり込めさせていただきました。 ご笑納頂けますと幸いです。
しかしリクエスト頂いておきながら書き上げる前にさらに素敵絵を頂戴する亭主って。 ほんとうにありがとうございます。

日本の「紫陽花」で書いていますが、実は嘘報告が必要です。
多くの紫陽花はあまり香りませんが、コアジサイは爽やかに控えめに甘い香りがするそうです。

さらに。・・鉄拳チンミがこんな修行をしていた回がかなりはじめのころありました。それを意識しています。
息が長く、今でも好きでいさせてくれる穏やかで質のよいこの漫画に敬意と感謝と懺悔を捧げます。
もっとも、これは封神演義の翻案であるかどうかはともかく鉄拳チンミの翻案には当たらないと考えます。
ご意見ご質問等あれば承ります。固い話でごめんなさい。

02.06.24 水波 拝

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